第10話
「―――――ッ」
喉の奥から唸り声を響かせるキリングベアに、思わずヒカルは一歩後退る。
魔族と相対したときには感じなかった、生々しすぎるほどの殺気に身がすくむ。気を抜けば、即座に膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
「くそっ! 情けない……!!」
戦いなんてしたことがない。こんな獣を見たことなどない。本当はやりたくない。
腹の奥から沸々と沸き起こってくる言い訳を、震える奥歯で噛み殺す。戦いには不慣れなことは承知の上で、目的のために剣を取ろうと決意したのだ。なのに、こんなところで――
「ぐぅっ」
襲ってきたキリングベアの拳を、聖剣の腹で受け止める。地面の上を滑る靴底に力を込めて、地をヒビ割らせて踏み留まる。神器と言われて渡された剣は、細い刀身に見合わない強固さでしっかりとキリングベアを受け止めることに成功する。
「はぁっ!!」
渾身の力で聖剣を跳ね上げ、キリングベアの上体を浮かせる。たたらを踏みながら剣を振るが、キリングベアはさっさと後退して間合いから外れてしまった。
「当たらない……!」
「ヒカル、手を貸すよ」
声が聞こえるのと同時に、踏み出そうとしていたキリングベアの足元目がけて透明な何かが飛んでいく。
咄嗟に後ろへ飛び退るキリングベアの足元に、透明な攻撃は次々に突き刺さっていく。十分すぎるほどの間合いが開いたところで、彼は姿を現す。
「ノアか、助かった!」
「いいって。それより、あいつを速く仕留めよう」
「ヤマトは?」
ノアが背中越しに指差した方を見やれば、キリングベアを相手に一人で睨み合うヤマトの姿があった。
「僕たちが速く終わらせられるほど、あっちが楽できるってわけ」
「そうか。ならば、こちらは強引にでも倒してしまうとしよう」
一瞬だけでもキリングベアの殺気から外れたことで、ヒカルは心が一気に平穏を取り戻していくのを自覚する。即座に回り始めた頭を駆使して、状況を打破する手段を導き出した。
(……やってくれるか)
ヒカルは手元の聖剣に視線を落とす。
長さは六十センチメートルほど。刀身もあまり厚くなく、柄に施された装飾も相まって華美な印象が強い剣だ。だがその実態は、歴代勇者の全ての戦いを支えてきた名剣であり、勇者として認められた者が手にすることによって、特別な力を発揮することができる。
この世界に迷い込んですぐに太陽教会に保護された折、勇者たる証明として手にしたのがこの剣だ。戦闘経験もなく、加護も満足に使いこなせないヒカルが勇者として担がれているのも、ただこの剣に認められたから。
聖剣を身体の正面に構え、静かに目を閉じる。
「少し時間を稼いでもらいたい。準備が必要だ」
「なるほど。僕がそれまで耐えられれば勝ち、というわけか」
「頼めるか?」
「余裕! いつでも始めていいよ!」
言い残して、ノアは前へ出ていく。
刀を得物とするヤマトや聖剣を扱うヒカルとは異なって、ノアはメインウェポンとでも言うべき武器は持っていない。複数本所有しているダガーや魔導具を臨機応変に活用して戦うそのスタイルは、三人の中で最も冒険者らしいと言っていいだろう。
駆けながら、レッグホルダーに差した魔導銃を引き抜いた。近年になって開発普及が進められた魔導具であり、引き金を引くだけで透明な弾を射出することができる。
立て続けに弾を撃ってキリングベアを牽制するノアの様子を見届けて、ヒカルは再び聖剣に意識を集中させる。
キリングベアとの対峙で高鳴っていた心臓の鼓動が、徐々に収まっていく。鼻に染みついた獣臭さや血の臭いを忘却し、耳から聞こえるヤマトやノアの戦闘音を遮断する。
「――聖剣起動」
聖剣の奥底に眠る、ヒカルだけが感じ取れる異質な魔力。大気中に存在する魔力とは明らかに異質であり、明らかに次元が異なる強大さを持つそれを、ゆっくりと引き出していく。
太陽教会で保護され、聖剣を渡された後に散々練習した一連の流れだ。魔獣を実際に見るよりも、人と戦闘訓練をするよりも、魔導の勉強に励むよりも、このことだけを優先して覚えさせられた。それはきっと、他の何ものもを補って余りあるほどの力を、聖剣が有しているから。
聖剣の魔力が徐々に溢れ出る。黄金色の光が刀身から放たれ、周囲の魔力を一気に浄化していく。
「準備完了! 行くぞ!」
目を開けば、聖剣はその威容を一変させていた。ただの華美な剣であったものが、神々しい光を放ち、まさしく神話に登場する聖剣そのものとなる。
聖剣の危険さに勘づいたらしいキリングベアは必死にヒカルへ近づこうとしていたが、その足をノアは完璧に止めていた。ちらりとヒカルを振り返ったノアは、一気にキリングベアとの間合いを離す。
聖剣を携えたヒカルと正面から向き合ったキリングベアは、無意識の内にか、一歩後退る。
「それが勇者の本領発揮ってやつ?」
「今の全力であることに間違いない。だが、本来ならば更なる力を引き出せるらしい」
「無茶苦茶だね」
やれやれと肩をすくめたノアだが、ヒカルとしてもそれは同感であった。
聖剣――正式には「光輝の剣」と言うらしい――の効果は、強すぎる浄化という言葉で説明できる。聖剣から放たれた光はあらゆる魔力へ干渉し、その性質を聖剣の魔力と似た形に変質させる。その力が及ぶ中では魔導具は使い物にならず、魔導を発動させることすらできない。魔力によって生命の根幹を支えられた魔獣に至っては、光を浴びるだけで死に至ることすらありえる。
これだけでも十分以上に凶悪な効果を発揮する聖剣だが、その魔力は、人に授けられた加護の力を強化する効果すらも有している。勇者に与えられる強力無比な加護も、例外ではない。
つまるところ。
「今の私が、あいつに負ける道理はない」
キリングベアは聖剣が放つ余波によって衰弱し、今にも倒れそうな有り様になっている。必死な様子で威嚇しているが、殺気は微塵も感じられない。
魔獣としての誇りに殉じてか、本能に従ってか。キリングベアは空高く咆哮すると、ヒカルを真っ正面に見定めた。後ろ足に力が込められる。山のような巨躯が、弾丸のように飛び出した。
「――終わりだ」
避ける必要すらない。
頭上に高く掲げた聖剣の切っ先を、タイミングを合わせてキリングベアの頭頂部目がけて振り下ろす。刃は何の抵抗もなくキリングベアの頭蓋を叩き割り、巨躯を真っ二つに斬り裂いた。
キリングベアの鮮血が噴き出す中、ヒカルは聖剣を軽く振り払う。その余波で血飛沫が吹き飛ばされ、辺りの血生臭ささえも消えた。
「……まったく、本当に無茶苦茶だ」
「そう言うな。私も驚いている」
ノアは呆れたように首を振る。
思わず反論したヒカルだったが、すぐに気を取り直す。まだキリングベアは一頭残っている。
「こちらは片づいた。急いでヤマトの援護を――」
ヤマトの方を見て、言葉が止まる。
「援護かぁ、してもいいんだけどね」
ノアも諦めの色を強く浮かべて、溜め息をついた。
「もう必要はなさそうかな」
二人が目を向ける先、ヤマトと二頭目のキリングベアの戦いは、既に決着がつきそうであった。
ヤマトも各所に傷を作り、少なくない量の血を流している。ヒカルの感覚からすれば、既に重傷だと言っていいほどだ。
だが、対するキリングベアの方は既に満身創痍であった。いかなる技を使ったのか、丸太のような太さの右腕が遠く離れた場所へ斬り飛ばされている。両目を一文字に深い傷が走り、どす黒い血を涙のように流している。他にも浅くない傷が全身に刻み込まれ、超回復すら間に合っていない。
「ぉおおおッッッ!」
雄叫びを上げて、刀を高速で走らせる。加護で強化されたヒカルの目で辛うじて軌跡を捉えられるほどの、神速の連撃。
更に刻み込まれる傷に悲鳴を上げながらも、キリングベアは拳で応えようとする。その一撃を肩にかすらせながらも、ヤマトは斬撃を止めない。散らした血飛沫で赤い霧を作りながら、更に一歩踏み込む。
「決まったね」
ノアが小さく呟く。
その言葉通り、弱々しく拳を振っていたキリングベアはがくりと膝を落とす。血を流しすぎたためか、身体に力も入らない様子だ。
斬撃を止めたヤマトは、流れるような動きで刀を頭上に掲げる。視線はキリングベアの首に向かっている。
「ふっ!」
短く息をついて、刀を振り下ろす。切っ先はぶれることなく真っ直ぐにキリングベアの首へ吸い込まれ、何の抵抗も無く、それを斬り落とした。
その血飛沫を全身で浴びながら、静かに刀の血脂を振り落としたヤマトは、小さな溜め息をついてからノアたちの方へ向き直る。
「すまない、待たせたようだな」
「いやいや。それにしても、結局一人で倒しちゃったか」
「興が乗ってな」
呆れたように溜め息をつくヒカルに対して、ノアはじとっと湿度を伴った視線をヤマトに向けている。
「……どうした?」
「いーや、何でもない。それより、早く治療しよう。僕も血とか落としたいし」
ノアの言葉にヒカルも首肯する。
少し想定外なこともあったが、二頭のキリングベアは無事に討伐できた。これで、森の異変も解決できた――はずだ。
心の片隅に何かが引っかかっていることを自覚しながら、ヒカルはその場を後にした。