愛と狂気
◆
それから何日経ったろう?
何日も歩き、もうとっくに国境を越えたのか、それともドイツの国内でさ迷っているだけなのか解らない。
途中、人目を避けるように一軒だけぽつんと在った民家の庭先に干してあった服を盗んだ。
さすがに軍服と縞の服では見付かった時に言い逃れが出来ないし、その家には人の気配が無かったからだ。大方、街へ出た時に空襲でもあったかユダヤ人を匿っていて処罰されたか……
「農家の若夫婦みたいね」
洗い晒しの煤けた服を着て、マルテは不安を掻き消すように勤めて明るく振る舞い、そう云った。
「マルテ、戦争が終わって平和になったら何処に住みたい?」
私も、辛い逃亡生活の気晴らしにそんな事を訊いてみる。
「スイスが妥当だと思うけど……どうせならもっと遠い国に住みたいわ」
「南の島とか?」
「どうせ海を渡るなら日本はどう?」
「そうだね、日本でパン屋でも開こうか」
「サムライはパン食べるのかしら?」
「知り合いの日本人が、日本人は意外と外国の物が好きだと云ってたから大丈夫だ」
「そうなの?じゃあ毎日、サムライやゲーシャがパンを買いに来るのね。素敵」
「ドイツ語教室も開こうか?」
……今思えば、かなり日本についての知識が無さすぎたと思うが、それは楽しい空想だった。
しかし、逃亡生活も長くなり、持ってきた食料も底を付いた。
あれから空襲に遭わないのは、戦争が終わったからなのか?
人目に触れる事を恐れ、深い森や山ばかり歩いて来た私達はその事を知る術が無かったのだ。
それでもマルテは明るかった。
「ねえ、フリッツ」
「何だい?」
「今更云うのも何だけど、私の初恋はフリッツなのよ」
「それは奇遇だ。僕の初恋はマルテだよ」
お互い、痩せこけた顔で笑った。
笑いながら、“空腹”とは別の欲望を押し殺していた。
あの日から、抑えていた“欲望”を。
その欲望はマルテも持っていた筈だ。
ある日、マルテがこう云った。
「フリッツ、お願いがあるの」
「何だい、マルテ?」
ああ、今も鮮明に思い出す。その時のマルテはまるで恋を告白する乙女のようにはにかんでいたのだ。
だから、次にあんな事を云うなんて思わなかった。
「私が動け無くなったら、私を食べてね。そうじゃないと、私、フリッツを食べちゃうかもしれないから」
そう、これだ。
この欲望。
私達はずっと“人肉を食いたい欲望”を押し殺していた。
あの収容所で捕虜達だけでなく、兵士も毎日のように食していた“人肉”。
どんな豪勢な料理より、一片の人肉が食いたくて堪らない。
あの甘酸っぱく弾力のある豊潤な味の
……そういえば、人肉には中毒性があると訊いた事がある。
でもあれは“人として”の一線を踏み外さない為の戒めでは無かったのか?
マルテは、云ってしまった事を後悔しているように、青ざめた顔で私をじっと見ていた。
ハンスが云っていたのはこの事だったのかもしれない。と今更気が付いた。
私達は“人食い”だ。
もはや“家畜”どころか“人間”ですらない。
あの、収容所と云う名の閉ざされた地獄で、捕虜も兵士も“人食い”の洗礼を受けて居たのだ。
私はその時初めて、あの空爆で死んでしまわなかった事を悔やんだ。
私に撃たれて死んだハンスを、羨ましいとも思った。
ドイツが連合国軍の手に落ちても
戦争が終わっても
平和が戻って来ても
私達は“幸せ”にはなれない。
気の遠くなる絶望に潰されそうだ。
あの時、ハンスの死体を振り返えって見て居たマルテの気持ちが痛い程良く解る。
“食べたかった”のだ、ハンスの死体を。
死んだばかり……あるいはまだ息があるかもしれない新鮮な“人肉”を。
マルテの“欲望”が満たされるなら、自分が犠牲になってもいいと思った。
たがそれは、彼女を永遠の地獄へ突き落とす事と同じだ。
私の肉が無くなったら、誰の肉を食べるのだろう?
しかしその時の私は、そんな事より、彼女の笑顔が消える事の方が、何より恐ろしかったのだ。
私は持っていた軍用ナイフを自分の腕に突き立てた。
激痛が走る。血がほとばしる。
最初は驚いた顔を見せていたマルテだったが、私の血が唇の端に掛かるや否やその血を美味しそうに舐め取った。
切り裂かれる皮膚が味わう金属の味。痛みに耐えながらやっと一片の肉を切り取ると、差し出す間もなくマルテはそれに飛び付き貪り喰った。
野獣のような目。でも恍惚として美しかった。
こんな美しい女は見た事が無い。
腕の痛みも忘れ、見いっていると、私の肉を食べ終えたマルテと目が合った。
「お……お……美味しい……!もっとちょうだい!ねえ、フリッツ、もっとちょうだい!」
もう、清楚で可憐な以前のマルテでは無かった。
彼女は顔の殆どを血に染めた、人食いの虎だ。
マルテが襲って来た。
私を組敷き、傷口を舐め、歯を立てる。
脚の先から頭に突き抜けるような耐え難い激痛。
それを感じながら甘美な感覚も味わっていた。
彼女の血となり肉となる。その幸福感を。
このまま食われてしまっても良いとさえ思った。
……思ったのに。
一発の銃声。
そしてマルテは動かなくなった。
何が起こったのか解らなかった。
腰に差して居た筈の銃が私の右手に握られているのを見るまでは。
何てことだ。私は無意識にマルテを撃ったのだ。
兵士として刷り込まれた本能が私を守り、彼女を殺した。
マルテの腹部には穴が開き、そこからガーネットを溶かした様な紅い液体が流れている。
「マルテ?」
呼んでも、返事は無い。見開らかれた目は何も映してはいなかった。
「マルテ!」
それでも名を呼ぶ。
銃創からは血が流れている。
ガーネットのような血。
……私が動か無くなったら私を食べてね……
幼い頃、マルテと遊んだ幸せな日々。
美しく成長して行く幼馴染みを見て、芽生えた恋心。
懐かしい思い出。でもあの頃にはもう帰れない。
マルテを失った悲しみよりも、マルテを食べたい欲望が強い。
その血が、皮膚が、肉が、私の血と肉と融合する様を思い浮かべ、得も言われぬ幸福感に満たされた。
思い出ごと、マルテを取り込み生きて行くか、このまま“人肉”の中毒性が消えるのを待つか……
マルテの、赤く香しい血は私を優しく誘っているように思えた。