第138話
翌朝。
極東の秋空は晴れ模様で、涼やかな風が穏やかに空を吹き抜けていた。
空高くに白い雲がはっきりと浮かんでいるのを見やって、ヤマトはそっと深呼吸をした。朝の冷たい空気が肺を通じて全身を通り抜け、眠気の混じっていた意識が覚醒する。
(昔を思い出すな)
ヤマトが今立っているのは、アサギ一門の屋敷内に整えられた中庭だ。快適な空間だった屋敷と同様に、ここの中庭も綺麗に整えられている。足元には細かな砂利が敷き詰められ、しっかりとした踏みごたえをヤマトの足裏に返してくれる。
長年愛用してきた木刀を正眼に構える。
「ふぅ――」
上段へ構え、振り下ろす。縦一文字の軌跡を空想し、そこから僅かもぶれないように、繰り返し木刀を振っていく。
物心ついてからずっと、ヤマトは一日も欠かさずに木刀を握ってきた。その甲斐あって、かつては指先にまで意識を張り巡らせながら繰り返していた素振りも、今では無心のままに繰り返せるようになっていた。
睡眠中にぶれていた身体の感覚が、段々と意識に適合していく。身体に熱が溜まっていく心地よさを覚えながら、ヤマトは神経を冴え渡らせる。
「む?」
ふと、ヤマトの耳に誰かの足音が聞こえてくる。
覚えのある気配に素振りを止めて、ヤマトは後ろを振り返った。
「ヤマト、ここにいたのか」
「ヒカルか」
朝から全身鎧を身につけたヒカルがそこに立っていた。ずいぶん気合の入った出で立ちのように見えるが、まだ起床したばかりだからか、声の端々が微妙に甘い気はする。
ゆっくりと縁側から中庭へ足を下ろしたヒカルは、そのままヤマトの方へ歩を進める。
「すまない。邪魔をしたか?」
「構わん。もうほとんど終わったようなものだ」
事実、既に刀術に習熟したヤマトにとって、毎朝の素振りは身体を叩き起こすためにやっているようなものだ。欲を言えば、あと数回は刀を振りたいものだが、それは今すぐでなければならないものでもない。
構えていた木刀を下ろして、身体の中にこもる熱を溜め息にして吐き出す。じんわりと額に滲み出した汗が、秋風に吹かれて冷たく感じる。火照った身体には、それが少し心地よく感じられた。
「それで? 何の用だ」
「昨日話したことについて、今の内に話しておこうと思ってな」
昨日――つまりは、昨夜の夕食の席でアズマと話した内容のことだろう。小難しい話は勘弁とばかりにヤマトはさっさと抜け出してしまったが、ヒカルの旅に同道するのだから、流石に知らんぷりするわけにもいかない。
「聞かせてくれ」
「魔王の右腕の場所については、ヤマトが言った通りで間違いはないだろうということだ」
「やはりか」
ヒカルの言葉を聞きながら、ヤマトも小さく頷く。
極東へやって来た目的である、ここに封印されたと伝えられた魔王の右腕。ヤマトが故郷にいた頃にその名を聞いたことはなかったが、それらしいものを封印しているという話だけならば、僅かながらに聞いた覚えはあったのだ。
期待半分でヒカルに伝えていたことだったが、成果はあったらしい。
「首都カグラの北東に位置する、霊峰シュテンの社。確かに、そこ以外で考えられそうな場所はないらしい」
霊峰シュテン。
広大な平野の上に設けられた首都カグラの北東に位置し、極東の中でも相当の高さを誇る霊峰だ。神々が住まう山としても伝えられ、一般人が立ち入ることは原則として禁止されている。過去に、無闇に山へ立ち入った人々の罪に怒った神の手によって、山が火を吹いたという伝説が伝えられているからだ。
現在では、神皇の名の下でカグラ一門が治めるように定められており、一門のごく限られた人間のみが立ち入れる場所になっている。
「許可は貰えたのか?」
「うん。一門の者が同行する必要はあるが、視察するだけならば問題ないという話だ」
「第一関門は突破だな」
そう言ってみせるが、関門はもうほとんどなくなったも同然と言っていい。あとは、実際に現地へ赴いて、封印に異変がないことを確かめるだけなのだ。ヒカル本人が行く必要があるかも疑問なほどの、お小遣い程度の働き。油断しないようにと厳しく言ってみせているにすぎない。
そんなヤマトの意図を察してか、ヒカルは神妙な面持ちで小さく頷く。
「ねぇ、ヤマト。なぜ、そのシュテンという山に魔王の右腕があると考えたのだ?」
「ふむ」
「言い方は悪いが、ただ歴史があるだけの火山ではないのか?」
極東にこもって生きてきたヤマトだったなら、そのヒカルの言葉に反発を覚え、何か言い返そうとしたのかもしれない。だが、大陸に渡り、帝国によって開発された新たな技術や知識を得た今のヤマトならば、ヒカルの言葉には仄かに苦笑いを漏らす他ない。
ヒカルの言う通りだ。かつて山が火を吹いた――噴火したという歴史がある以外は、霊峰シュテン自体はただの火山と言っていい。
ゆえに、ヤマトが霊峰シュテンに目をつけた理由は、少し別のところにある。
「シュテン自体に何かがあるわけではない。だが、かつてのアサギ一門の手によって、シュテンにはとある封印が施されたと伝えられている」
「封印?」
首を傾げるヒカルに頷いてから、ヤマトは言葉を続ける。
「八十年ほど前のことだ。極東全てをアサギ一門が支配するようになってからしばらくして、カグラを中心に、極東の各地に異変が発生した」
「異変か」
「あぁ。鬼が大量発生し、街々を襲撃して回ったという話だ」
首都カグラに来る途中の山間の村で、ヤマトたちは鬼退治の任を請け負った。ヒカルたちは実際に相見えていないものの、鬼が一体だけでも相当な脅威であったことは、パーティ全員の共通認識として理解されている。
そんな鬼が、極東各地に大量発生した。
「悪夢だな」
「数日の間続いただけだが、これによる死傷者は多数。街のほとんどは壊滅的な被害を受け、機能不全に陥ったという」
これの補填をするために、アサギ一門が身銭を切って政治に取り組まなくなり、没落の原因になったという背景もあるのだが。
今は、それを置いておくとして。
「俗に“百鬼夜行”と呼ばれたその事件は、元凶となった鬼を霊峰シュテンの社に封印することで鎮められたという」
「じゃあ、それが?」
「恐らくは魔王の右腕だ」
以来、封印はアサギ一門の者によって管理されてきているという。落ち目になってなお、シュテンがアサギ一門の管理下に置かれていることには、そうした事情が関わっているわけだ。
改めて細かな事情を聞いたヒカルは、納得したように深々と頷く。
「今回のことは、渡りに船だったというわけか」
「まぁ、そうなる」
ヒカルの勇者としての立場を利用して、アサギ一門とどうにか交渉しようというのが、最初の計画だったのだ。それと比べれば、行き当たりばったりの結果とは言え、ずいぶんと順調に事態は進んでいる。
想定以上に短い帰郷に終わりそうではあるが、それもまた成り行きというものだろう。
ヤマトとヒカルがそうした会話をしていたところへ、横から少女の声が入ってくる。
「――ヤマト様」
「む?」
言われ慣れない呼び方に、首を傾げながらヤマトは振り返る。
「ホタルか」
「えぇ。少しお邪魔してもいいですか?」
中庭へ下りてきているのは、深窓の令嬢らしい高級な着物を身につけたホタルと、その後ろに控えているハナだ。
先日の騒動からホタルを救出してから、ヤマトからホタルに向けて話しかけることはそこそこにあっても、その逆が行われるようなことは、そうはなかった。ホタルが無口な性質であることと、ずいぶんな人見知りであることが理由だろう。
一日を経て、どうにか言葉を交わしてくれる程度にはなれたのだろうか。そこはかとない嬉しさを覚えながら、ヤマトはホタルに頷いてみせる。
「構わない。何の用だ?」
「昨日の礼を、改めてしたいと思ったのです」
年に似合わず律儀な少女だ。
思わず笑みが零れそうになるのを自覚しながら、ヤマトはホタルの言葉を待つ。
「先日は助けて頂き、ありがとうございました。あなたがいなければ、私は今頃ここにはいられなかったでしょう」
「……そうか」
真正面から臆面もなく告げられる感謝の言葉に、ヤマトはすっと視線を逸らす。
「こちらは、そのお礼です。どうぞ受け取って下さい」
ホタルが手招きするのに従って、ハナがヤマトの前に立つ。その手に握られているのは、どこか見覚えのある長刀が一振り。
「これは……」
「聞いたところによると、ヤマト様は刀をなくされたのだとか。その代わりになるかは分かりませんが、どうぞお持ち下さい」
ハナが差し出す長刀を、そのまま思わず受け取る。
華奢な見た目に似合わない、ずっしりとした重みを手に感じる。その重さは、かつての愛刀よりも若干上だろうか。その分、何度斬っても大丈夫だろうと思える頑強さが感じられる。
何を考えるでもなく刀の柄を撫でたところで、ヤマトは先程覚えた既視感の正体を理解する。
「これは、お前が持っていたものではないのか?」
「えぇ、そうです」
この長刀を見かけたのは、ちょうど昨日のことだ。
市場で一人佇むホタルを発見したとき、彼女が大事そうにこの刀を背負っていたことを覚えている。流石にホタル自身が使う刀ではないにしても、それなり以上の思い入れがあるのだろうと考えていたのだが。
手にした刀の扱いに躊躇するヤマトに向けて、ホタルは口を開く。
「私が持っていても仕方のないものです。あなたが持つに相応しい」
「だが、な」
「不必要と思うのなら、どこかに捨てて構いません。もうあなたのものですから」
存外にホタルの口調は強い。これ以上ヤマトが言葉を重ねても、ホタルが意思を変えることはないだろう。
諦めの溜め息を吐いたヤマトは、頷きながら、手にした刀を腰元に差す。
「ありがたく受け取ろう。壊しても知らんぞ?」
「構いません。どうぞ存分に使ってください」
ホタルの言葉に頷きながら、ヤマトは腰元の刀をそっと撫でる。
聖地で愛刀を失って以来、長らく軽かった腰に重みが加わった。木刀をフラフラと揺らす感覚にも慣れつつあったが、やはり鉄刀を下げる感覚の方が、ヤマトの身体には馴染んでいたらしい。
ずいぶんとしっくりくる手応えに満足気な息を漏らして、ヤマトはホタルに改めて頭を下げた。