見えない花が開くとき・1
外にはまだ明るい陽の光が射している。しかし窓には薄手のカーテンが引かれており、室内は薄い闇に覆われていた。
ゆったりとした長椅子に身を沈めて出された紅茶をひとくち含み、ジュリアはほっと力を抜いて眼を閉じる。
初めて訪れた家なのに、ここはとても心地よい。被ったフードを外しても、この程度なら「雲」が見えても気にならないぐらいのちょうど良い明るさだった。それに「魔術士」といえば気味が悪いと遠巻きにされるのに、この屋敷の人々はずいぶんと好意的だ。
(もしかして、娘さんは)
顔をあげ、ジュリアは部屋をぐるりと見渡した。
屋敷に入ったときからずっと感じていた優しい気配。それが「雲」となってこの部屋にも満ちている。これはいなくなった彼女の想いだ。肉親だけでなくこの家にいるすべての人々への愛情が、こうして彼女がいなくなっても残っている。
穏やかに漂う「雲」の様子にジュリアの胸はずきんと痛んだ。
(こんな子が……家出するはずないじゃない)
娘は自ら家を出て行ったというが、そうせざるを得ない状況だったことは間違いない。
なにか理由があるはずなのだ。心を残すなどひどく辛いことなのに、それでも出て行かなければならなかったそんな理由が。
(なにがあったの?)
彼女の気持ちを思うだけで息が苦しくなってくる。
帰りたいのに帰れない、その辛さは自分も良く知っている。だから一刻も早く家族の元に帰してあげたかった。
もう二度と、誰にもあんな想いはさせたくない。
ジュリアは強く眼を閉じた。覚えているのは断片的な記憶だけ。それすら年々薄れているが、刻み込まれたものもある。
なにもない白い部屋にぽつんと座っているだけの日々。明るい光の中なのに、足もとからじわじわと闇に浸食されていくような──
「──ジュリア、どうした?」
はっとした。急に視界が明るくなって、ジュリアは瞳を瞬かせる。顔をあげて後ろを見れば、そこには心配そうに眉をひそめたケネスがいた。
いけない。引きずられるところだった。いまは彼女を捜すことに集中しなければならないのに。居場所さえわかればこの家にいる優秀な護衛士が彼女を連れ戻してくれるはずなのだ。
「……やっぱり疲れてるんじゃないのか?」
「平気よ。もう大丈夫」
心配かけてごめんなさいと微笑めば、ケネスはむっつりと口を曲げて腕を組んだ。ジュリアも一度座りなおし、背筋を伸ばすと両手を強く握りしめて自らに言い聞かせる。
ずっと昔に乗り越えたはずなのに、あっさり捕まってしまうだなんて未熟にもほどがある。彼女は助けを求めている。ならば今度こそ、伸ばされた手は離さない。そして必ず救い出す。魔術士の持つ力はそのためにあるのだから。
「お待たせして申し訳ない」
そう言いながら屋敷の主、デュランと家令がやってきたのはそれから少し経ってからのことだった。
主の眼の下には大きな隈、顔色も青白く疲れ切った様子である。フードを外したジュリアにこんなにお美しい方だとは、などと世辞を言うのも辛そうで痛々しい。愛娘がいなくなってもう8日、とても仕事どころではないだろう。しかし街の混乱は続いており、家令の補佐があっても責任者として休めるはずもない。ずっと息つく暇なく動き回って疲労と心痛は極限に達しているようだ。
立っているのも辛そうなのにそれでも弱々しく微笑むと、男はジュリアに向かって深々と頭を下げた。
「お願いします。どうか娘を……」
声を震わせ娘を案じる「親」の姿に実の両親が重なって、ジュリアの胸はますます激しく痛みだす。
ひょっとしたら自分の親も、いまもこうして苦しんでいるかもしれない。
そう思ったらやり切れなかった。
たとえ助け出されても、それを知らせることができなければ親は救われないままなのだ。すでに顔も名前も忘れてしまっていたけれど、愛されていたと覚えているぶん辛かった。育ての親には感謝してもしきれないが、満たされれば同じだけの後ろめたさも感じていた。
娘を想うこの「父親」をどうしても救いたかった。だから覚悟を決めて、ジュリアはしっかりとうなずいた。
「お任せください。お嬢さんは家出ではありません。そして帰りたいと願っています。ですから、わたしが必ず見つけてみせます」
デュランははっと息を呑むと顔をあげ、呆然と目を見開いた。どうして、と唇が動くのに、ジュリアは優しく微笑みかける。
「わかります。ここにはお嬢さんの……この家が大好きだと、そんな想いで満ちていますから」
「では……娘は、生きて?」
「ええ。確実に」
はっきりそう断言すると、デュランはへなへなと長椅子の上にくずおれた。
生きて、そして帰りたいと思っている。
その言葉をじっと噛み締め戦慄きながら、デュランは大きく息を吸った。滲んだ涙にぐっと顔をしかめると、強く目を閉じ面を伏せる。口元を手で覆ったが、押さえきれない嗚咽がうなり声のように零れてきた。
「絶対に見つけてみせます。必ず……」
ジュリアの言葉に何度も何度もうなずきながら、デュランは肩を震わせる。そうして落ち着きを取り戻すまで、まるで実の親にそうするようにジュリアはずっとその背中を撫でていた。
◇ ◇
ルッカレの街を南北に貫く大通りを北に向かい、途中で東にそれた官公庁にほど近い高級住宅街の一角。そこにミシュアルの住む屋敷があった。整えられた広い道の両脇には高い塀、辺りはしんと静まり返り、どこか人そのものを拒絶しているようにも感じられる。
ときおり強い風が吹き抜けるなか、1頭の馬を引き連れむっつりと押し黙った3人の男が歩いていた。そして馬上では、少女と子供がすっかり打ち解けおしゃべりに興じている。
「うちのザクロはね、ほかのよりもあまいんだって」
ほんの少しうとうとしただけなのに、ミシュアルはすっかり元気になった。いま庭に実っている果物は、と指を折りながらいくつか挙げると身体をひねり、ぼくがおいしいのをもいであげるね、と背後のカイルを見上げて可愛らしくにこりと笑う。
「それは楽しみですね」
「うんとおいしいから、たくさんたべてね」
はい、とうなずくカイルにえへへと笑い、子供はまた前を見る。やがて「みえた」と指差す先には人がいた。
門の周りを忙しなくうろついていた影がソネルを認め、中に向かってなにかを叫ぶと慌てた様子で駆けてくる。それはミシュアルの家の使用人だった。
「ソネルっ! おまえ、すぐ戻るはずだったろう!?」
「悪い……親父は」
「まったく。いま捜しに行こうとしていたところだ。……こちらは?」
いらいらとした様子を隠そうともせず、男がラウルたちに怪訝そうな目を向ける。
主人の客とも思えない外国人が3人だ。不審に思うのも当然だろう。
そこにラウルは進み出て、威圧感を与えないよう注意しながら穏やかに言葉をかけた。
「俺は護衛士のラウルと言う。ハイダル師の知り合いだ。悪いが、取り次いで貰えないだろうか」
「このおじちゃんもね、えらいごえいしさんなんだって!」
ミシュアルの援護に男は開きかけた口を閉じ、眉の間にしわを寄せると一瞬迷うような素振りをみせた。しかしすぐに「どうぞ」と一行を促して門の中へと入ってゆく。
礼を言い、後に続きながらもラウルは辺りをそっと観察した。
敷地は高い塀で囲まれており石造りの門には魔除けの意匠が刻まれている。そして一歩中に踏み入れば、美しい装飾の施された木と石からなる2階建ての建物がある。庭はさほど広くはないがよく手入れがされており、いくつか果樹も植えられ実がなっていた。
なるほど裕福な商家のようだ。
ここの娘がいなくなったというなら誰もが真っ先に誘拐を疑うだろう。しかし、とラウルはカイルの背を見ながらひとつひとつ確認する。
使用人の話によると、ミシュアルの姉、ナスリーンは自ら家を出ていったらしい。姉の年は15、そろそろ結婚の話が出てもおかしくはない年頃だ。けれど姉にはそんな話もなく、そして恋人もまたいない。父親は留守がちであるが家族仲は良好、そして思い悩んでいる様子もみられなかった。じきに家を離れることから残していく幼い弟が心配だと気掛かりはそれだけで、そこに家出をする理由は見当たらない。けれど家を離れるその理由というのが問題だった。魔術を学ぶため、帝都の学校に行くことになっていたのだ。
(魔術がらみとしか思えないが……厄介な)
魔術士は不可思議な力を行使する。そのためその力を悪用されることがこれまでにも多々あった。もっとも魔術士が自ら犯罪に手を染めることは極めてまれで、脅されやむなく悪事を働くというのが一般的だ。しかし魔力は道具と同じ、持っていても使い方を知らなければ役に立たないものである。これからその「使い方」を学ぼうとする娘をさらっていったいなにをさせようというのか。もしくはなにをしたいのか。
そこでふと、ラウルの脳裏をなにかが過った。
ひたすらに純粋で、疑うことを知らず、ただひとつの目的のために生かされる子供たち。世俗の「穢れ」に触れないよう、高い塔に閉じ込められて何年も──
(まさか……)
ラウルははっと目を剥いた。
遥か昔の記憶がまざまざと蘇る。
激しい剣戟、死にものぐるいで抵抗する狂った眼をした大人たち。そして無惨に殺されていた数多くの子供たち。すべてを葬り去ろうとするかのように闇の中で燃え上がり、崩れ落ちた白い塔。唯一の孫娘を失った男の激しい慟哭。助け出せたのはたったひとり。なのに与えられた「特級」の称号。胸の奥深くに残るのは、重く苦々しいばかりのあの出来事。
ラウルは強く目を閉じ頭を振った。
あれはもう終わったはずだ。
二度とあのようなことが起きないようにと徹底的に叩き潰したはずだった。
なのにまだ──
「おおっ? ラウ坊か!?」
野太い声に顔をあげれば屋敷の裏手から大柄な男が近づいてくるところだった。
つばのない小さな帽子を乗せた黒い髪に黒い髭、日に焼けた肌に丸太のような太い手足、がっしりとした身体つき。ザックが熊だとしたら、こちらは巨大な牡牛のようだ
「……お久しぶりです、ハイダルさん」
「何年ぶりだ? いつのまに弟子どころかこんなに大きな子までこさえてるたあ、坊もなかなかやるじゃねぇか」
握手をしながら大声で笑うこの壮年の男がハイダル、ソネルの師である。ラウルがまだ護衛士見習いだったころから付き合いがあるせいか、ハイダルにとってはいまだに少年のように見えるらしい。
「もう『坊』という年では──」
ありません、と言いかけて気がついた。周りの視線がすべてラウルに向いている。カイルまでもがぽかんと口を開けていた。
む、とラウルが顎を引けばざっと音を立てて視線が散り、明後日を見ながらなにかをこらえるように口元を歪めている。
「……ハイダルさん、この、方たちは」
案内してきた使用人すら口元を手で覆っていた。
それをまったく気にも止めず、がははと笑ってハイダルはラウルの肩をばんと叩く。
「おう、前に話したろ? 俺の知り合いの『特級』護衛士だ。いや、まさか本当に来てくれるとは思わなんだが……」
「……では?」
「ああ、俺が呼んだ。ラウ坊は以前にも似たようなヤマに当たってるからな。これでもう安心だ」
本当に知り合いだったのかと男はほっと安堵の表情を浮かべると、一礼してから部屋を用意すると言って屋敷の中に入っていった。どういうことだとラウルがちらりと視線を向ければ首を軽く横に振って合図を送り、ハイダルは子供の前に膝をつく。
「ミシュアル坊ちゃん、その顔はどうされた? 転んだか?」
「……ううん……」
身を屈めた大男にことさら静かに尋ねられ、子供はもじもじと上着の裾を引っ張った。悪いことをしてしまったと自覚があるのだろう。目には再びじわりと涙が盛り上がり、唇がきゅうと引き結ばれる。それでも思い切って顔をあげ、ミシュアルがあのね、と口をへの字に曲げたとき、ソネルが一歩前へ進み出た。
「師匠……あの、俺が」
「怪我はないな? ……なら、話は後だ」
え、と瞬いた子供を軽々と抱き上げて、ハイダルは目元に深い皺を刻んでみせた。
「旦那さまが捜しておられた。お嬢さんを捜すのに、坊ちゃんの力が必要だとか」
「……ぼく?」
「ええ、腕のいい魔術士が来てくれたのです」
旦那さまの用事が済んでから、それから教えていただきましょう。
にたりと微笑むその顔に、ミシュアルは無邪気に「うん」と首を振り、ソネルは青ざめ立ちすくむ。その様子を満足げに見やり、ハイダルはラウルに向かって器用に片目だけを閉じてみせた。
「ラウ坊! 『あんとき』と同じだ。ひとつ、よろしく頼む」
促され、屋敷に向かって歩きながらもラウルはそっと息を吐く。
協力を仰ぐつもりが有無を云わさず巻き込まれた。
とはいえカイルの件がなかったとしても、たとえ断られても話を聞いてしまったいま、この件に手を出さずにはいられなかった。だからそれを見越してハイダルはラウルを「呼んだ」と言ったのだ。
この人にはまだまだ敵わない。
もう一度胸に溜めた息を吐き出して、ラウルは隣を歩くカイルの肩に手を乗せた。
大丈夫、頼もしい味方を得られたのだ。今度こそ悲劇は未然に防いでみせる。
見上げる黒い瞳は不安げに揺れている。それに力強く微笑みかけて、ラウルは一歩を踏み出した。
◇ ◇
いったん席を外したデュランは戻ってくると、ずいぶん晴れやかな顔になっていた。疲労の影は残っているが、眼には娘を無事に取り戻そうと強い決意がみなぎっている。
魔術の成否は意思の力がものを言う。そして手がかりになるのは親しい家族。これならきっと大丈夫。
ジュリアはさっそく娘を捜す魔術の準備に取りかかろうとしたのだが、それにデュランは済まなさそうに頭を下げた。
「それが……何度も申し訳ない。実はまだ……息子が戻っていないのです」
夕べの話だと子供は2人、娘に続いて息子までもいなくなったのかと青ざめたジュリアに対し、デュランは困ったようにひょいと肩をすくめてみせる。
「なに、心配はいりません。息子を落ち着かせるために、護衛士と近くを回ってすぐ戻るということでしたから」
自分が姉を捜すのだと、弟はそう言って聞かなかった。ずっと外に出ることを禁止され、ずいぶん不満もたまっていた。このままでは魔術に協力するどころかひとりで勝手に飛び出しかねない。だから護衛士と離れないことを条件に、屋敷の外に出ることを許可したのだ。
戻ったらすぐ来るように伝えておいたから大丈夫。先にできることを始めましょうとデュランはジュリアに提案した。一刻も早く娘を助けたいという気持ちも良くわかる。ジュリアも同意し、集中を邪魔しないようにと家令とケネスは退室した。
持参した銀の盆に水を張り、それを静かに卓に置く。これをどのように使うのかと興味深そうに眺めるデュランに、ジュリアは向かいに腰を下ろすよう促した。
「わたしはお嬢さんのことを知らないので、まずはそれを教えていただきます」
「はい……あの、姿絵は見なくとも?」
いよいよだと身を固くしたデュランの心をほぐすように、ジュリアはふわりと微笑んだ。
「ええ、実際に捜すときはお嬢さんの『雲』──気配のようなものを手がかりにしますから」
「気配、ですか」
それで捜せるとは不思議なものですね。そう首をひねる姿に恐れも嫌悪も感じない。
その様子にやはり、とジュリアの予想は確信に変わっていった。
「あの……お嬢さんには、魔術士の資格が……ありますよね?」
「! ……なぜ」
びくりと身体を揺らしたデュランにジュリアはわずかに眼を伏せる。無理もない。帝都を一歩外に出れば、まだまだ魔術士に対する風当たりは強いものがある。だから大切な娘に「資格」があることをあまりおおっぴらにしたくないのだろう。
「わたしも、魔術士ですから」
「あ、ああ……そうでした。重ね重ね申し訳ない。隠すつもりはなかったのですが」
「お気持ちはわかります。でも、今回はそれが幸いでした」
もともとの気質がそうなのか、長い迫害の歴史がそうさせたのかはわからない。しかし魔術士は互いを感じ取り、助け合うものなのだ。特に魔力に目覚めたばかりで使い方を知らない「雛」には無条件で力を貸して世話を焼く。そして言葉を交わさなくとも「雲」を介してある程度意思の疎通までできてしまう。
「見ず知らずの人を辿ることはできません。それに人には心があるから、帰りたくないと思っていれば捜せなくなってしまいます」
けれど相手が同じ魔術士で、しかも助けを求めているとなればかなり遠くからでも見つけることができるだろう。そしてデュランも弟も、娘のことを深く愛してその身を案じ、必死になって捜している。
(これで見つからないはずがない)
伏せていた顔をあげ、ジュリアは背筋を伸ばしてデュランに力強く断言した。
「でも、お嬢さんは大丈夫です。お2人の想いがあれば、必ず見つけることができるでしょう。──いえ、捜しだしてみせます」
◇ ◇
右肩を見ては首をかしげ、手で触れてなにもないことを確認すると上着を引っ張りながらカイルは背中を見ようと仰け反った。
「こら、背中じゃない。肩だ」
よろけた身体を支えて元の位置に戻してやると、カイルは礼を言ってちょこんと長椅子に腰掛ける。
「肩のどの辺りなのでしょう。わたしには、やはりなにも見えません」
「安心しろ。俺もさっぱりわかんねえから」
そんなもんは見ようとしても無駄だとばかりにザックは片手を振っていたが、それでもカイルは諦めなかった。
「でも、花の莟があるのでしょう? だったらほかにも……」
葉や茎があってもおかしくないとカイルは再び眼を凝らし、じっと肩を見つめている。
その様子を微笑ましく見守りながらもラウルとザックは警戒を解かなかった。カイルはこの街に来た途端に怯えだしたのだ。そして失踪したミシュアルの姉、ナスリーンにも同じ「莟」があったという。さらにカイルはすでに一度、何者かに襲われている。手がかりはこの見えない莟にあるとしか考えられなかった。
(魔術士のみに見える花──これをどう使う?)
さきほどラウルを名指しで呼び止めた女魔術士。彼女はなにか知っていたのだろうか。てっきりカイルを狙った一味とばかり思っていたが、魔術士はいわば切り札だ。わざわざ姿を晒し名を呼ぶなどと、己を強く印象づけることはしないだろう。
声からするとまだ若い女だった。そして組合に言付けてまで呼び出した、ケネスという護衛士も気にかかる。この2人が繋がっているとすれば無理なく話は通ってくるが、会いたいというその理由がわからなかった。魔術士の知り合いはほとんどいない。ならば記憶のどこかにあの女がいるはずだと探ってみても、皆目見当がつかなかった。
(もう一度、組合に行ってみるしかないか)
すべてが予測の範囲を出ていない。不確かなことを基に動いても、得るものは少ないだろう。時間はないが慎重に、確実に対処しなければならなかった。
この難事にひとつ息を吐いて隣を見れば、首をひねり過ぎて疲れたのかカイルが首を回して叩いている。それをザックにからかわれ、口を突き出し言い返す。
(そういえば……この騎士はあのときなにを探っていた?)
じゃれ合う2人を眺めながらも国境での夜を思い起こそうとしたのだが、いくつかの気配がそれを阻むように近づいてきた。
ラウルが気づくと同時に残りの2人も扉の方に目を向ける。それから少しして響いてきた、心躍るようなその足音に3人は首をひねって顔を見合わせた。
なにごとかと待ち受けるなか音を立てて扉が開き、小さな影が息せき切って飛び込んでくる。
「おねえちゃん!」
瞳を輝かせ、まっすぐカイルに駆け寄り抱きとめられるとミシュアルは喜びの声をあげた。
「あのね、ジュリアおねえさんが、おはなをみてくれるって!」
それは誰でなんのことだと騎士と共に顔を見合わせ、そしてラウルは驚愕に眼を見開いた。
「ルシンガーさま……」
開け放った扉の向こう、そこに濃紺のローブを羽織った一人の女魔術士が立っていた。