第106話
「確か、ここだったな」
「へぇ……」
ヤマトの言葉に、ノアは興味津々といった面持ちで辺りを見渡す。
アラハド共和国の首都ラード。帝国様式の建物が立ち並ぶ表通りの裏側にある、閑静な住宅街。そこを更に抜けて街外れまで出たところに、その家はあった。
「思ったよりも質素な家なんだね」
「欲のない、達観した奴だったからな」
五年ほど前に出会ったときのことを思い返しながら、ヤマトはノアの言葉に頷く。
この家に住んでいるのは、ヤマトがアラハド共和国を訪れた当時に、武術大会連覇を果たしていた武道家だ。ラードの東方に位置する険しい山岳地帯が出身と嘯くその者は、確かに尋常ならざる雰囲気と強さをもっていた一方で、どこか憎めない愛嬌を併せ持っていたことを覚えている。
その家屋の外壁は朽ち、ところどころが汚れてしまっているものの、大まかには清潔な状態に保たれていることが見て分かる。人が住んでいることの証左だ。
「どんな人だったの?」
「……一口で言い表すのは難しい。怪しいが、悪い奴ではない」
ノアは要領を得ないと言うように小首を傾げるが、ヤマトとしても、それ以上の説明は困難なところだ。
とにかく得体の知れない者だったことを覚えている。山岳地帯の出身という眉唾な情報もさることながら、全てに達観しているような飄々とした口振りに、何への執着心も見せない悟った態度。善とも悪とも言いがたい気質ながら、その考えだけは真っ直ぐで捻じ曲がってはいなかったから、当時のヤマトでもつき合えたのだ。
(仙人、か)
以前、本人が軽い調子で口を滑らせた言葉だったが。
今にして思えば、なるほど確かに仙人らしいのかもしれない。
「ともかく、会えば分かる」
「それもそうだね」
あっさりと頷いたノアは、まるで恐れる素振りも見せずに家へ歩み寄る。
窓枠にはめられた曇りガラスからは中を覗けないものの、仄かな明かりが漏れ出ていることだけは分かる。間違いなく、中に人がいる。
「すみません、誰かいますか?」
「――お客さんかい?」
扉の奥から、妙齢の女性のような、それでいて少年のような気さくさが感じられる声が届く。
戸惑ったような視線をノアがぶつけてくるが、ヤマトは無言のままで頷いた。
「えーと、えぇ。数年前に、僕の仲間があなたと知り合ったって話ですから、ぜひ挨拶できればなと」
「ふぅん、数年前ねぇ? まぁいいか、入りな」
その言葉と同時に、扉にかけられていた鍵がガチャッと音を立てて開かれた。
ノアに無言のまま促されて、ヤマトが先に家の中へ足を踏み入れる。
途端に目に飛び込んでくるのは、曇りガラスを通して外へ漏れ出ていた、暖かな光。次いで、決して広くはない部屋の中に置かれた家具の数々。要は、どこにでもありそうな、ありふれた家の内装だった。
その中心に置かれた大きなソファーに、その人物は静かに腰掛けていた。
「いらっしゃい。お客さんは久々だからね、歓迎させてもらうよ」
「……お前は変わらんな」
「へぇ?」
ヤマトの言葉に、その者はゆっくりと視線を上げる。
ヤマトの足元や胴を巡り、目鼻立ちや髪にまで至ったところで。ようやく、驚いたように目を見開く。
「はははっ、これは驚いた。ヤマトじゃないか」
「あぁ。突然邪魔して済まないな」
「君はそれを気にするようなタマじゃないだろう? ふふっ、だけど驚かされたね」
「よく思い出したな。忘れたままかとも思ったのだが」
「たった数年で忘れられるほど、君は印象の薄い男じゃなかったからね」
驚いたと口では言いながらも、その表情は平然とした表情のまま動こうとしない。微笑みを浮かべた表情のまま、じっとヤマトの姿を見つめていた。
(本当に、変わらない奴だ)
五年前は少し気味悪くも思ったものだが、今となっては慣れたものだ。むしろ、当時と全くと言っていいほど変わっていない姿には、妙な安心感のようなものすら覚える。
「それでヤマト。そちらの彼女は?」
「む? あぁ、そうだな」
彼女ではなく彼なのだが。さしもの慧眼でも、ノアの性別を見切ることはできなかったらしい。
「ノアだ。今は共に旅をしている」
「よろしくお願いします」
「あぁ、よろしく。それじゃあ、久し振りの自己紹介でもしようかね」
小さな咳払いをして、その者はソファーから立ち上がる。
まず一番に目に入るのは、とてもこの世のものとは思えない白髪だ。まるで絹地をそのまま裂いて作られたかのような、繊細かつ淡麗な白い髪が伸び、首元でサラリと流れている。次いで、ゾッとするほどに整った顔立ちだ。目鼻立ちがすっきりしていることもさることながら、この世の汚れなど何一つ知らないと言うかの如く、全てを包むような慈愛の微笑みを浮かべているのが特徴的。
およそ現実の人間とは思えないほどに、浮世離れした女性だ。怒りや哀しみの感情をどこかへ忘れてしまったような立ち居振る舞いは、正しく仙人と呼ぶに相応しい。
「シュナと言う。ここから東にある山岳地帯の出身だ。よろしく頼むよ」
その礼を受けたノアは、愛想笑いを浮かべながらもヤマトへ視線を寄越してくる。様々に経験を積んだノアとしても、彼女――シュナは、初めて出会うタイプの人間だったらしい。どう接するのがいいか分からず、戸惑っている。
そんなノアを放置しておくのも楽しそうだったが、今はそうしている場合ではない。
「早速だが、要件について話してもいいか?」
「ちょっと待ってくれよ。アスラ、お客人にお茶を入れてくれ」
「――分かりました、師匠」
おおいとシュナが声をかけた先から、若い青年の声が聞こえてくる。こちらはシュナとは違って、キビキビとして快活そうな様子だ。
「弟子を取ったのか」
「ちょっと面白そうな奴だったからね。面倒見てるんだ」
シュナに促されて、ヤマトとノアはソファーに腰掛ける。
それを満足そうに見つめたシュナも腰掛けたところで、奥へ引っ込んでいた青年――アスラが、三人分の湯呑みを持って現れた。やはり、シュナとは違って、アスラは普通の青年に見える。
「どうぞ。粗茶ですが」
言いながら、アスラはヤマトたちの前へ湯呑みを配膳していく。
目の前の湯呑みを覗き込めば、その器に注がれているのは緑色の茶――ヤマトの故郷たる、極東で親しまれている茶らしいことが分かる。大陸に渡ってからしばらく、ヤマトも口にする機会に恵まれない飲み物だ。郷愁の念に、思わず頬が緩みそうになる。
珍しそうに緑茶を見つめているノアを尻目に、ヤマトはチラリとシュナの方を見やった。
「こいつは?」
「前に来たとき、散々茶に文句言ってたからね。せっかくだから、取り寄せるようにしたんだ」
五年前のことだろう。
確かに、故郷を出た直後だったヤマトは、この大陸の風習になかなか馴染めないでいた。この場所でも、その不満を漏らしたような覚えはある。確か、薬草を煮詰めて作った苦い茶だったと記憶しているが。
「すまんな」
「気にすることはないさ。おかげで、極東について知ることができたからね」
若さゆえの誤ちと言えば角は立たないが、非は認めるべきだろう。
素直に頭を下げるヤマトに、シュナは軽い笑い声を上げる。
「だが、あのヤマトが人に頭を下げるなんてね。やっぱりその子のおかげかい?」
「それは否定しないが」
「素直に認めたくない感じかな?」
大陸の常識に疎かったヤマトに、ノアは親身になってつき合ってくれた。彼の助力がなければ、今でも荒くれ者同然の立ち居振る舞いをしていただろうという確信が、ヤマトの中にはある。その意味で、ノアに深く感謝していることは間違いない。
とは言え、シュナが言っていることには少し異を唱えたくもある。
「感謝しているのは確かだ。得体の知れない俺と、男二人旅につき合ってくれているのだからな」
「男二人? ……そういう設定なのか」
絶対に分かっていない。
ノアと軽く目を見合わせて、そのことを確信し合う。
再び口を開こうとしたヤマトに先んじて、シュナは首を横に振りながら声を発した。
「ま、深くは突っ込まないよ。仲が良いなら何よりだ」
「……そうか」
諦めたように首を振るノアに続いて、ヤマトも諦める。
どうせ今に始まったことではない。あれこれ気を揉むよりも、さっさと忘れてしまうのが吉だろう。
「それより。ここに来たのは、別に目的がある」
「だろうね。久々に来た街で、目的もなく知人に会いに来るほど、君は殊勝な奴じゃない」
その言葉には反論したくなるが、ノアの視線が突き刺さり、口を閉ざす。
「近々、武術大会が開かれることはご存知ですよね?」
「勿論。……あぁ、そういうことか」
要領を得たように、シュナが頷く。
「ゴルドの情報がほしいんだね。どうせ、あいつが出る前は私が連覇していたこと、話したんだろう?」
「あぁ」
「ふむ。とは言え、何を話そうかねぇ」
「こちらの質問に答えてくれれば、それでいい」
矢継ぎ早に言葉を重ねるヤマトに、ノアが一瞬だけ視線を向けてくる。
それに小さく頷いて応えながら、ヤマトはその言葉を発した。
「なぜ敗けた?」
「………」
「既にゴルドの方にも会った。だが、正直に言えば。奴は実力不足だ」
ヤマトの詰問に対して、シュナの方は微笑んだ表情のまま口を閉ざしている。
きっとその疑念は、ノアでも感じていたはずだろう。ゴルドだけを見たヒカルやリーシャたちでは気づかなかっただろうが、今シュナと相対しているヤマトたちからすれば、一目瞭然。既に引退したと思われるシュナの実力は、ゴルドに劣るとはとても思えない。むしろ、ゴルドがシュナに勝てたことが信じられないほどだ。
なのに、何故。ゴルドが武術大会の王者に君臨しているのか。
「なぜ、奴に勝とうとしない?」
「………そうだねぇ」
長い沈黙の後、シュナは一言だけ絞り出すように声を出す。
思わず、ヤマトはシュナの顔を見やった。淡麗で年齢を一切悟らせない外見が嘘だったかのように、疲れ果てた老人のような目をしている。そのことに気がついて、背筋を得体の知れない悪寒が駆けるのを感じた。
そんなヤマトを尻目に、シュナは溜め息を吐きながら虚空を見上げて、再び口を開いた。
「私には資格がなくなった。それだけさ」