第129話
暗闇に包まれた洞窟は薄っすらと肌寒く、一歩ずつ前へ歩むごとに体温が奪われていく。
先程見た女幽霊に散々騒いでいたノアも、既に騒ぎ疲れてしまったのか、洞窟をウロウロと放浪する亡霊を見ても、もはや悲鳴も上げなくなっていた。
「いやさ」
「む?」
「こんな当たり前みたいな顔してフラフラされてたら、嫌でも慣れるよね」
そんなノアの言葉に、ヤマトは苦笑いと共に首肯する。
最初に見たのは高貴な女性の霊だったが、それ以外にも侍女らしき霊や兵士の霊など、多種多様な霊があちこちに浮かび上がっていた。皆、生前の姿を保ったままにボゥッと突っ立っている。死ぬ直前の姿を保っているらしく、血で身体が汚れていることなどはざらにあるのだ。害はないとは言っても、不気味な光景ではある。
とは言え、確かに数十もの霊を立て続けに見せられては、当初のような驚きは醒めてしまう。
かく言うノアたちの前に再び新たな霊――今度は、若武者だろうか――が現れるが、ノアは眉をピクリと動かしただけで、それ以上の反応はしない。
「昔は無性に恐ろしくて仕方がなかったのだがな」
「街の中にも普通に出てきたりするの?」
「時折、という具合だな。理性をなくせば鬼になると言っただろう? だから、早々に駆除される」
こうして、何をするでもなく立ち尽くすだけの姿を見ていては、彼らが危険な存在だとは到底思えないだろう。
だが、霊は放っておけば鬼に変ずる。その強さにもよるが、大半の鬼は凶暴かつ強大であり、容易に鎮めることもできない存在なのだ。下手に街中に鬼が出現すれば、大惨事の元となる。ゆえに、弱小な霊であっても、見かけたら即浄化するのが鉄則だ。
そのことを踏まえれば、こうして霊がウロウロと彷徨うこの洞窟は、少々異常だと言えよう。
そんなことを考えていたヤマトだったが、不意に足を止める。
「どうしたの?」
「元凶のお出ましだ。気張るぞ」
ノアに答えながら、ヤマトは腰元の鉄刀に手をかけた。少々違和感はあるが、この際構うまい。
戦闘態勢に入ったヤマトに続いて、ノアも戦闘の準備を始める。手元のランタンを地面に置き、ズボンのポケットから幾つかの珠を取り出す。
「準備がいいな」
「当然。備えが肝要ってのは、冒険者稼業の基本だからね」
俗に、光珠と呼ばれる魔導具だ。
起動させれば、周囲の魔力を吸い上げながらボンヤリと光を放つ。ただそれだけではあるが、機能の単純さ相応に魔力効率はよく、いかに魔力が少ない場所でも機能不全には陥らない。洞窟探索の際には必ず持っておきたいものだ。
そのままノアは腰を屈めると、光珠を前方目掛けて転がした。
「行こっか」
「俺が前に出る」
静かに転がりながら辺りを照らす光珠の後を、ヤマトとノアは無言で追う。
一歩ずつ前へ出るたびに、先程までとは異質な空気が漂っていることを実感する。寒々しいと言うよりも、重苦しく。ゾッと生気が抜け落ちそうなほどの怖気が、洞窟中に充満していた。
「これは……」
「鬼がいるな」
顔をしかめるノアに、ヤマトも頷いてみせる。
先程からヤマトたちに寄せられる怖気は、全てここの鬼が発生させたもの。そのあまりの圧力に、同類であったはずの霊ですら近寄ろうとしない始末だ。
(だが、これは存外に強大だな)
歩きながら、ヤマトは密かに刀を握る手に力を込めた。
鬼から放たれている威圧が、想定していたよりも遥かに強い。大陸の魔獣討伐と同じような感覚でいたが、ここの鬼はそれを凌駕した力を持っているはずだ。下手に世間へ露見すれば、災害と捉えられかねないほどに。
(ヒカルたちの応援を頼むか?)
その選択肢が、ヤマトの脳裏に浮かんだ――その瞬間。
鋭い殺気が、ヤマトとノアに叩きつけられた。
「―――っ!?」
「ヤマト!? これって……!?」
「気づかれたようだな」
少々、迂闊に踏み込みすぎたか。久しく実戦を経験していなかったから、勘が鈍っていたのかもしれない。
数秒前の己を呪いながらも、ヤマトは腰の刀を抜き払う。
「応戦するぞ!」
ここまで来たならば、刃を交える他に道はない。
それはノアも同意するところだったようで、即座に手にしていた光珠の残りを辺りにばら撒くと、魔導銃を前方へ構えた。
「ふぅ――」
整息。同時に、腹をくくる。
一度心を落ち着かせてみれば、後からふつふつと燃えたぎる闘志が湧き出す。間違いなく難敵。刀を交えれば、また新たな境地に至れるだろうか。
待ち構えるヤマトとノアの前に、おもむろにその鬼は姿を表した。
『ぉぉ………おおお………!!』
「あれは……」
「武者か?」
一見すれば、先程までの霊と同様の存在に思えた。
全身を覆う真紅の鎧兜に、手に握られた一振りの長刀。鎧の各所に折れた刀や矢が突き刺さり、痛々しい流血の後が随所に見られる。生前は、壮絶な戦いの果てに倒れた武者だったのだろう。
だが、その足取りは確かであり、放たれる殺気は肌が粟立つほどに痛烈。ともすればまだ生きているのかと疑いたくなるほどに、その気配は濃厚だった。
「霊じゃないんだよね?」
「無論。相当な手練だったようだな」
「どうすれば倒せそう?」
「力を全て奪う。刀を握れないほどに斬り刻めば、それで終いだ」
生前には、名の知れた猛将だったのかもしれない。
目を鋭くさせたヤマトとノアの前で、武者はゆっくりと刀を正眼に構えた。
『ぬぅぅ………!!』
「合わせるから、ヤマトは好きに動いて」
「助かる」
短く言葉を交わしたヤマトも、鬼に続いて刀を正眼に構える。
故郷で我武者羅に刀を振っていた頃では、恐らく刃の立たない相手だっただろう。大陸での武者修行の果てに、どれだけの力と技を得るに至れたのか。それを知るには、ちょうどいい試金石と言える。
ヤマトの身体から放たれた気迫を悟ったらしく、鬼はその気をすっと鋭くさせる。
生きた剣士を目の当たりにしているかのような感覚に、ふっと笑みが溢れた。気がつけば、口が勝手に動き出していた。
「――冒険者ヤマト。いざ、尋常に勝負!!」
『ぉぉおおおッ!!』
踏み込みながら、刀の切っ先を鬼へ向ける。前進する勢いのままに放つ、神速の突き。
鬼はその動きに対応してみせるも、刀の動きは鈍い。
「シ――ッ!!」
気迫が漏れ出すのと同時に、刀を振り抜く。
襲い来る鉄刀の刃に対して、鬼は即座に後退。ヤマトの刀の間合いから半歩外れながら、己の刀を振りかぶる。
『ぬぅん!!』
「くっ!」
手足の長さに、刀の長さ。それらの差は、ヤマトと鬼の間合いの差として如実に表れていた。
ヤマトの刀は届かない間合いだが、このままでは間違いなく、鬼の刀はヤマトの額を断つだろう。それは避けなければならない。
呻き声を漏らしながら半歩下がったヤマトの眼前を、鬼の刀は斬り裂いていった。後少しだけでも判断が遅ければ、その刃は届いていたはずだ。
「ふふ――」
思わず、ヤマトの口から笑い声が漏れ出た。
命の危機を目前にして、胸中の闘志が更に燃え上がる。刀を握る手に更に力が入り、視界が鮮明になっていく。呼吸すらも忘れて、ただ目の前の鬼だけを意識に捉える。
悲鳴を上げる身体を無視して、鬼目掛けて一気に間合いを詰めた。
「シャァッ!!」
『ぉぉおおッ』
下からすくい上げるような斬撃にも、鬼は紙一重の間合いで回避してみせる。完全にヤマトの間合いは見切られている。そう考えた方がいいだろう。
だからと言って、手を止めるようなことはしない。
斬り上げた勢いのまま、更に前へ。刀を振り下ろし、薙ぎ払い、突き込み、斬り抜く。猛然と間合いを詰めながら、刀のみならず、ときに拳や爪先を叩き入れる。
『ぅぅううう!』
それは、とても剣士らしからぬ戦い振りだっただろう。理性で身体を御すことをせず、ただ本能の赴くがままに攻め続けるような、獣じみた動き。
道場であれば破門も辞さないような刀術ながらも、それはどこまでも実戦的であり――戦の刀術だった。気勢を上げ、相手が臆するまで果敢に攻め続け、殺される前に殺す技。力を持て余すかのような荒れ狂う刀術の中に、確かな理を秘め、全てを必殺へ昇華させていく。
『ぅぅぉおおおッ!!』
叫びながら、鬼はヤマトの攻撃を受け止め続ける。斬撃を斬り上げ、拳を避け、蹴りに後退する。全てが紙一重の回避であり、この上なく理に合った動き。――それでも、反撃はできない。
始めは完璧にこなした防御も、段々と綻びが生まれる。斬撃を逸らし損ねたところから始まり、拳に身体が揺らぎ、蹴りが足を抉る。
このままでは、敗北を待つばかり。
そう判断した鬼は、始めて強硬な手に出る。ヤマトの拳が身体の軸を打ち抜いたことに構わず、自身も前へ。刀を振りかぶり、必殺の間合いにヤマトを捉える。これからどう動こうとも、この一撃を避けることはできない。
『ぉぉおおおおッッ!!』
「遅いッ!!」
鬼が勝利を確信した、その刹那。
ヤマトは更に奥へ踏み込み、肩から当身を喰らわせた。下から突き上げるような体当たりの衝撃が鬼の胸を打ち、身体を後方へ泳がせる。
「奥義――」
そのまま後ろへ倒れ込む鬼目掛けて、ヤマトは即座に刀を身体の脇へ寄せる。
威力よりも速度を、剛よりも迅を取った斬撃。
「『斬鉄』ッ!!」
一文字に、刀を振り抜く。
斬撃が鬼の胸元を真っ直ぐに斬り抜けたのと同時に、鉄刀の刃が甲高い音を立てて空を舞う。暗い洞窟の中、キラキラと光を反射させながら、刀の切っ先は床に深々と突き刺さった。
「ふぅ――」
整息。
ヤマトが構えをゆっくりと解くと、鬼はその場に膝をつく。手にした刀に力はなく、その場から微動だにしない。
錆びついた道具のように、ギギギッと硬い動きで表を上げた鬼は、ヤマトの顔を見上げる。
『――見事』
その一言と共に。
辛うじて姿勢を保っていた鬼は崩れ落ち、辺りに鎧を散乱させる。直後、辺りに充満していた禍々しい空気が霧散し、辺りに清浄な空気が入り込んでくる。
終幕だ。
構えを解いたヤマトに、ノアが微妙な面持ちで近づいてきた。
「終わったな」
「それはいいけど。結局、僕は何もしなかったね」
「余裕があったのはいいことだ」
「それもそうなんだけどさ」
答えながら、ノアは散乱した鎧を見下ろした。
先程まで殺意を振り撒きながら刀を振り回していたことが嘘のように、鎧の中には何も入っていない。見事に、甲冑だけが転がっている有り様だ。
「中の人は、もう遺体も残ってないってことかな?」
「さてな。もしかしたら、ただ鎧が動いていただけかもしれん」
「そんなことあるの?」
「持ち主が強い未練を抱いたまま遠方の地で死んだのならば、あるいは」
そう言ってみせるが、この戦乱の世においては、非業の死を遂げた武者など枚挙に暇がない。その一つ一つを物語に著そうとすれば、極東中が書で埋まるほどになるだろう。
確かに難敵であったが、あれでも、今の極東にはありふれた鬼の一人なのかもしれない。
(……考えていても、仕方のないことだな)
手に握っていたままの刀の柄を見下ろし、溜め息を漏らしながら、腰元の荷物袋に放り込む。
顔を上げたヤマトは、暗闇に閉ざされていたはずの洞窟に、仄かな光が差し込んでいることに気がつく。鬼と対峙していたときには、その圧力のあまりにさっぱり気がつけなかったらしい。
「あれは……」
「月の光かな? この洞窟の出口かもね」
ならば、あの武者は洞窟の出入り口を塞ぐように立ちはだかっていたのか。仕える主を逃がすために、殿の任を全うしてのかも――。
再び空想の海に沈みそうになって、ヤマトは頭を軽く振る。ヤマトたちには、関係のないことだ。
「出てみるか」
「賛成。ちょっと見てみようよ」
このまま何もせずに引き下がるというのも、芸のない話だ。
ノアと頷き合ったヤマトは、そのまま足を進める。回廊の先、壁と思われた場所に作られた短い階段を昇った先から、月明かりは漏れ出ていたらしい。
顔を出し、外の様子を伺う。
「これは……」
「廃城の跡地、なのかな? そんな感じはしないけど」
存外に明るい月明かりの下。
広々とした草原がそこにはあった。かつて城があったとは思えないほどに、遠くまで開けている。短い草に混じって、白い花々が点々と小さく咲いていた。
洞窟から抜け出て、辺りを見渡す。人気はない。そこだけが世間から切り離されたかのように、ひどく寂しい風景であった。
思わず、溜め息が漏れる。
「……少し休んでから戻ろうか」
ノアの言葉に、ヤマトも無言で頷く。
冷たい夜風が吹き抜ける草原の中。ヤマトは口を閉ざしたまま、真っ白な月が浮かぶ空を見上げ続けていた。