第107話
ヤマトとノアが外へ出たとき、陽は既に地平の先へ姿を隠していた。茜色の光がラードの街を染め上げ、どこか物悲しい雰囲気が流れているような気さえしてくる。
秋らしく冷え込んできた風に身を震わせて、ノアは口を開く。
「ちょっと当てが外れたかな……?」
「ずいぶん覇気がない様子だったな」
話題の焦点は、無論シュナだ。
かつては武術大会連覇を達成するほどの強豪でありながら、今や街外れの自宅にこもるような生活を送っている。記憶の中にある、静かな気を秘めた仙人という佇まいは一変して、死期を目の当たりにした老人のような枯れ果てた姿が印象に残っていた。
「資格がなくなったって言ってたよね」
「あぁ」
ノアの言葉に、ヤマトも頷く。
去り際にシュナが言っていたことだ。なぜ、ゴルドを打ち倒して王者に返り咲かないのかというヤマトの疑問に、シュナは端的にそれだけを告げた。
「どういうことだと思う?」
「さてな」
「……ちょっと怒ってる?」
「かもしれん」
烈火のような憤怒、というほどのものではない。だが、チリチリと胸の内を焦げつかせるような苛立ちの炎が灯っていることは、ヤマト自身でも認められた。その怒りの矛先が、すっかり気概を萎えさせてしまったシュナに向いているのか、その元凶だろうゴルドに向いているのかまでは、ヤマトには判別できなかったが。
とは言え、それをノアに感じさせてしまうのは筋違いだろう。深呼吸をして、苛立ちを抑え込む。
「あの感じ、シュナさんはもう引退したってことかな」
「だろうな」
引退。
体力が衰えた先、いずれは引退せざるを得ないのかもしれない。とは言え、それもまだまだ先の話。共に腕を競い合ったはずのシュナが既に引退してしまったことに、一抹の寂しさを感じる。
「なんで引退したんだろうね。ゴルドに敗けたからとか?」
「ありえない」
推測を口にしたノアに対して、ヤマトは強い口振りで否定する。
「ふぅん?」
「奴は、敗北で心が折れるような者ではない」
「完敗だったのかもよ? 心に傷が残るくらいの」
「その程度の気概しかなかったのならば、とうの昔に挫折していたはずだ」
今一つ納得し切れていない様子のノアだが、ヤマトからすれば、その思いを引っ繰り返すつもりは毛頭なかった。
武を競う者――否、武だけではない。人と何かを競おうとし、更なる高みを目指して研鑽を積む者たちは皆、勝利に貪欲だ。誰が相手であろうと勝利を望み、例え完敗を喫したとしても、いずれ勝利することを信じて鍛錬する。たかが一人に敗けた程度で心は折れない上に、むしろ、その敗北を自らの糧としようとするはずだ。
そんなヤマトの確信を感じたのか、ノアは曖昧に頷く。
「じゃあ、結局理由は分からないままか」
「あれで頑固な奴だ。俺たちが手を出したところで、再び立つようには思えんがな」
「そうかなぁ……」
この辺りの感覚は、短期間とは言えヤマトがシュナと交流し、互いの技を競い合ったからこそ分かるものなのだろう。武を囓っているとは言え、武人とまではなれないノアには、なかなか理解しがたいはずだ。
なおも納得していない面持ちのノアだったが、ふとヤマトの目を覗き込む。
「ねぇヤマト。ヤマトが引退するとしたら、どんなとき?」
「何?」
思わず、目が点になる。
「それを聞いて何になる」
「シュナさんがああなった理由が分かるかなと思って。で、どう?」
「ふむ」
ヤマトからすれば、もはや論ずる必要も失せたくらいの話題なのだが。それでも、ノアは希望の目を捨てきれないらしい。
(仕方ないな)
こういうときにつき合ってやるのも、仲間の甲斐性というやつかもしれない。
「引退か。考えたことがないな」
「生涯現役のつもりってこと?」
「いや、いずれは刀を置く日も来るとは思うが」
まだまだ実感が湧かないものの、ヤマトもいずれは死ぬときが来る人間なのだ。体力の衰えを前に、刀を置かざるを得ないときが来るようには思える。が、やはり具体的なイメージは浮かんでこない。
ノアの視線を頬に感じながら、考えることしばし。ヤマトは改めて口を開く。
「刀を握れなくなったときか?」
「もう刀も持つことができなくなったときってことか。でもヤマトなら、爺さんになっても刀振り回せそうだけど」
「買い被りすぎだ」
そう答えるものの、刀が握れないほどに衰弱した自分の姿など、到底思い浮かばない。
思い返せば、故郷の地には百歳を越えても、依然として刀を振るご老公はいた。今どうしているかまでは分からないものの、寿命でくたばる姿すら想像できないほどに、快活で気力に満ちた男だった。
体力の衰えによる引退を除くならば、他にどのような理由が考えられるだろうか。
(怪我、病気、妻子、家来……)
様々なものを夢想してみるものの、ピンと来るようなものは何一つない。どれを得たとしても、何となく、自分は刀を握り続けているはずだという確信があった。
「――あぁ」
「思い浮かんだ?」
ふと、一つの答えが頭の中に浮かんだ。
期待するような表情のノアに頷き返しながら、ヤマトは一言ずつを絞り出すように、丁寧に声を出していく。
「俺が刀を握っている理由は、ただ一つ」
「強くなりたいんだっけ?」
改めて他人に言われると、気恥ずかしいものがある。とは言え、事実なことに間違いない。小さく頷いて、言葉を続ける。
「今よりも更に強く。まだ見ぬ強者と刃を交え、互いを知り。やがては更なる高みへ至る。その熱が、俺を動かしている」
「じゃあ、引退するときっていうのは?」
「熱が冷めたとき、だろうな」
その熱は、勝利への渇望と言い換えていいだろう。もしくは、最強への憧憬と言ってもいいかもしれない。
物心ついて刀を握り始めた頃に抱いた、根源的で純粋な願望。それが萎えたときこそが、剣士ヤマトの終着点なのだろう。そうなれば、潔く刀を置くはずだという確信があった。
「ヤマトにそんなときが来るかなぁ?」
「さてな。少なくとも、今はまだ想像すらできん」
「なんか、死んだ後もギラギラ燃えてる気がするんだよね」
そんなノアの言葉に、ヤマトは苦笑する他ない。
生きていることに越したことはないが、確かに、道半ばで力尽きたのならば。怨霊に化けてでも、再び武の果てを目指そうとする気はした。むしろ、人の身体に縛られたままでは会得できなかった力を前に、狂喜して刀を振り回しているかもしれない。
「じゃあ、シュナさんが引退した理由もそこなのかな」
「勝ちへの執着が薄れたというわけか」
なぜ、勝ちに未練がなくなったのか。
その問いへの答えまでは得られていないものの、ヤマトの胸中は幾分かすっきりしたように思えた。
「勝たなくていいってなったのか。でも、なんでだろ?」
「さてな。そこからは、当人に聞いてみる他あるまい」
飄々として底を知らせようとしないシュナが、ヤマトたちに真実を語ってくれるかは別として。
疑問がある程度解けたところで、ノアが一歩前へ足を踏み出す。続いて帰路を歩こうとしたヤマトだったが、ふと、その足を止める。
「ヤマト?」
ノアの声には答えないまま、ヤマトはシュナの家の暗がりへ向ける。影の中に身を潜めているものの、害意の類は感じられない。むしろ、ヤマトたちに声をかける機会を伺っているようでもあった。
「――何か用があるのか?」
「お気づきでしたか。流石ですね」
ヤマトが呼びかけると、暗がりから一人の青年が姿を現した。
「お前は確か……」
「アスラさん、だっけ」
ノアの言葉に、青年――アスラは首肯する。
確か、シュナの弟子だったか。すっかり覇気をなくしたシュナとは打って変わって、こちらのアスラは気力に満ち溢れているように見える。相当に鍛え込んでいるらしく、その身体つきを見るだけでも、なかなかの実力を持っているだろうことは伺えた。
「すみません。声をかける機会がなかったもので」
「構わん。それで、何用だ」
ノアとの立ち話で、思ったよりも時間を喰っていたらしい。夕焼け空は既に去り、瑠璃色の空に一番星が煌めいていた。
そろそろホテルに戻らなければ、ヒカルたちに心配をかけてしまうかもしれない。
そんな思いと共に、「さっさと言え」とヤマトが促す。
アスラも小さく頷いて、口を開いた。
「冒険者のあなた方に、依頼を出します。――僕と一緒に、武術大会に出場してくれませんか」
予想だにしなかった言葉だ。
戸惑ったように目を白黒させるノアに対して、ヤマトは黙したままアスラの目を覗き込む。癖っ毛の茶髪と同色の、茶色い瞳。
(真っ直ぐな目だな)
悪意や邪気などを欠片も感じることができない、眩い光を宿している。
ヒカルやレレイたち。数年前に出会ったシュナや、他大勢の武道家たち。その全員が等しく持っていた、純粋な決意を秘めた瞳だ。
それを確かめたところで、ヤマトはノアの方を見やった。
「構わないか?」
「……もう何も言っても聞かないでしょ」
「悪いな」
既にヤマトの性格を熟知したノアは、諦めたように溜め息を漏らす。
その様子に苦笑しながら、ヤマトはアスラに向き直った。改めて観察してみても、彼が武道家の名に恥じないだけの力を有していることは、疑う余地がないほど明白だ。
腕に熱い痺れが走るのを感じながら、ヤマトは口を開く。
「分かった。冒険者ヤマト、その依頼を引き受けるとしよう」
「―――っ! ありがとうございます! 」
礼儀正しく頭を下げるアスラと、苦笑するノア。
彼ら二人を見やりながら、ヤマトは寂しい腰元へと手を伸ばす。
(そうと決まれば、刀を調達しなければな)
武術大会まで日は少ない。今日はもう夜になってしまったが、明日からは慌ただしい時間が流れるようになるはずだ。
そんな予感を胸に抱きながら、ヤマトは星が輝く夜空を見上げた。