第121話
熱狂の渦の中にあったことが嘘のように、コロシアムは不気味な静寂に包まれていた。我を忘れて罵詈雑言を浴びせていた観客たちは、冷水をかけられたかのような有様で、正気を取り戻している。
ヤマトは、目の前で倒れ伏すゴルドから視線を外し、そんなコロシアムを見渡す。
(ひとまず、不快な雑音は消えたか)
そっと息を漏らす。
自分の力ではなく、観客の力に頼って勝利を掴もうとする。そんな、妄執にも等しいゴルドの勝利への執着心は、決して共感も理解もできるようなものではなかったが、その力は認めざるを得ないだろう。不特定多数の第三者から向けられる悪意は、稀代の妖刀に近しい鋭さをもって、人の心を貫く。そのことにいち早く気がつき、利用しようとしたゴルドという男は、どこか尋常ならざる部分はあったのだろう。
もっとも、それも既にすぎたことだ。
「今は、あいつに集中すべきか」
手の中の木刀の感触を確かめながら、ヤマトはヒカルの方へ向き直る。
ゴルドは既に倒れ、相手方の残りはヒカル一人だけ。対するこちら側は、戦いによる消耗こそしているものの、ヤマトもアスラも五体満足で健在。ならば状況は、こちらが有利と言えるだろうか。
その答えは、否だ。
「アスラ。分かっているな?」
「えぇ。尋常な使い手ではありませんね」
緊張の表情を浮かべたアスラが、額から脂汗を滲ませている。それを見ているヤマト自身も、冷静を装う他方で、思わず身震いするほどの圧力を心に感じていた。
(……これが全力か)
戦慄のあまりに乾いた唇を舐めながら、ヤマトは目の前に立つヒカルを観察する。
身にまとっているのは、アルスの街で手に入れた聖鎧。ヒカル自身の清廉さを示すかのように、曇り一つない白銀の鎧が光り輝いている。この場において、ヒカルの周囲だけが清浄な空気に包まれているような錯覚すら覚えるほどだ。加えて、ヒカルが手に握っている聖剣。とても実用的とは思えないほど綺羅びやかな装飾が施された一振りだが、その刃に宿る力が絶大なことは、ヤマト自身がよく把握している。
そして、そんな強力な武具と互角な雰囲気を放つ、ヒカル自身の闘気。まだ荒削りではあるものの、思わず肌が粟立つほどの気迫が感じられる。ほんの数ヶ月前までは一般市民だったという言葉が信じられなくなるほど、その立ち姿は様になって、恐るべき威圧感を放っていた。
そんなヒカルを見やったアスラは、呆れたような溜め息を漏らす。
「頼れる勇者様なことはいいですが、これは少し、頼れすぎますね」
「違いない」
これだけの圧力を放ちながら、まだ完成に至っていないというのだから。救世の勇者という奴は恐ろしいものだ。
とは言え、あまり泣き言ばかり漏らしていても仕方がない。
「ふぅ――」
整息。
バクバクと早鐘を打っていた鼓動が徐々に収まり、意識がはっきりとしていく。
世界から不必要なものが排除され、それに伴って視界が鮮明になる。聴覚までもが鋭くなり、相対するヒカルの息遣いまでもが感じ取れるようになる。
(……足りないか?)
急速に深奥へ沈み込んでいく意識の中で、ヤマトはかつての戦い――黒竜と相対したときのことを思い返す。
今になって思えば、とても現実のように受け止められないが。あのときのヤマトは、これまで経験したことがないほどに戦いに集中し、目のみならず全身の感覚で戦場を把握していた。戦いに必要なものだけを選択し、ただ眺めるだけでは得られないほどの情報の深みまでを得る。
その極意を得ることができれば、きっとヤマトも武の頂の一端程度に届くのだろうが。
(まだまだ未熟ということだな)
とても、あのときの感覚は再現できそうにない。
そのことに僅かな落胆と、沸々と燃え上がるような闘争心を覚える。が、今はそれに気を払っている場合ではない。
「―――」
ヒカルが宿す時空の加護は、正しく強力無比。仮に先手を取られたならば、そのままヤマトたちは為す術なく押し切られてしまうだろう。
ゆえに。
(先手は譲れない)
アスラの方をチラリと見やれば、小さな首肯が返ってくる。
それを確かめてから、ヤマトはヒカルの様子を伺う。悠然と聖剣を構えているが、その立ち姿に隙はない。
「さて、どうす――」
攻め口を探ろうと、ヤマトが目を凝らした瞬間。ヤマトの脳裏を、鋭い危機感が駆け巡った。
何が何やら分からないままに、ヤマトは後ろを振り返る。
「なっ!?」
一瞬前まで、確かにヤマトはヒカルの姿を認めていた。僅か数メートルほどの間合いの先に、聖剣を手にしたヒカルが佇んでいたはずだった。
だと言うのに、今はヤマトたちのすぐ後ろにヒカルは立っている。手には紛れもない聖剣が握られており、今にも振り下ろそうと掲げられていた。
「ふんっ!」
「くっ!?」
咄嗟に木刀を振り抜こうとし――中断。体勢が崩れることを厭わず、後ろへ身を投げ出す。
直後に、ヒカルが振り抜いた聖剣の刃が、ヤマトが一瞬前までいた場所を斬り裂いた。
(鋭い太刀筋だ)
感心するのと同時に、ヤマトの背筋を怖気が走る。もし迎撃を選択していたら、今頃ヤマトはあれを身に受けていたはずだ。
だが、今何よりも危惧すべきことがある。
(先手を取られた!)
先手を取る――機先を制すとはすなわち、場の主導権を握るに等しい。
ヤマトがヒカルと対峙しているとき、頑なに先手を取ろうとしたことには、理由がある。
ヒカルが宿す時空の加護。身体強化や未来視などが強力なのは無論のことだが、加えるなら、瞬間移動の力がもっとも驚異的だとヤマトは考えている。自在に間合いをずらせるばかりでなく、相手の視界外へ即座に移動が可能なのだ。ヤマトたち武道家からすれば、完全に常識の埒外にある力。
その力を存分に使われては、ヤマトたちから勝ちの目は失われてしまう。
「来るぞ!」
アスラへ警告の声を飛ばす。それと同時に。
再び、ヒカルの姿がかき消える。
(後ろ――いや、違う!)
前後左右へ視線を彷徨わせたヤマトは、次に上空を見上げる。
ヤマトたちの数メートル上方へ瞬間転移したヒカルが、重力の助けを得ながら剣を振り下ろす。無論、そこに秘められた威力は、先程の比ではないだろう。
「避けろッ!!」
叫びながら、飛び退る。
聖剣の間合いから外れたことを確かめながらも、ヤマトは衝撃に備え、身体を丸める。――それが功を奏したのか。
「ぉぉおおおッッッ!!」
雄叫びと共に振り下ろされた聖剣の刃が、コロシアムの石畳を突き破り、地面へ滑り込む。
それと同時に、爆発。目には見えない衝撃波が辺り一面へ撒き散らされた。
「がぁっ!?」
衝撃波に乗って吹き飛んだ瓦礫が、ヤマトの身体を打ち抜いていく。
その衝撃に苦悶の声を上げながら、辛うじて急所だけを腕で庇う。次々に襲い来る瓦礫の嵐の中、ヤマトは同時に飛び退ったはずのアスラが、地に倒れ伏しているのを認めた。
「くそ……!」
思わず、悪態が口をついて出てくる。
ヒカルの力は強大だと散々に意識していたはずなのに、まだどこか、彼女のことを低く見積もっていたらしい。これはもはや、抗えるかどうかを論じることすらできない。全身全霊をもって加護の発動を阻止すべきであり、もし発動されたのならば、恥も外聞もなく、ただひたすらに耐え凌ぐ以外の道はない。
地に這うほど低い姿勢のまま、嵐の衝撃を堪え続ける。
「―――」
どれほどの時間が経過しただろうか。
ヒカルの起こした衝撃波が収まっていることに気がついて、ヤマトはゆっくりと身体の構えを解く。
「………っ」
一言で表せば、舞台は崩壊していた。
流石に観客席にまでは届いていなかった――届かせていなかったものの、ヒカルの猛威は、ステージ全体を破壊した。床一面に敷き詰められていた石畳は粉々に砕け散り、辺りに散乱している。正しく、災害にあったかのような有様。
コロシアムの壁際に、アスラが転がっている姿が目に入る。もぞもぞと動いてはいるものの、立ち上がるだけの力はないらしい。
かく言うヤマト自身も、果たして戦いを続けられるかについては、疑問が残る。辛うじて体勢を保ててはいるものの、全身がジクジクと痛みを訴えていた。
「む?」
苦渋の表情を浮かべたところで、ヤマトの耳にピシッと何かが割れる音が聞こえる。額の辺りから、その音は聞こえてきたらしい。
思わずそこへ手をやると、視界が一気に開ける。これまで薄暗かった世界が、唐突に明るさを取り戻した。
「これは……」
「やはり、お前だったか」
ヒカルの声が聞こえるのと同時に、カランッと乾いた音を立てて、顔に貼りついていた仮面が地面に落下する。
顔をしかめたヤマトを真っ直ぐ見つめながら、ヒカルは口を開く。
「どうして正体を隠していたんだ、ヤマト?」