第127話
夕焼け空もだいぶ黒くなり、辺りも薄っすらと闇に包まれた頃合い。
集落から森の中を歩いてしばらく進んだところにある洞窟の前に、ヤマトたちはやって来ていた。
「ここが件の洞窟か」
「ずいぶん雰囲気あるねぇ」
ノアの言葉に同意の首肯をしながら、ヤマトは洞窟を覗き込む。
十メートル四方ほどの口が大きく開き、先まで見通せないほどに深くまで続いている。心なしか地下へ続いているように見えることも相まって、さながら地獄への門のような佇まいだ。
刻限も、ちょうど夕方と夜の境目。瑠璃色の空にはまだ星が浮かばず、太陽も月も姿を見せない。
(逢魔が時、というやつか)
口には出さないまま、そんなことを思い浮かべる。
逢魔が時。すなわち、魔のものが姿を現わす刻限。人が外を出歩くことは勧められず、古来より何らかの怪異が現れるとされる時間だ。
どこか怪しげな雰囲気。今すぐにでも霊魂の類に出くわしそうな、不気味な空気が流れ始める。それを払拭しようとしてか、ノアが殊更に明るい様子で口を開いた。
「ヤマト。その刀の調子はどう?」
「む? これか」
答えながら、ヤマトは腰元に下げられた刀を揺らしてみせる。
“鬼”の退治を請け負うにあたって、村長から借り受けた鉄刀だ。切れ味や頑強性には少々の難があるものの、鍛錬用の木刀とは比べ物にならない殺傷力を有している。木刀片手に戦場へ飛び込むよりは、遥かに賢い行動と言えよう。
「悪くはない。今回の任くらいならば、辛うじて切り抜けられそうだ」
「じゃあ、頼りにしてもよさそうかな?」
「あぁ。任せておけ」
そんな風にノアが言うことにも、理由がある。
それは、ヤマトとノアの後ろで空元気で立っているヒカルたちのことだ。村長たちに“鬼”退治を請け負った手前、疲労を極力表に出すまいとしているようだったが、明らかに動きは悪い。
レレイとリーシャもそうだが、特にヒカルの容態は酷いの一言に尽きる。強力な加護を宿しているとは言え、全身を甲冑で覆った姿のままで一日中歩き通したのだ。火事場の馬鹿力で今は毅然と立ってはいるものの、兜の下で顔面蒼白になっていることは想像に難くない。
(流石に、今のこいつらに戦いは任せられないか)
ヤマトの視線に気がついたのか、ヒカルが緩慢な動作で面を上げる。
「どうかした? ヤマト」
「……いや、何でもない」
「そう? まぁ、さっさと終わらせるとしようよ」
そんなヒカルの言葉には、全面的に同意するところではあるのだが。
(言って聞くような奴ではないか)
こうした役回りは、ノアに任せてしまった方が上手く行く。そんな具合に懸念を頭の隅に追いやってから、ヤマトは隣にいたノアを横目で伺う。
その視線に気がついたのだろう。ノアは呆れたような溜め息をヤマトに向けて零しながらも、ヒカルたちに向き直る。
「ヒカル。ここは二手に分かれようと思うんだけど、いいかな?」
「うん? 二手に?」
「そそ。ここで、“鬼”が逃げ出さないか、中で妙なことが起こってないかを監視する役割と、中に入って“鬼”退治をする役割」
つまりは、体力に余裕のあるヤマトとノアで中へ入り、ヒカルたち三人で入り口を見張るということだ。
そんな意図に気がついたらしいヒカルは、少しの沈黙の後、諦めたようにがっくりと肩を落とす。
「……そうだね。私たちはここで待っているよ」
「待っているんじゃなくて、見張りね見張り。あ、あと僕たちの荷物もちゃんと持っておいてね?」
「いざと言うときは、助けを出してくれ」。
その意図を言外に秘めたノアの言葉に、ヒカルの雰囲気は少しだけ軽くなる。兜を縦に揺らして、声を出す。
「分かった。任せて」
「よしっ! そうと決まればヤマト、早速作戦会議に入るよ」
殊更に明るい声を出してみせるノアに、ヤマトは感心の溜め息を漏らす。
「大したものだな」
「ヤマトが振ったくせに、何言ってるのさ」
それはまあ、その通りなのだが。
微妙に決まりが悪くなって視線を逸らしたヤマトに、ノアは小さな笑みを浮かべる。
「まぁいいけどさ。貸し一つね?」
「借り一つか。ずいぶんと高くつきそうだ」
「当然」
そんな言葉の応酬をするヤマトとノアを尻目に、ヒカルたちは洞窟の入り口が見える辺りに、簡易な休憩所を設営し始める。ヒカルが時空の加護で収納していた、キャンプ用の椅子やテーブルを並べて。その上に、簡単なお茶や軽食を並べていく。瞬く間に、ここが人気のない山中であることが疑わしくなるような、そこそこに整った休憩所が完成する。
ただ待機するだけの仕事だ。無理に地面の上に突っ立っているよりも、ああして少しでも英気を養った方が、余程効率的と言える。そんな理屈は、確かにヤマトにもノアにも理解できるのだが。
「……僕も残ろうかな」
「おい」
「冗談だって。でも、相変わらず無茶苦茶だと思ってさ」
ノアが言っているのは、ヒカルの時空の加護のことだろう。
今回ばかりは当人の体力が問題になって、戦闘では機能しなさそうなものの。転移や未来視に加えて、物品収納まで、その使い道は多岐に渡っている。即座に休憩所を整えられたのも、その力によるところが大きい。
恨めしげな視線を送るノアの視線を遮るように、身体の位置をずらしてから。ヤマトは口を開く。
「俺たちもさっさと済ませるぞ。できれば、夜までには帰りたい」
「分かってるって」
なおも名残惜しそうな雰囲気を放ちながらも、ノアは洞窟へ視線を戻す。夜闇が相まって、相変わらず不気味な佇まいだ。
「ここが“鬼”の寝床なんだよね?」
「村の者の話を信じるならば、そうなるな」
「でもさ、“鬼”だなんて、ずいぶんオカルトな感じじゃない?」
「ふむ」
そんなノアの言葉に、ヤマトは思わず小首を傾げる。
「オカルトか?」
「そりゃそうじゃない? “鬼”だなんて、本当にいるわけじゃないし」
「む?」
引っかかりを覚える。
「“鬼”はいるぞ?」
「え?」
「………」
「………」
しばし、無言のときが流れる。
どうやら認識の齟齬が生じているらしいと感づいたらしく、ノアが先に口を開いた。
「見たことあるの?」
「無論」
「本当に?」
「嘘を吐いてどうする」
それほどまでに、信じがたいことだろうか。
思わず自分の記憶が不安になってくるが、確かにヤマトの記憶には“鬼”の姿が刻み込まれている。
(だが、そうだな――)
思い返してみれば、大陸に渡ってからは“鬼”の姿を僅かでも見たことはなかった。相応に曰くつきな場所を巡った自覚もあるが、“鬼”が居着いているような気配も感じなかったのだ。長らく共に旅をしてきたから、ノアとは全く同じ体験をしてきたと錯覚してしまっていたのだろうか。
(ここに特有なものだったのか?)
この極東ではありふれた――とまでは行かずとも、せいぜい珍しい程度には存在していた“鬼”。彼らが、大陸の方にいない理由は何だろうか。
そんなことに思いを馳せるヤマトだったが、その思考を遮るように、ノアが声を出す。
「それじゃあ、“鬼”ってどんな奴なの?」
「ふむ。どんな、か」
その問いに即答しようとして、ヤマトは口を閉ざす。
“鬼”とは、どんな存在であるか。初めて聞いた者ならば、当然浮かんでくる疑問ではあるが。
「……上手く説明できんな」
「何それ」
ノアの視線が一段階冷たくなる。
思わず背筋を正すヤマトだったが、続く説明の言葉は出てこない。それを悟ったノアが、続けて口を開く。
「じゃあ魔獣とは違うの?」
「違うな」
その言葉は、すっと出てきた。
「どう違うのだ?」と問うような視線を向けられて、ヤマトは頭の中で知識を整理する。
「魔獣とは、獣が魔力によって変質したもののことだろう?」
「まぁ、そういう説が有力だね」
それは帝国のとある研究機関が出した学説だ。
人々や集落を襲う理性なき魔獣たちは、その根源を辿っていけば、人と寄り添って生きている獣に帰着する。そして、魔獣と獣の違いは魔力の有無ただ一つに集約されるというのだ。身体の中で自然と魔力を吐き出す獣と異なり、何らかの原因によって魔力を体内に溜め込むようになった個体が、魔獣としての力と凶暴性を得る。言わば、魔獣とは突然変異によって生まれてしまった獣なのだ。
噂話ではあるが、また別の研究所においては、弱い魔獣を元々の獣へ戻す実験にも成功しているという。
ひとまず、それは置いておくとして。
「“鬼”には、そんな元となる種が存在しない。どこからともなく現れては、災いをもたらす者共だ」
「まだ見つかっていないだけじゃないの?」
「かもしれん。が、現実にはあるまじき風貌をしているのも、また確かでな」
「って言うと?」
小首を傾げるノアに、ヤマトは脳裏に記憶の“鬼”の姿を描き出す。
その“鬼”に出会ったのは、ヤマトが刀を握り始めて間もない頃。ちょうど、今のような逢魔が時だったはずだ。刀術の自習を一人でしていたときに、いきなり声をかけられたことを覚えている。
(だが、あいつは――)
溜め息と共に、首を横に振る。
不思議そうな表情を浮かべるノアをチラリと伺い、ヤマトは改めて口を開いた。
「正しく千差万別だ。俺が出会ったのは……手足の生えた壺とかか?」
「ふぅん?」
「そいつは特に害はなかったがな」
早口にそう言い切って、ヤマトはその話を終わらせる。
なおも気にしているような風情だったノアだったが、百聞は一見に如かずと思い直したのだろう。その視線を、洞窟の中へ引き戻す。
「じゃあ、ここにいる“鬼”っていうのも、そういう奴の可能性はあるのかな?」
「ないとは言えん。が、あの村を襲うくらいだ。相応に凶暴な“鬼”ではあるのだろう」
「戦いになるかな」
「恐らくは」
「面倒だなぁ」
“鬼”の正体が分からない以上、もう少し気負うべきではあるのだが。ノアがわざとそんな言い方をしていることに気がついて、ヤマトはふっと口元を緩める。
「あまり身構えていても仕方ないな。手早く行くとしよう」
「賛成。明かりは僕に任せてね」
言いながら、ノアは地面に広げたトランクから、携帯用ランタンを取り出す。火を用いず魔導の力で明かりを起こす、冒険者には必需品とも言える一品だ。
軽く見た限り、洞窟の中は完全な暗闇に閉ざされている。魔導銃を主に扱うノアにとっては、あまり好ましい戦場とは言えないだろうから、彼が明かりを持つのは合理的な判断だ。
他にも携帯食や水筒などを手早く取り出したノアは、トランクを元通りの形に直してから立ち上がる。
「よしっ、これにて準備完了。さっくり行きましょうか」
「行ってらっしゃい。気をつけてねー」
洞窟へ向き直った途端に、背中越しにヒカルの緩い声が届く。先程まで気を張り詰めていたものが、椅子に腰掛けたことで一気に解けてしまったのだろうか。
ノアと顔を見合わせ、思わず遠い目になってから。ヤマトは、洞窟の中へ脚を踏み入れた。