第124話
季節は秋。
一ヶ月ほど前までは暑さに苦しんでいたことなどは忘れて、今や涼やかな――ともすれば寒々しくもある風が、辺りを吹き抜けていく。人々は冬の予感に身体を縮まらせ、早くも春の訪れを待望する。それが、大陸に住まう人々にとっての秋だろう。
だが、遥か東に位置する島国――俗に極東と呼ばれる地においては、秋はまた少し違った見方をされるようだ。
「――見えてきたよ!」
「ふむ。存外に近かったな」
冷たい風が駆けながらも、穏やかな陽射しが暖かい大海原。
そこを走る一隻の船の甲板に、彼らはいた。
一人は、性別の判断ができないほど中性的でありながら、世も世ならば傾城の名で崇められ、人々が胸を熱くさせるだろう美貌の持ち主。紺色の髪と瞳はしっとりと流れ、得も言えぬ色気を醸し出している。強く抱けば折れてしまいそうなほどに華奢な身体つきをしている他方で、彼女から受ける印象は活発なもの。瞳の奥に宿った明るい光が、その理由だろうか。総じて、どこか浮世離れした人物だ。
そんな少女(?)に話しかけられたのは、むっつりと不機嫌そうな表情を浮かべた男だ。この船が行く先である、極東出身者の特徴――黒目黒髪がよく映えている。傍目からは細身に見える他方で、その腕や脚からは、丹念に鍛え上げられた筋肉が確かめられる。腰元に木刀が差されている辺り、武道家だろうことは分かる。さながら、先の少女(?)の護衛役のような風体だ。
決して大きくはない船だが、船員の数は多い。その中にあって、彼ら二人の姿は少し目立っていた。
「あそこがヤマトの故郷?」
「まぁ、そう言えるか」
黒髪の男――ヤマトが、薄っすらと見え始めた島に視線をやりながら、小さく頷く。
賑やかに商船が行き来する港街と、その奥にそびえ立つ山々。海からこの景色を眺めた経験など皆無に等しいものの、確かに、あそこは自分の故郷なのだと、ヤマトは強く実感することができた。胸の奥から、暖かな感情が溢れ出す。
ふと、隣にいた少女(?)が妙に生暖かい視線を送っていることに気がつく。
「何だ」
「いや、ヤマトもそんな顔ができるんだなぁって」
「は?」
思わず不機嫌そうに低い声を上げながら、ヤマトは自分の頬に手を当てる。特に変わったところはないはずだが。
「別に表情は変わってないけど、目が変な感じだったよ。なんか、優しい感じだった」
「……そうか」
何と答えることもできず、そっとヤマトは視線を逸らす。
そんなヤマトの様子に、少女(?)はふふっと朗らかな笑みを零した。
『くっそ羨ましいなチクショウ……!!』
『俺たちの前でいちゃいちゃしやがって』
『あと少し、あと少しの辛抱だ』
どこからともなく聞こえてきた怨嗟の声に、ヤマトは溜め息を漏らす。
「いつもいつも、飽きない奴らだ」
「本当にねぇ」
のほほんと答えてみせた少女(?)の顔を、ヤマトはジットリと湿度の高い視線で睨めつける。
「何?」
「いい加減、言ったらどうだ?」
「いやぁ、港もすぐそこだし? 今更じゃない?」
全く悪びれた様子もなく笑ってみせる少女(?)には、呆れることしかできない。
(確かに、外見だけならば上等なのだがな)
紺色の髪と瞳。大陸人らしく目鼻立ちのはっきりした顔をしているが、極東の人間であるヤマトからしても、その美貌が陰ることはない。ヤマト自身が何も知らぬ男であったならば、ふとした拍子にコロッと心奪われてしまうだろうことは、想像に難くない。
とは言え。
(こいつは、れっきとした男だからな)
そこが、全ての問題だ。
可憐な少女にしか見えない顔立ちとは裏腹に、その性別の方は、紛れもない男なのだ。更に性質が悪いことに、本人は積極的に自分の性別を明かそうとはしていない。むしろ、勘違いする人々の反応を見て、どこか面白がっているような節すらある。
いい加減慣れてきたが、相当に度し難い男だ。
「いい性格だな」
「それこそ、今更でしょ」
「違いない」
思わず、苦笑いが漏れる。
彼――ノアの厄介な性格ゆえに引き起こされた問題には、たびたび悩まされてきたものの。ヤマトからすれば、既に数年のつき合いにもなっているのだ。本気で煩わしければ、さっさと退場願うくらいのことはしている。
つまりは。
(俺も、ノアと同類ということか)
流石に、何も知らない男たちの反応を見て面白がっているだとか、そんな部分までもが似ているとは思わないが。
それでも、長年二人旅が続いたほどに馬が合ったのだから、ヤマトとノアの相性は相当にいいのだろう。
まぁ、今そんなことを考えていても仕方ない。それよりも目を向けるべきは、すぐそこにまで迫った極東の方だろう。薄っすらと島影が見えていた程度だったところが、今や、はっきりと港の街並みが望める程度には近づいている。
そこを見やりながら、ノアが口を開いた。
「ヤマトが大陸に渡ったときも、あそこの港を使ったの?」
「む?」
「極東って、大陸との交易を一つの街に絞ってるって話だったから。違うの?」
「……ふむ」
ノアの言っていることは、ある程度正しい。
確かに、極東で公的に交易が認められているのは、すぐそこの港街一つだけだ。それ以外の港へ大陸の船が入ることは許されず、どんな扱いを受けても文句は言えない――ということになっている。
「その決まりを定めた者について、ノアは知っているか?」
「当主じゃないの?」
それが大陸の常識だ。だが、ここ極東においてのみは、その常識は通用しない。
数年もの間、極東には足を向けていなかったものの、大きく情勢が変化したという話は聞かない。なら、ヤマトの知識通りだろう。
「およそ百年前に島全体を統治していた、アサギ一門。彼らが、その条約を締結した」
「アサギ一門? それに、百年前って……」
何かに気がついたように、ノアが目を見開く。
それに首肯しながら、ヤマトは口を開いた。
「アサギ一門の栄華が続いたのは、五十年ほど前まで。長の継承問題を契機に、一門の求心力は暴落した」
「あぁ。だから他の港街も、公的には使えなくても、秘密裏に使えるってこと?」
「その通りだ」
要は、密輸に密航だ。
アサギの名の下に交易を行うことはできないものの、商人たちはそうしたルートを駆使して、大陸と交易することができている。――むしろ、推奨されている。決して公に認められることはないものの、極東にはそうした裏ルートを介して、大陸の物品が輸入されている。
「じゃあ、ヤマトもそのルートを使ったの?」
「いや。泳いで渡った」
「……はぁ?」
正直にヤマトが告白すれば、ノアが馬鹿を見るような視線を向けてくる。
「何が言いたい」
「何で船を使わなかったのさ」
「金がなかった。それに、誰にも知られるわけにはいかなかったからな」
「だからって、普通海を泳ぐかな普通……」
「渡れたのだから、いいだろう」
細かな事情を、今ノアに説明してやるつもりはないが。
故郷の里を飛び出そうと決意したヤマトが、己の身一つで大陸へ渡るためには、そんな方法くらいしか思い浮かばなかったのだ。
なおも頭痛を堪えるような素振りをノアは見せていたが、やがて大きな溜め息を漏らし、首を振る。
「まぁヤマトらしいのかもね」
「どういうことだ」
「馬鹿みたいってこと」
ずいぶんと直球な言葉選びに、ヤマトは口をつぐむ。
確かに、今にして思えば無謀もいいところな行動だ。海の魔獣に喰われることなく大陸へ辿り着いたことが、奇跡のようなものだろう。今再び泳いで大陸まで行けと言われても、それを成し遂げられるという自信は少しも湧いてこない。
それよりも。
「昔の話だ、気にするな」
「ふぅん?」
「それよりも、目的地について話さなければな」
話を逸らす。
少々露骨ではあったが、ノアもそれについては話すべきだと感じていたのだろう。ひとまず、ジットリとした視線を収めてくれる。
「魔王の右腕だっけ? それが、極東のどこかにあるんだよね」
そのノアの言葉に、ヤマトは頷く。
太陽教会の聖地ウルハラに封印されていた、魔王の心臓。初代勇者が戦い、勝利したものの討滅できなかった初代魔王の身体の一部であり、バラバラに分割されてもなお強い力を溢れさせる代物だった。それと同等のものが、極東にも封じられているという。
情報源がクロということについては、少し思うところもあるが。心配の種をなくすという点で見れば、確かに必要なことだろう。
「問題は、どこにその右腕が封印されてるかってことか」
「まぁ、そうだな」
「心当たりはある?」
問いかけるノアの言葉に、ヤマトは曖昧に頷く。
「初代魔王の一部と言うくらいだ。相応に大々的に封じられているはず。――となれば、一つ候補はある」
「それは?」
「首都カグラ。アサギ一門が本拠としていた都だ」
自信満々にヤマトは言ってのける。そこが違ったら、もはや心当たりはないに等しいほどだ。
かつて島中を統治するほどの栄華を誇った、アサギ一門の本拠。一門が支配する以前からも、島の中では一つ頭が抜けた特別な地として知られ、様々な物語の舞台となってきた場所だ。
「なるほど。じゃあまずは、そこに行けばいいってわけか」
「……その通りではあるが、問題はある」
ヤマトの言葉に、ノアは怪訝そうに首を傾げた。
「って言うと?」
「今の極東は、戦乱の真っ只中にある」
島中を一つにまとめていたアサギ一門が没落した後の話だ。空席となった極東の覇者の座を巡って、各地の家々が立ち上がり、互いの覇を競い合った。
「まだ勝者も定まってない状態だ。自然、カグラにも様々な者が出入りする」
「……つまりは」
ヤマトの言わんとしたことを察したのか、ノアは微妙にげんなりとした表情になる。
それに小さく頷いてから、ヤマトは口を開いた。
「今のカグラの治安は、一言で言えば最悪。何が起きても不思議ではないということだ」
「うーわ……」
嫌そうなノアの声は、風に乗ってどこかへ消え去り。
ヤマトたちの乗る船は、港街へと到着した。