見えない花が開くとき・2
「おねえさん、こっち」
部屋の入り口で立ちすくんだままの女にしびれを切らしたか、ミシュアルは駆け戻るとはやくはやくと手を引いた。カイルの前まで引っ張って、それから「ほら」とその右肩を指し示す。
「ね、ここにおはながあるでしょう?」
振り返って子供は女を見上げたが、しかしすぐに怪訝そうに眉をひそめて口をちょこんととがらせた。
「……おねえさん?」
その声が聞こえていないのか、濃紺のローブはぴくりとも動かなかった。ミシュアルはことりと首を傾け背伸びをすると、もう一度呼びかけようと口を開いたのだったが。
「ふ、んんっ」
突如後ろから伸びてきた手に口元を押さえられ、そのうえ抱き上げられて小さな足が宙に浮く。ミシュアルは逃れようともがいたが、押さえつけたその手はびくともしなかった。
(おまえも早く来い!)
口の動きだけでカイルを促しザックは子供を抱えて部屋の外に飛び出した。眼を丸くしてラウルと女を交互に見ていたカイルだったが、はっと息をのむと慌てた様子で追ってくる。
外に出ると ザックは中をのぞいていた使用人やら護衛士やらを押しのけ扉を閉ざし、「ここはしばらく出入り禁止!」と一方的に宣言した。
「おじちゃん、どうして!? せっかくおねえさんがきてくれたのに!」
むうむうもがきながらも解放されたミシュアルは、ぷはっと息を吐くとまなじりをつり上げ抗議した。扉の前に陣取ったザックの腿を両の拳で何度も叩き、効果がないと気がつくと、今度は身体を扉の前から動かそうと体重をかけて踏ん張った。
「ど、い、て!」
「……どかねぇ」
「ミシュアルくん、少しだけ待ちましょう。ね?」
「そうですよ、坊ちゃん。ほんの少しだけですから」
「ダメだよ! すぐにみてもらわなくちゃ!」
カイルとソネルが取りなしても子供は頑として聞かなかった。それどころかどうにか部屋に入ろうと、頬を上気させてさらに押す力を強めている。ザックはその様子に苦笑するとくるりと頭を掻き回し、腰を落として子供の肩に両手を置いた。
「おい坊主。ありゃ男と女の話し合いってやつだ。無粋な真似はすんじゃねぇ」
「ぼくもだいじなはなしがあるの! おじちゃんこそぶすいだよ!」
眼にうっすらと涙を浮かべ、ミシュアルはぷうと頬を膨らませている。
せっかく姉の行方がわかるかもと期待したのに突然お預けになってしまったのだ。自分の用事が先だという、その気持ちも当然だろう。
それでも涙があふれるのを必死になって我慢している子供の姿にザックは目元を和らげた。軽く肩を叩いてやると首を曲げ、目線を合わせてことさら優しく語りかける。
「けどなあ。あの姉ちゃん、いまは魔術どころじゃねぇだろ?」
「どうして? さっきはすぐにみてあげるねって、そういっていたんだよ?」
「そーか。あの姉ちゃん、わざわざ見に来てくれたのか。……でもなあ、魔術は集中できねえと上手くいかないもんなんだ」
だから、もうひとりのおっちゃんと話が終わるまで待ってやろうな。
微笑みながら頭をくしゃりと撫でられて、子供はくすんと鼻を鳴らしてザックに小さく問いかけた。
「……しゅうちゅうしないと、ダメなの?」
「そうさ。気合いを込めて、魔術のことだけを考えてな? やるぞーって、がーっとなって、そんでどばーっと」
しゃがみこんだまま、ザックは円を描くように両手を広げて大きく振った。ミシュアルはその様子をきょとんと見つめていたが、やがてひとことぽつりと告げる。
「……わかんない」
「あー、実はな。俺も魔術のことはよくわからん」
「つまり、こころがみだれていてはダメってこと?」
「……そう、だな。うん。そうとも言うな」
やられた、とザックが額をぺちりと叩くとやっと子供はくすりと笑んだ。成り行きを見守っていた使用人と護衛士もほっと表情を和らげる。ひょいと肩をすくめたザックの前に分厚い手が差し出され、遠慮なく手を乗せると大男は苦もなくその身体を引き上げた。
「おう、ひよっこ。弟子にしちゃあ年がいってるが、まあまあだな」
「ああ? 俺は護衛士じゃねえし」
「見習いの辛いところだ。腐るなよ?」
俺はまだぴちぴちだ、と反論しかけたザックの背中を平手で叩いて黙らせると、ハイダルは腰を曲げて「よお」とすぐ隣に声をかけた。膝をつき、子供をあやしていたカイルが顔をあげると途端にむう、と鋭い目つきで喉を鳴らす。
「坊。……名は?」
「はい。カイル、といいます」
「ふん?」
ぎょろりとした眼でカイルを上から下までじろじろ眺め、そして短い顎ひげを幾度かしごくと男はわずかに首をひねった。口の中でなにやら呟く姿にザックは厳しい顔になり、ついと2人の間に割って入る。
(まさか『この顔』に覚えがあるとか──言わねえよなあ、おっさん?)
可能性は限りなく低い。しかし万が一ということもある。口には出せない言葉を視線に込めて、ザックは静かにハイダルの様子をうかがった。しかしまるでそれに気づかないというように、男は心底不思議そうな顔で振り返ると弟子に向かってぽつりとこぼす。
「なあ、あの姉ちゃん……この坊の母親にしちゃあ、やっぱ若すぎねえか?」
一瞬の静寂が辺りを包み、そして次の瞬間その場にいたほとんどの人間が、ぎょっと眼を剥き声をあげた。
「おやっさん、ジュリアに子はいませんから!」
「チビとおっさんのどこが親子に見えんだよ!」
「師匠、この子は坊主じゃありません」
「ラウルは『お兄さん』です!」
「おじちゃん、カイルおねえちゃんだよ」
周りをぐるりと取り囲まれ、さらに一斉に訴えられては言葉など聞き取れようはずもない。男は顔をしかめて両手を広げ、宥めようと試みた。しかし大人から子供まで、こればかりは譲れないとなおもぎゃんぎゃんわめきながら徐々に包囲を狭めてくる。
力に訴えるわけにもいかず、じわじわと壁際に追いつめられたハイダルは逃げ場を失い天を仰いだ。やがてなにかを決意したように大きく息を吸い、声を乗せて吐き出そうと口を開いたそのとき、辺りに乾いた破裂音が響き渡る。
一同がはっと口を噤んで振り返ったその先に、胸の前で両手を合わせた中年の男が立っていた。
「皆さん、お取り込み中のようですが……私にも状況を説明してもらえませんか?」
にこやかに微笑みながらも拒否を許さぬ面持ちで、屋敷の主、デュランが歩み寄ってきた。
◇ ◇
「ルシンガー、さま」
緩やかに波打ち肩を流れる黒い髪、潤んだ大きな青灰の瞳。顔は白く血の気を失い、胸元で握り締められた細い指は小刻みに震えている。眉を切なげに引き絞り、いまにも泣きそうな顔をして、それでも女はじっとラウルを見つめていた。そしてラウルも長椅子から動かず女の視線を正面から受け止めて、己の記憶を探っていた。
さきほどの女魔術士だ。声をかけられたあのときはカイルをつけ狙う一味の者かと思ったが、ハイダルは「腕のいい魔術士が来てくれた」と言っていた。行方不明の姉を捜す魔術士、それがこの女であることに間違いない。呼ばれてこの屋敷に向かっていた途中だったのだと、いまになって合点がいく。しかしそれでも根本的な疑問が残っていた。
(なぜ、俺の名を──?)
ただでさえ少ない魔術士の、しかも若い女とくれば記憶に残らないはずがない。だから覚えがない以上、この女とは初対面のはずだった。けれどこの透き通った青灰の瞳に見据えられると胸がざわめき不思議な感覚が沸き上がる。この女を知っていると、そんな気がしてならなかった。
その感情の揺らぎにラウルはいささか戸惑った。なぜだと眉をひそめた視界の端では騎士が片手で子供を抱え、カイルを促し出て行った。まるで猫の仔のように軽々と運ばれていく子供の姿に女の瞳が重なって、不意にラウルの脳裏に「あのとき」のことが蘇る。
はっとした。
まさか、この女は──
「君は……」
青灰の瞳から視線を逸らさずに、ラウルはゆっくりと立ち上がる。女はびくりと肩を揺らしたが、そのままじっとラウルを見つめていた。
やはり同じだ。
恐怖に顔を引きつらせ、それでも声を立てずに必死になって胸にしがみついてきたあのときの子供。安全な場所に移動して、もう大丈夫、そう告げてやっと涙をこぼした小柄ながらも気丈な少女。
「あのときの、子か……?」
白い顔がくしゃりと歪み、涙が両の頬を伝って落ちた。唇は戦慄くばかりで声が出ず、女は肯定の意を伝えようと何度も繰り返しうなずいた。ローブの胸元を涙で濡らし、やがて掠れた声を絞り出す。
「……わ、わたし」
顔を伏せ、女は目元を袖で拭う。それからラウルを見上げると、必死になって震える声を紡いでいった。
「わたしは、ジュリア……ジュリア・プランシェ、と言います。あの。お礼を……っ! あのとき、ちゃんとお礼を、言えなかった、から」
もう10年も前のことだ。外傷はほとんどなかったが、少女は心に深い傷を負っていた。自分の名も思い出せない哀れな子供に辛い過去は必要ない、これから新しい人生を歩むのだから思い出させてくれるなと医師に接触を禁じられた。ラウルとしても見舞いに行くことで少女を苦しめたくはなかったし、幸せになって欲しいと願っていた。だからずっと、万が一にも鉢合わせたりしないようにと帝都にほとんど寄りつかなかった。風の便りに裕福な商家に引き取られ、元気に暮らしていると聞いただけで満足していた。
なのに女はずっとラウルを捜していたという。礼を言いたいとその一心で、家を飛び出し国を越え、諦めずに何年も待っていたのだ。
「そうとも知らず……すまなかった」
ラウルが詫びればジュリアはさらに声を震わせ両手で顔を覆いながらもそれは違うと頭を振った。指の間からは涙が筋となって伝い落ち、ローブの袖口を濡らしている。逢えただけで嬉しいのだと、そう言って泣き崩れる女を前にラウルはぴしりと固まった。
(──これを、どうすれば)
ラウルの両手が宙を彷徨う。
泣き止ませなければ。そう思うのだが言葉どころか手も足も出なかった。焦りだけがじりじりと身を焦がし、やがて向こう脛とつま先にその熱が集まってくる。国境の村、カユテの宿の女将に蹴られた場所だ。「こういうときはどうするんだい?」とあの壮絶な笑みが脳裏に浮かび、背筋がぞわりと泡立った。
強く眼を閉じラウルは決死の覚悟をした。中途半端に挙げた両手を広げ、一歩進むとそれをジュリアの背に回す。恐る恐る引き寄せると女は一瞬固くなったが、すぐに身を任せてきた。拒まれなかったことに安堵して、ラウルはほっと息を吐く。
女の身体はどこまでも柔らかく、ほのかに良い香りがした。頬がカイルよりも少し高い位置にあり、それが胸に当たってこそばゆい。
すまなかったと囁けば、艶やかな黒髪がわずかに震えて女はまた涙をこぼしたようだった。力を入れすぎて壊さぬようにとそっと身体を腕に囲い、驚かせないよう静かに声をかけてやる。
「……泣くな」
「ごめん、なさい……」
「……謝ることじゃない」
「……っ。はい……」
しゃくり上げながらもジュリアはこくりとうなずいた。その仕草は記憶の中の少女と同じようにあどけない。美しく成長したのに、そんなところは変わらないとラウルは密かに苦笑した。
「大きく……なったな」
あのとき少女は身体も小さく片手で抱えられるほどだった。辛い過去が未来に影を落とさないかとそれだけが心配だったがどうやらそれも杞憂ですんだ。苦いだけの出来事だったが少女が立派に成長したと知ればもうこれでじゅうぶんだ。
良かったと、想いを込めて回した腕に力を込めるとジュリアもラウルの胸にすがりつく。そうして再び涙をあふれさせたジュリアが落ち着くまで、ラウルはじっと胸を貸したのだった。
◇ ◇
遠くからかすかに子供の泣き声が響いてくる。
それにカイルは身をすくめ、きゅうと眼を閉じ小さくなった。
「ミシュアルくん……気落ちしなければいいのですが」
「しゃーないだろ。あの坊主はやっちゃならねえことをしたんだ。叱られるのも当然だな」
長椅子の背に両腕を預け、ザックはだらしなく座りながら呟いた。
これまでの経緯を説明するのが一苦労だったのだ。カイルの意向もあってなるべく穏便に、と努力したが語り終えたころには屋敷の主、デュランは鬼の形相になっていた。護衛士見習いのソネルの処遇を師に任せ、息子を部屋に連れて行かせるとデュランはカイルに深く頭を下げて謝罪した。カイルがそれを受け入れると、今度は詫びとばかりに宿の提供を申し出た。そして厚かましいお願いですが、と言葉を濁しながらも一緒に娘を捜してもらえないかと提案したのだ。
カイルがなにかに怯えだしたのはこの街に来てからだという。その原因が行方不明の姉にもあった「見えない花」だろうとは簡単に予想がつく。しかもおっさんはこの家の護衛士とは旧知の間柄、そのうえ姉を捜すために呼んだ女魔術士とまでも知り合いだったらしい。これでは関わるなという方が無理な話だ。カイルは案の定、デュランの提案を二つ返事で引き受けた。ザックはラウルが戻ってから改めて返事をすると付け加えたが、あのおっさんの性格からしてまず断ることはないだろう。
(チビは……まだ狙われてんのか?)
頭の後ろで手を組んで、ザックは横目でカイルをうかがう。
出された茶に手もつけず、まるで自分が叱られたかのようにカイルはじっと動かない。いなくなった姉の手がかりを得るためとはいえ強引に攫われかけて、だというのにそれを命じたミシュアルを心の底から案じているのだ。
(やーっぱ、コレに悪巧みは無理だよなぁ)
現在ザックは「転送陣」という伝説の魔術の調査に向かっている途中だが、この任務を命じられる前は「黒髪の若い女ばかりが攫われる」事件を追っていた。確かに「転送」という魔術は悪用されれば危険極まりないものだが、それを使えるのは恐らくこの「カイル」という少女だけ。けれど少女はやはり事件の被害者で「転送陣」にしても逃げるために使ったものだ。悪用するようなら叩き潰そうと思っていたが、それもいらぬ心配だろう。
それにしても、とザックはひとつ息を吐くと長椅子に身を預けて仰向いた。
城を出るときハーシュは「事件は終わった」と言っていた。だからさほど疑問も抱かず新たな任務に就いたのだ。けれどいまになって疑問がふつふつと沸き上がってくる。
(消えた女たちはどうなった? 保護したとき、チビは酷い怪我をしてたんだろ? だったら……)
事件の重要参考人だというのなら、なぜ国境で拘束してしまわなかったのか。あのときを逃せば後は無いとわかっていたはずだ。ハーシュは慎重にと言っていたが、あえて見逃したとしか思えない。こうなるとやはり命令そのものに無理がある気がしてならなかった。
あの不吉な鐘が鳴ってから何度も連絡を取ろうと試みた。しかし夢の道は閉ざされたまま、いつまでたっても開かなかった。ハーシュの意図はわからない。けれどなにも知らされず遠い地に追いやられ、一方的に無視される。これが「用済み」でないとどうして言えよう。
心に決めた主を亡くし、親友からは忌避される。すべてから見放された気がしてなにもかもがどうでもいいと、消えてしまいたいとさえ願っていた。だから再び生きる糧をくれたこのチビは、どうしても守ってやらなければならなかった。
「ザックさん? まだ身体が辛いですか?」
カイルが目の前で膝をつき、心配そうに見上げている。
それにひょいと眉を引き上げザックは柔らかく微笑みかけた。
「ちっげーよ。昨日ちゃんと休んだからな。もう平気だ」
「本当に?」
「ああ。おまえこそ、怪我の具合はどうなんだ?」
「はい、すっかり良くなりました」
「そっか……そりゃ、上々」
にこにこと2人で微笑み合いながら、ザックは腹の中では頭を抱えて悶えていた。
この少女が事件の最重要参考人であると心の内ではほぼ確定しているが、本人はまだ認めていないはずなのだ。あの護衛士がそう言い聞かせているはずで、この少女を守るためには間違ったことではない。しかしどうもこの少女は素直すぎる。
それでもザックは気をとり直し、その人の良さに付け入ることにした。
「なあ、じゃあさ。おまえ、まだ逃げてんの?」
「もう逃げていません!」
自信満々答えた少女にザックは今度こそ大きな溜息を吐いて天を仰ぐ。
「そっか。やーっぱ、あのときは逃げてたんか」
「……あっ」
はっと両手で口を押さえ、カイルはそそそと後じさる。それに口元を緩めながら、ザックは猫を呼び寄せるように指の先で手招いた。
「逃げんなよ。前にも言ったろ? おまえに不利になるようなことはしないって」
「…………」
警戒し、毛を逆立てた仔猫になったカイルにザックは辛抱強く語りかける。
剣の紋章にかけて守ってやりたいと思っている。そのためには情報の共有が必要だ。話せる部分だけでいいから教えてくれないだろうか。
真摯に話すザックの姿にカイルは口元を手で押さえたまま、困ったように眉根を寄せた。闇色の瞳が揺れている。どうしようかと迷っているのだ。
「俺はそんなに……信じられねえ男かな?」
「そういう、わけでは」
「おっさんに口止めされてる?」
申し訳ないというように、こくりとうなずく少女にザックはにかりと笑顔を見せる。
「わーった。じゃあおっさんと3人で話し合おう。それで良いな?」
「……はい」
「んじゃ、おっさんが戻ってくるまでどんな旅だったか教えてくれよ」
アクサライでどんなものを食べたのか、楽しいことはあったのかと水を向ければカイルは大きな瞳を輝かせ、楽しそうに話しだす。料理の味、種類、そしていかに美味しかったのか。両替するのにどきどきしたこと、アクサライの人々の華やかな服装のこと。風呂に入って洗濯したこと、服を買ってもらったこと。
そして。
「ザクロや葡萄をたくさん食べても、おへそからは芽が出ないのです!」
これが一番の発見だったと満面の笑みを見せるその様子に、護衛士殿の苦労が思いやられてザックは密かに同情した。