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運命の環は巡る  作者: らみ
終末を望むもの
57/59

見えない花が開くとき・5

 


 奇跡のような一日だった。

 そして夜が明けてもまだ奇蹟は続いている。


「お待たせしました!」

「わたしも、いま来たところよ」


 荷物を抱えたカイルが足早にやってくるのをうっとりと眺めつつ、ジュリアは幸福を噛み締める。

 10年捜した想い人に再会したうえ貴重な魔術士の「雛」まで見つけることができたのだ。それだけでもまるで夢のようなのに、さらに思いがけない幸運まで舞い込んだ。あまりのことに、ジュリアは軽く目眩を覚えたほどだ。

 もう少しだけ、幸せな夢を見ていたい。せめて「雛」が目覚めるそのときまで。

 だから。

 ──もう少しだけ、わたしに時間を与えてください。




「こんな状況なのに申し訳ない」


 そう言って屋敷の主、デュランはどうしても休めないと仕事に行ってしまったが、客人たちが気持ちよく過ごせるようにと心憎い配慮をくれた。かつて帝国にいたときその心地よさに目覚め、挙げ句屋敷にもしつらえたという帝国式の風呂である。アクサライでは湯船につかる習慣がなく、風呂といえば水浴び程度が常であるから、この地にいる帝国人がみな風呂に飢えていると知っていたのだ。

 その話を聞いて一同は飛び上がって喜んだ。そして朝食後、まずは女性からと一番風呂を譲られて、ジュリアは逸る心を抑えながら準備した。カイルも着替えを取ってくる、と跳ねるように部屋に戻ったのだが持って来たのはかなりの大荷物だ。


「ね、カイルちゃん。その荷物……多すぎない?」


 風呂は屋敷の離れにあり、設備はすべて整っているから必要なのは着替えだけ。

 そう聞いたため、ジュリアは手提げひとつしか持っていない。しかしカイルは大小2つの布袋を抱えていた。着替えにしては多すぎるとジュリアが疑問に思うのも当然だった。

 それにカイルは眩しいばかりの笑顔を浮かべ、はい、と元気に返事をした。


「洗濯がありますから」

「洗濯、でございますか?」


 2人を案内していた年配の女中が足を止め、思わず、といった様子で振り返る。それにカイルはにこにこと上機嫌でうなずいた。


「お風呂に入るときには一緒に洗濯をするでしょう? これはラウルとわたし、2人ぶんありますから」

「2人ぶんって……カイルちゃん、そんなことまでしているの?」

「そんなこと? いいえ、これは弟子の大切な仕事です。ソネルさんにそう教えて頂いたのです」

「ソネル、ですか」


 女中の眉がぴくりと動く。しかし女はすぐに穏やかな笑みを浮かべると、カイルの手から洗濯物の入った大きな袋をやんわりと取り上げた。


「お嬢さま。この家の客人となられたからには、こういったことはわたくしどもにお任せください」

「いえ、わたしは弟子……」

「お嬢さま? どうか、わたくしどもの仕事を取り上げないでくださいませ」

「……はい」


 柔らかいが有無を云わせぬそのものいいに、カイルは反論できずに口を閉じた。しかしやはり未練があるようで、腕が袋を抱えた形のままになっている。からになった手元と取り上げられた袋を交互に見つめ、どうしたものかと首をわずかに傾けるその姿は、あまりにも愛らしかった。ぐっと胸を締めつけられるような衝動に、ジュリアはたまらず手を伸ばす。


「か、可愛い……っ」

「あの、ジュリア、さん? わたし……臭うから……っ」


 ぎゅっと抱き込み頬を寄せればカイルがじたじたと身じろいだ。

 離れたいのにジュリアを気遣い本気を出せず、それでもなんとか逃げようとするその努力がまたいっそういじらしい。早朝から馬房の掃除をしていたため確かに馬臭くなってはいるが、ジュリアにとってはそんなもの、どうでもよいことだった。


「お嬢さまがた、そのぐらいに」


 そのままぎゅうぎゅうカイルを抱きしめ続けるジュリアに向かって、女中はお湯が冷めます、と苦笑した。そうでした、と腕の中から愛しい「雛」を解放すると、カイルは頬を染めて瞳を潤ませほっと息を吐いている。ふたたび抱きしめたくなる気持ちを抑え、ジュリアが「ごめんなさい」と頭を下げればカイルははにかみながらも許してくれる。「行きましょう」と手を差し出せば、優しく握り返してくれる。


 ジュリアは天にも昇る心地だった。

「雛」がこんなに愛しいものだとは思ってもみなかった。学校でも新入生が入ってくるたび可愛くてならなかったが、まっさらな「雛」とは比べるべくもない。その仕草を見ているだけで満たされる。そして笑顔を向けられれば得も言われぬ幸福感に包まれる。

 最初に出会ったあのときは、ルシンガーさまのことしか眼に入っていなかった。

 次に紹介されたとき、なんて綺麗な子なんだろうと感心するだけだった。

 それが徐々に気になりだして、構いたくてどうしようもなくなった。右肩の「花」のせいでなく、一挙一動に眼が奪われて視線を反らすことができなくなった。同じようにミシュアルくんが気になって、そこでやっと2人が「雛」なのだと気がついた。

 絶対に無視することなどできないから、すぐにわかると話には聞いていた。とはいえ滅多にいない「雛」に出会うことなどきっとないと思っていた。なのに同時に2人に会った。この喜びを、沸き立つ気持ちをどうして抑えられるだろう。

 片時もそばを離れたくない。手元から離したくない。だって「雛」はすぐに「魔術士」だと自覚してしまうのだ。ほんのわずかしかない奇蹟のようなこのときを、この子と一緒に過ごしたい。

 だからこの子を奪わないで。

 どうか、幸せなこの一瞬を壊さないで。




「わぁ……っ!」

「凄い!」


 こちらです、と風呂場に案内されるとジュリアとカイルは手を取り合って、小躍りしながら喜んだ。

 大人が3人ほど並んで入れる大きな湯船にはなみなみと湯が張られ、洗い場には色とりどりの美しいタイルが敷き詰められている。そこに細工の施された木製の小さな椅子と桶が置かれ、壁際には海綿や石鹸などが色鮮やかな模様の入った陶器の上に乗っている。


「お嬢さま、お湯の使い方は……」

「はい、知ってます!」

「まず最初に身体を良く洗って」

「手ぬぐいは、お湯に入れてはいけないのです!」

「そう、そして出るときは軽く身体を拭いて」

「最後にお掃除をします!」

「それは、わたくしどもの仕事です」

「……! はい」


 ジュリアと交互に返事をしていたカイルだったが、最後にはっとして黙り込んだ。つい口が滑ったと、きゅうと首を竦めた少女の姿にジュリアと女中の頬が緩む。女はわずかに苦笑すると、確認するように問いかけた。


「……本当に、お手伝いはよろしいので?」

「はい。お風呂に入るのに手伝っていただいたりしたら、かえって緊張してしまいます」

「わたしも、ひとりでもちゃんと入れますよ?」


 娘たちはそわそわと落ち着きがなく、意識は完全に風呂に向かって急いている。これ以上引き止めるのも酷だろうと女は取っ手のついた小さなベルを卓の上に置き、「御用の際にはこれを」と一礼して去っていった。

 脱衣場から女中の姿が見えなくなるとジュリアとカイルはぱっと輝く顔を突き合わせ、肩をすくめてくすりと笑う。


「脱いだものはこの籠に入れるのですって」

「はい! 早く行きましょう!」


 待ちきれないとばかりにカイルは上着に手をかける。ジュリアもくすくす笑いながら服を脱ぎ、娘たちはさっそく洗い場の中に飛び込んだ。



 ◇  ◇



 きゃあきゃあと風呂場からは華やかな声と水音が響いてくる。

 風の音にかき消されてはっきりとは聞き取れないが、どうやら楽しんでいるようだ。湿気を逃がすために開けられた高窓をちらりと見上げ、ザックはくるりと短い頭を掻き回した。


「あーあ。俺も早く入りてぇ」

「モーブレーさん、ちゃんと見張ってくれよ」

「わーってるって。だから怪しいヤツが近づかないようにな、こうしてちゃーんと見てるだろうが」


 よっと風呂場の壁に背中を預け、ザックは胴衣の襟を緩めて開けた。今日は風は強いが湿気も多く、まだ昼前だというのに蒸し暑い。空は灰色の雲に覆われて、このぶんだとじきに雨になるだろう。


(嵐……か。厄介な)


 強い風は気配を殺し、雨は痕跡を洗い流す。もし自分がチビをかどわかそうとするのなら、この好機を逃しはしない。

 仕掛けるなら、今夜。だがいったいどんな手で、と思索の海に沈みかけたザックの前に、不機嫌そうな男の顔が現れた。


「あんた、騎士なんだろ? だったらしっかりしてくれよ」


 ケネスはこの蒸し暑いなか、きっちり上着を着込んで身だしなみにも隙がない。今朝がた訓練中にへばっていたとは思えないほど背筋もしゃんと伸びている。こうしてぴしりと立つさまは、模範的な護衛士そのものだ。

 コイツのほうがよほど騎士らしいと肩をすくめ、ザックはぐるりと首を回してみせた。


「……けどなあ、裏手にはおっさんと見習いだろ? 入り口にはハイダルのおっさんが詰めてる。そしてここはおまえさんだ。立派な護衛士がこんだけいりゃあ、滅多なことは起きないだろ」

「起きてからじゃ、遅いんだよ。まずコトを起こさせないようにするのが護衛士の勤めだからな」


 きりりと口元を引き結び、ケネスは腰に手を当て油断なく辺りを見渡した。チビたちが来る前に入念に下調べをしたというのに警戒を怠らないそのさまは、確かに護衛士のかがみと言える。

 ふうんとザックは人差し指で頬を掻くと、こつんと壁を叩いてみせた。


「この壁の向こうでさ、ジュリアちゃんが風呂に入ってんだよなー」

「なっ! ……不埒な真似は俺が許さん!」

「おーやぁ? 誰がなにをするってーの?」


 にたりと笑って指摘すれば、ぼっとケネスの顔が赤くなる。そのままぴくりとも動かなくなったので、寄りかかった風呂場の壁から身を起こして肘で小突けば言葉を失い何度か口を開閉させた。やがてくるりと背を向けえへんえへんと誤摩化すケネスの肩を、ザックはぽんと叩いてやる。


「まあまあ、無理すんなって」

「うるさい」

「いまからそんなに緊張してちゃあ、身が持たんよ?」

「緊張なんてしていない!」

「はいはい」


 むきになるケネスを宥めようとザックが口を開いたそのときだ。

 風呂場の中から悲鳴が上がり、2人の男ははっとして振り返った。



 ◇  ◇



 静かに桶を傾けお湯をかけ、泡を流せば白い肌が現れる。染みも黒子ほくろも一つもないうえ張りがあって滑らかで、まさに理想そのものだ。

 空の桶を手にしたまま、ジュリアはカイルの背中に惚れ惚れと魅入っていた。


(綺麗……)


 この肩から流れる曲線ときたら、なんと美しいことだろう。まるで翼のような肩甲骨の間から、背骨のすじが影を作りながら伸びている。細い腰は見事なまでに引き締まり、そしてすぐ下のまろやかな臀部へと続いている。どこにも余分な肉などないというのにどこまでも柔らかい、細いけれどしっかりとした、まるで瑞々しい若木のようなこの身体。


「ひゃあっ!」

「わっ!」


 カイルが悲鳴を上げて小さな椅子から飛び上がり、身体を抱きしめながら振り返る。そしてつんと口を尖らせ両の脇腹をさすりつつ、拗ねながらも抗議した。


「ジュリアさん、くすぐったいですよ」

「ご、ごめんなさい。あんまり細いから、ちゃんと中身があるのか気になって」


 つい手が出てしまったのだと苦しい言い訳をしてみれば、カイルはきょとんと瞬いた。首を曲げて臍のあたりをじっと見つめ、それからジュリアに向き直るといたく真面目に答えを返す。


「ここは、腸がある位置ですが……」

「いえ、そういう意味じゃ……どうしたの?」


 ほんのわずか眉をひそめ、カイルがジュリアを見つめていた。正確を期すならば、胸のあたりを凝視していた。遠慮のない強い視線に羞恥を覚え、ジュリアは胸を押さえながら身をよじる。


「か、カイルちゃん?」

「……ジュリアさん。格好いい……」

「な、なにが?」

「もちろん胸が! 公園の女神像より大きいのに、きっちり上向いていて素敵です!」


 カイルは両手をぐっと握りしめ、わたしの理想の大きさです、と瞳を輝かせて言い切った。弾むような少女の声は風呂場の中で響き渡り、木霊しながら風に乗って消えてゆく。




「な、なにが……起きた……」


 そこでは帝国の騎士と護衛士が2人並んで膝をつき、指を地面にめり込ませながら荒い息をついていた。

 カイルの悲鳴に高窓の下まで駆けつけて、突入しようと窓枠に手をかけたそのときだ。

 公園の女神像よりも大きいとかなんとか、そんな単語が耳に入って意味を理解した途端、身体からはくにゃりと力が抜けてザックとケネスは燃え尽きた。

 頭の中ではいくつかの単語が駆け巡り、同時に昨日見た像の姿がまざまざと蘇る。するとザックの隣で同じようにへたりこんでいた護衛士が、なにかを察して釘を刺した。


「み、見るなぁ……っ」

「見てねーだろ!」

「想像するな!」

「そういうおまえさんこそ、どーなんだよ?」

「うぐ……」


 うめいたケネスが両手で口を押さえてうずくまる。顔は柘榴のように赤くなり、頭からは湯気まで立って、なにを思い浮かべたのかは想像に難くない。

 ザックは立ち上がると頭を掻いた。この男をからかうのは楽しいが、このままではのぼせてしまう。これからが正念場だというのに、いざというとき動けないでは目も当てられないではないか。


(水でもぶっかければ少しは冷えるか?)


 しかしそんなザックの危惧をあざ笑い、さらにはケネスに追い打ちをかけるかのように、風呂場からは悩ましげな声が響いてくる。


(カイルちゃんだって、綺麗な形をしてるじゃない)

(そうですか? でも、もう少し大きいほうが……ひゃっ)


 後に続く忍び笑いと「もう!」と笑いながらも抗議するカイルの声。


(カイルちゃんは細いから。そのぐらいがちょうどいいと思うわ)

(そうでしょうか……)

(ええ。それにね。これはこれで重いのよ? ──ほら)

(……わっ)

(ね?)


「──ぷぷっ」


 ついに限界が来たようだ。

 口元を押さえたケネスの指の間から、ぱたぱたと鮮血が滴り落ちてきた。

 慌てて駆け寄り首の後ろを叩いてやると、ケネスはザックに縋るような眼を向ける。


「ふぐぐ……」

「あー、ほらほら、わかったから落ち着け。な?」

「ぐぎ……」

「女同士だろ? 心配するようなこっちゃねえよ」


 血走った眼に涙を浮かべ、両手を血に染め息を荒げてなにかを訴えるその姿には鬼気迫るものがある。

 気持ちはわかるような気もするが、知りたくない。

 ザックは頬を引きつらせるとひょいと身を引き距離をとり、代わりとばかりにしわだらけの手布を押し付けた。


「わーったから少し休んでろよ、な?」


 護衛士の矜持だかなんだか知らないが、蒸し暑いなか暑苦しい格好でいるからこんな羽目になる。自業自得だと突き放してやりたいのは山々だったが貴重な戦力を失うわけにもいかなかった。


「あー、面倒くせっ」


 くるりと頭を掻き回し、水を貰いにザックは母屋へ向かって大股で歩き出した。



 ◇  ◇



 高窓からはときおりひゅうと風が吹き込んで、湯気を散らして去ってゆく。

 浸かっているのはぬるめの湯だが時間と共に熱が移り、身体はすっかり色づいていた。加えて心地よさに弛緩して、まるで湯気と一緒にふわふわ漂っているようだ。

 ほう、と息をもらせばすぐ隣でも満足げな吐息があがり、ジュリアはカイルと顔を見合わせ微笑んだ。


「気持ちいい……」

「そうですね……」


 風呂の縁に頭を預け、カイルはまたうっとりと眼を閉じた。そうしているとどこか幼い印象が影をひそめ、高貴な気配が滲み出てくる。その姿はまるで美の化身のようで、ジュリアは言葉もなく見入ってしまう。

 白い肌はほんのり紅く色を差し、そしてそれを際立たせているのは眼も覚めるような赤い色。ジュリアは目を細めて手を伸ばし、なぞるように「そこ」に触れた。


「……そこに?」

「ええ。もう、ほころんできてる」

「そう……ですか」


 すべらかな右肩の先、そこに透明な赤い花のつぼみがあった。

 触れようとしても指はすり抜け風が吹いても動かない。魔術士にしか見えないくせに、魔術を邪魔する厄介な花。これはただそこにあるだけで、なんの意思も感じない。けれど攫われたナスリーンにも同じものがあったのだ。

 じっと花を見つめる姿になにか思うことがあったのか、カイルは顔を上げるとジュリアを見つめ、真正面から問いかけた。


「ジュリアさんは……ラウルと結婚したいですか?」


 ぱしゃんと鋭い水音がした。

 不意をつかれて身体を支えた手が滑り、ジュリアは鼻の上まで湯に沈んでしまったのだ。うろたえながらも湯から上がり、膝をついて咽せているとカイルが背中をさすってくれる。

 大丈夫ですか、とかけられる言葉には、からかうような気配はない。


「……っ、ごほっ。──な、な!」

「だって。ジュリアさんはラウルのことが好きでしょう?」


 なぜそんなことを、と伝えたかった言葉をもれなく拾い、カイルは当たり前のように指摘した。ジュリアは顔を伏せると全身をいっそう赤く染め上げて、無言で身体を抱いて座り込む。

 ずっと、その言葉を口にするのが怖かった。

 もし逢えなかったらとその想いに蓋をして、逢いたいだけだ礼を言いたいだけなのだとそう言い聞かせて自分の気持ちを騙してきた。けれど奇跡的に再会できたいま、また別の意味で怖くなった。

 想いが止まらなくなったのだ。

 独身で、恋人もいないと知ったらなおのこと。これ以上望んではいけない、そう戒めても心は勝手に夢想する。そのうえ言葉にまで出してしまったら、可愛い「雛」にさえ嫉妬してしまうだろう。この子は彼を兄のように慕っているだけなのに、わかっているのに、その距離が羨ましくてならなかった。だから、口にするのを避けていた。気持ちを整理するために、もう少しだけ時間が欲しかった。

 この子が狙われている大変な時期だというのに、ふと脳裏をよぎるのはこんなことばかり。それがひどく浅ましく、悲しかった。

 こんなわたしを、どうかこの醜い心を断罪して。

 そんな気持ちで恐る恐る顔をあげ、振り返れば闇色の瞳と眼が合った。心の奥底まで見透かすような、この子を前にどうして偽ることなどできるだろう。

 ジュリアはそっと眼を閉じて、こくりと小さく頷いた。


「……うん。……好き」

「よかった!」


 沸き立つようなその声に、ジュリアは弾かれたように顔をあげて振り返る。なぜ、と見れば、カイルは瞳を潤ませ歓喜に震え、きゅうとジュリアにしがみついた。


「か、カイルちゃん?」

「わたし、とっても嬉しいです。ジュリアさん、赤ちゃんが産まれたら、わたしにも抱かせてくださいね」

「え……えええっ!?」


 かあっと頭に血がのぼる。冗談でなく目眩がして、ジュリアもカイルにしがみついた。


「ま、待って。突然そんな」

「大丈夫ですよ。ラウルもジュリアさんのこと、好きだもの」

「──す!」


 もはや言葉もなかった。身体からはへたりと力が抜けてゆき、ジュリアは喘ぎながらカイルの肩にもたれかかる。


「ど、どうして……」

「あのね。男の人は、胸の大きな女の人が好きなのですって」

「む……ね?」

「はい。一般的にはそういうものだと、兄が──」


 ごほん。

 遠くから男の咳払いが聞こえた気がしてジュリアはびくりと身をすくませた。耳を澄ませばごほん、ごほんとなおも咳払いが続いている。

 この声の調子は──まさか。

 今度はざあっと血の気が引いて、ジュリアはわなわなと震えだした。


「……いまの、だれ?」

「ラウルですね」

「どう……して?」


 震えるジュリアを宥めるように、カイルは優しく抱き返す。そしてやはり言いたかったことをもれなく拾い、当たり前のように答えてくれた。


「ラウルたちが風呂場の周りを見張ってくれているのです。だから危険はありません」


 安心してくださいね、とカイルはにこりと微笑むが、この状況でどうして冷静でいられよう。ひっと喉を鳴らしてジュリアはじわりと後ずさり、力一杯己の身体を抱きしめた。


「じゃ、じゃあひょっとして。いままでの話は……」

「風向きによっては……聞こえていたかもしれませんね」


 風呂場の高窓を交互に見上げ、カイルは冷静に指摘した。

 まさか、まさかとジュリアが声も出せずに青くなると、カイルは自信に満ちた眼差しで、落ち着いて、と口にした。


「大丈夫です。護衛士には『守秘義務』がありますから、他の人に話したりしないのです」


 違う。そうではない。一番聞いて欲しくない人間に、聞かれてしまったことが問題なのだ。

 頬に手を当て再び全身を赤に染め、ジュリアは羞恥に身を震わせた。


「い、ぃいい、いやあぁぁー!」


 風呂場に悲鳴が木霊する。

 そしてこの日はジュリアにとって、一生忘れられない日となった。




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