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運命の環は巡る  作者: らみ
終末を望むもの
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見えない花が開くとき・6

 


 脱衣場の背もたれのない丸椅子に腰掛けて、ジュリアはぐったりと壁にもたれかかっていた。湯に浸かった火照りはとうに治まっていたのだが、いまだ身体に布を巻いただけの格好だ。

 いい加減に着替えなければ。

 そう思うのに、手足は石のように重かった。


「ジュリアさん、果実水をどうぞ」

「…………」


 小振りの器を差し出され、ジュリアは小声で礼を述べて受け取った。あまり気が進まなかったがひとくち含めば口内には爽やかな柑橘の香りが広がって、身体に染み入りじわりと満ちる。これが呼び水となったか唐突に喉の渇きを自覚して、ジュリアは一気に中身を飲み干した。

 空になった器を眺めてほっと息を吐きだせば、熱くなった頭も冷えてくる。

 そこに至ってジュリアはやっと気がついた。目の前の床にカイルが膝をつき、申し訳なさそうに眉を寄せてジュリアをじっと見上げていたのだ。


「あの……ごめんなさい……」


 濡れた髪は拭いただけ、そして下着の上に胴衣を羽織っただけの心もとない格好で、カイルはしゅんと小さくなった。


「わたし、浮かれて勝手なことばかり言って。ジュリアさんを困らせて……」


 膝の上で拳を握り、ごめんなさい、とカイルは深く頭を下げてうなだれた。

 同時にジュリアの胸がずきりと痛む。

 怒ってなどいないのに。

 ただ次に会うときどんな顔をすれば良いのかと、それがわからず外に出たくなかっただけなのだ。


「カイルちゃん……」


 こんな顔をさせているのは自分なのだと、そう思った途端に罪悪感で胸が張り裂けそうになる。慌ててジュリアも膝をつくとカイルの手を取り握りしめ、こちらこそごめんなさいと頭を下げた。


「違うの。ちょっと驚いてしまっただけ。どうしたら良いのかわからなくて取り乱してしまったの。だから、カイルちゃんが謝ることじゃないわ」

「でも、ジュリアさんは嫌だったでしょう? わたしがあんなこと言ったから」

「ううん。嫌じゃない。す……好きなのは、本当だから」


 口にすればやはり羞恥が勝ってくる。けれど同時に泣きたいような幸福感で包まれて、ジュリアは頬を染めながらもカイルに向かって微笑みかけた。

 わたしはもう大丈夫。そんな想いを込めて手にした指を握ってやると、カイルはぱっと頬を染め、ぽかんと眼と口を丸くした。


「……ジュリアさん……綺麗……」


 大きな闇色の瞳にまじまじと見つめられて頬はさらに熱を持つ。しかしもう心が乱されることはなくなった。胸はどうしようもなく高鳴るけれど、嬉しさでどこか沸き立つような、そんな気持ちでいっぱいだった。こうして想っていられることがあまりにも幸せで、昼間は鬱陶しくてならない「雲」でさえ、まるで祝福してくれるように輝いている。


「ずっと待っててくれたのね? ごめんなさい。もう着付けに……」


 笑顔でカイルの手を引き立ち上がり、ジュリアはそこに黒い影を見つけてはっとした。

 見間違いかともう一度、眼を凝らして確かめると背筋にぞっと怖気が走る。いままで気づかなかったのが不思議なほどの邪悪な気配に、ジュリアはごくりと喉を鳴らして姿勢を正す。


(まさか、これ──)


 怪訝そうな顔をしているカイルを丸椅子に座らせて、ジュリアはその正面に膝をついた。そして左手を両手で握り、「それ」を視ようと集中するとカイルの身体がびくりと揺れた。


「……ゃ、ジュリア、さん。……やめて」


「その場所」を右手で押さえ、カイルは慌てて手を引き立ち上がる。青ざめ逃げようと身を翻すのに、ジュリアは振り切られまいと力いっぱい細い身体にしがみついた。


「ダメよ! これはそのままにしたら、ダメ!」

「もう塞がっているから大丈夫です! 少しあとが残ってしまっただけで……っ」

「違う! それは良くないものよ! 『呪い』と言っていいものだわ!」


 それは思わず飛び出た言葉だった。しかし音は耳からジュリアの身体を浸食し、得体の知れない恐怖と怒りを呼び起こす。

 人を呪うこと、それは魔術士にとって決して犯してならない禁忌である。その事実だけでも激しい怒りが沸き上がるのに、大切な「雛」まで穢すなど決して許せるものではない。けれどジュリアがなによりも腹を立てたのは、自分自身に対してだった。

 こうして触れていればわかるのに。たとえ服や右手で隠していても、「そこ」から強烈な悪意が滲み出ている。妄執、苦痛、憤怒、憎悪──それらがないまぜになって渦巻いて、この子の身体を蝕んでいる。


「ごめん。ごめんなさい……こんな、こんなに酷い……」


 身体の底から震えが走り、ジュリアはカイルに必死になってしがみついた。

 真っ黒な傷跡などありはしないのに。風呂場で尋ねたときに「ちょっとした不注意での怪我」だと言っていたのをなぜ真に受けたのだ。こんなに酷い憎悪をまき散らしているこのきずに、なぜいままで気づかなかった。これのどこが魔術師だ。

 自分の愚かさが情けなく、腹が立ってしかたがなかった。


「痛いでしょう? ……苦しいでしょう? なのに、ちっとも気がつかないで」


 後悔が涙となってジュリアの眼からにじみ出る。

 カイルに触れた部分から、絶えず痛みが伝わってくる。これはこの子の苦痛の一部、魔術士でなければわからない類いのものだ。それをこの子はたったひとりでどれほど耐えてきたのだろう。


(わたしはなにをしていたの? 気づいてあげられるのはわたししかいないのに、浮かれるだけでちっとも『視よう』としなかった)


「ごめんなさい」とふたたび告げれば抱きしめた身体から、ゆっくり力が抜けてゆく。そして首を横に振り、微笑みを浮かべながらカイルはジュリアと向かい合う位置に膝をついた。


「心配してくださって、ありがとうございます。でも、違うの。これは、本当にわたしの不注意なの。だから、ジュリアさんは悪くない」

「だとしても! 見過ごしていい理由にはならないわ……それに、はやくほどかないとカイルちゃんが……」


 呪いは自然に治ることは決してない。しかも解くことが難しく、迂闊に手を出し失敗すれば解けないどころか一生消えない疵となる。

 本物を目にすることすら初めてで、自分の手に負えないことはわかっている。けれど苦しみを和らげるだけならば。これは怪我ではないけれど、痛みを遠ざける魔術なら、何度か使ったことがある。

 しかしカイルはジュリアの申し出を拒絶した。

 なぜ、と訊けばカイルは美しく、透き通るような笑顔をみせる。


「ここにはね、人の『心』があるのです」

「こ、ころ……?」

「はい。だから、絶対に疵をつけてはいけないの」


 にわかには信じられない話だった。けれどよくよく視ればカイルの左腕の「そこ」の奥、黒い染みに隠れた先に、確かになにかが存在する。そしてそれが「心」なのだとカイルは言う。引き裂かれ、呪いと一緒に埋め込まれてしまった心なのだと。

 では、もしかしてこの少女は──

 ふと浮かんだ考えに、ジュリアははっと息を呑む。


「……じゃあ、いま。その人は……?」

「大丈夫……生きています。けれどあの子は心の一部を欠いてしまって……なにを無くしたのかもわからぬままに、ずっと喪失感に苦しんでいる」


 だから早く戻してやりたい。戻さなければならないの。

 カイルは愛おしそうに左腕を胸の中に抱きしめた。けれどすぐに辛そうに眉を寄せ、その部分を握る右手に力を込めて祈るように言葉を紡ぐ。


「これは、簡単だけれど厄介な呪いです。そっとしておけばほとんど動かないけれど、干渉しようとすれば広がって……あの子の心を疵つける。だからほどく準備が整うまでは、刺激してはいけないの」

「……カイル、ちゃん……」


 ああ、やはり。この子は埋め込まれた「心」を守るため、自ら盾になろうとしている。万が一にも疵つけることのないよう痛みを和らげる魔術すら使わずに、呪いを解くそのときまで、なにがあっても耐えるつもりだ。

 本当に手はないのだろうか。目の前で苦しむ「雛」がいて、心を引き裂かれた子供がいて、自分はそれをただ見ていることしかできないのか。せめて痛みだけでも取り除いてやりたいのに、それすらもできないなんて。

 無力感に打ちのめされて、ジュリアは両の拳を力一杯握りしめた。押さえきれない悔し涙が頬を伝い、拳の上で弾けて落ちる。


「ジュリアさん、泣かないで。これはちゃんとほどけるの。サリフリに、その方法があるのです」

「……ほんとう、に? だって呪いは」

「大丈夫。3大魔術師のひとり、セレネルさまにお願いするのですから。だから、ナスリーンさんを助けて急いで行けば、大丈夫」


 顔を上げればカイルはしっかりとうなずいた。呪いの痛みは絶えることなどないというのにそんな素振りは微塵も見せず、少女は穏やかに微笑んでいる。そのうえ闇色の瞳には強い決意をみなぎらせ、心配ないと、安心しろとまるでジュリアを励ましているようだ。

 本当に辛いのはこの子なのに、これではあべこべだ。

 奥歯をぐっと噛み締めて、ジュリアは涙を飲み込んだ。そして両手を伸ばして目の前にある細い身体を引き寄せ抱きしめる。カイルは慌てて逃げようともがいたけれど、ジュリアはそれを許さなかった。


「……それは、とても大切な人なのね……?」

「…………」


 カイルの身体がぴくりと揺れた。ジュリアは腕に力を込めて、さらにきつく抱きしめる。

 こうしていても呪いの痛みは減らせない。だからこの子は痛みを移さないよう、あえてジュリアに触れないようにしているのだ。

 こんなに細い身体ひとつでもって、皆を守ろうとしてくれている。けれどジュリアは忘れないで欲しかった。守りたいと思っているのは皆も同じなのだと。ひとりではないのだと、知っていて欲しかった。


「わたしもそう。カイルちゃんが大切よ。だからこうしていても、ちっとも嫌じゃない。……いえ、同じ感覚をわけあっているって思ったら、それだけで幸せだわ」

「──!」

「もうひとりで我慢しないで。わたしはそれがとても辛いの。だから、お願い」


 カイルが大きく息を呑み、ジュリアの肩に顔を埋めた。震える両手が背に回り、ごめんなさい、と言葉と共にわずかに力が込められる。


「ジュリアさん……わたし。わたし、おかしい」

「おかしい?」


 ジュリアはゆっくりと、カイルの背中を上から下に撫でてやる。

 そのままじっと耳を傾けると、溜った想いを少女はぽつりぽつりと吐き出し始めた。


「あ、あの子は。兄の残した、忘れ形見。だから絶対にっ……失えないの」

「そう……お兄さま、の」

「……必ず助けるって約束したの。でもわたし、あの子が苦しんでいるのに……こうして繋がっていることが嬉しいの。早く解かないとって、そう思うのに……!」


 どうして、とカイルは声を震わせた。

 ジュリアの肩に吐息がかかり、小さな小さな嗚咽が漏れる。そっと背中を撫でてやると、カイルは堪えるなにかに耐えるようにいっそうきつくしがみつく。


「こんなのおかしい。普通じゃない。いまだって、ジュリアさんを苦しめているのに! ……それをわたし、嬉しいって感じてしまう。人を苦しめて喜ぶなんて、こんなのおかしい!」

「違う! それは違うわ」


 ありったけの想いを込めて、ジュリアはカイルを抱きしめた。

 きっとこの子は誰にも言えず、ずっと抱え込んできたのだろう。けれどいまはジュリアがいる。だから頼って欲しかった。思う存分甘えて欲しいと願っていた。


「ね、さっきも言ったでしょう? わたしは望んでこうしているの。大切な人のためになにかできることが嬉しいの。……カイルちゃんも、そうでしょう?」

「──っく。ジュリア、さん」


 背中を軽く叩いてやって、ジュリアはそっとカイルの頬に手を当てた。涙の浮かんだ黒い瞳に微笑みかけて、額にかかった髪を耳のほうに払ってやる。

 鼻と眼の縁を赤くして、それでもこの子の美しさは変わらない。それがまた愛おしく、ジュリアは微笑みながら額をこつりと合わせてやった。そのままじっとしていると、じりじりと熱を持った痛みがどこか軽くなっていくようだ。


「……ほら。こうしていると、少し楽になると思わない?」


 ね、と微笑みかければカイルはぱちりと瞬いた。

 ジュリアがくすりと微笑めば、大きな瞳がさらに大きく見開かれ、涙はすっかり消え失せる。


「ほんとう……なぜ? ジュリアさん、これは魔術なのですか?」

「まさか。痛いのがどこかにいきますようにって、神さまにお願いしたの」

「それだけ……?」

「ええ。それだけ。不思議よね? 魔術を使わなくても想いはちゃんと伝わるの」


 はっとしたように顔をあげるとカイルはきゅ、と唇を噛み締めた。それから強く目蓋を閉じて、祈るように面を伏せる。やがて小さな肩から力が抜けて、ゆるりとあげた顔はふたたび涙で濡れていた。


「ありがとう。ありがとう……ございます」


 ほんのり色づいた滑らかな頬を涙が一筋伝って落ちる。しかし少女は見るものすべての心を満たすような、そんな笑みを浮かべていた。

 やはりこの子に悲しい涙は似合わない。こうして笑っていてくれること、それが皆を幸せにする。だから二度とこの笑顔が陰らないよう呪いをほどくそのときまで、ずっとこうしてそばにいよう。

 ジュリアは密かに決意して、カイルの手を取り立ち上がった。



 

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