再会・6
名前はミシュアル、6歳。この近所に住んでいるらしい。
子供から聞き出せたのはこれだけだった。
「ごっ、ごめ、なさ! ごめ……」
しゃくり上げながらも必死にカイルにしがみつき、子供はたすけて、ごめんなさいと繰り返すばかりだった。こうなるともうお手上げだ。事情を聞くどころではない。ラウルは深い溜息を落とすと膝をつき、転がっている男を引き起こした。片手でもって背を支え、軽く頬を叩いてやると男はうめき声をあげて目を開ける。一瞬ぼんやりとしていたが、すぐに瞳には光が宿り、ラウルに気づくとぎょっとして身を引いた。
「ソネルと言ったか?」
地を這うような低い声に男は青くなって頷いた。それからはっとするとなにかを探すように辺りを見回し子供を認めてほっと肩から力を抜く。同時にちらりと周りうかがい隙を探ったようだがラウルとザックの厳しい視線にさらされて、逃げることも抵抗することも諦めたようだった。男はぎこちなく腰を揺すって座り直すと背中を丸めて眼を伏せた。
「何者だ。なぜ、あの子を攫おうとした」
「お……おれ、は」
喉をさすりながら何度か咳き込み、男は顔をしかめて額に手を当て黙り込んだ。しかしすすり泣く子供の声に耐えきれなくなったのか、ひとつ息を吐くと掠れた声で話しだす。
「……おれは、護衛士……見習い、で。その子……彼女を、助けようと」
ちらりとあげた視線の先には膝立ちになったカイルがいる。子供を抱きしめあやしながらもきょとんと瞬いた黒い瞳と眼が合うと、男はひっと息を呑んで肩を揺らし、腰を浮かせて逃げようとした。しかしすぐさま腕をひねり上げられて、男はごくりと喉を鳴らして動きを止める。
「……ほう? 助けようとしたのか」
耳元から響いてきたその声に、男は頬を引きつらせながらも恐る恐る振り向いた。そして翠の瞳と眼が合うと、瞳を絶望に染めあげ喘ぐような声を出す。
「あ、いや。助けたい……っつーか、助けて欲しいっつーか」
「……そうか」
ラウルは口元をわずかに引き上げた。しかしその眼には厳しい光をたたえたまま、立ち上がると文字通り男の首根っこを引っ掴み、有無を言わさず歩き出す。
「もう少し、詳しい事情を聞いてくる」
「りょーかい」
「あの、ちょっと……」
片手を上げたザックに向かって男は助けを求めるように手を伸ばしたが、奮闘むなしく指先は空を切る。そのままずるずると路地裏に引きずられていった男に気づいて子供がカイルの胸から顔をあげた。
「そ、ソネルぅ……」
置いていかないで、と震えだした子供を抱きしめて、少女はそっと囁いた。
「大丈夫ですよ、ミシュアルくん。少しお話するだけです」
「……ほ、ほん、とう?」
泣いて赤くなった瞳がカイルを見上げ、きゅ、とたどたどしく眉根を寄せた。じわりと涙が盛り上がり、瞬くと、ふっくらとした頬に涙が一筋伝って落ちる。それをそっと拭ってカイルはにこりと微笑んだ。
「ええ、本当ですよ」
「護衛士同士の話し合いだ。なーんも心配ないからな?」
ザックが小さな頭にぽんと手を載せそのままぐるりと撫で回す。
大丈夫。カイルがもう一度しっかりとうなずけば、子供はやっと落ち着いてきたようだ。涙で潤んだ大きな瞳でカイルを見上げ、ことりと首を傾けた。
「あのおじちゃん……ごえいし、さん?」
「はい。ラウルは偉い護衛士さんなのです」
にこりと優しく微笑まれ、子供はぱちりと瞬いた。
えらい、ごえいしさん。口の中で復唱すると、じゃあ、と子供は嬉しそうに声をあげる。
「ハイダルおじちゃんみたいなの?」
「……ハイダルさん?」
「ハイダルおじちゃんはね、ソネルの、せんせいなの」
眼と鼻の周りは赤く腫れてしまっているが、もう涙は止まったようだ。子供はすんと鼻をすすり、袖でぐいと涙を拭うと誇らしげに胸を反らせて宣言した。
「すっごくおっきくて、すっごくつよいんだよ!」
「ラウルも、とても強くて優しい人ですよ。ハイダルさんも、そうなのですね」
「うん!」
頭を大きく縦に振って、子供はやっと笑顔を見せた。
それから路地裏に消えた2人が戻ってくるまでカイルと子供は護衛士談義に花を咲かせ、ザックはひとまず大きな安堵の息を吐いたのだった。
◇ ◇
さんざん泣いて疲れ切ってしまったのだろう。子供の頭がぐらぐらと揺れている。それをそっと胸にもたれさせ、馬から落ちないように抱え直すとカイルはくすりと微笑んだ。
「ザックさん。ソネルさんは、悪い人ではないと思います」
「んーな簡単に決めんなよ」
下唇を突き出して、ザックはぎろりと振り返った。
あのときどんなに肝を冷やしたことか。今回は無事だったから良いようなものの、もう二度とこんな思いはごめんだった。
なのに渦中の少女といえば、胸に抱いた子供のふっくりした頬から髪を払い、眠る姿を満足そうに見つめている。そこには緊張感の欠片もないうえ妙な持論を展開するからザックはまったく気が休まらなかった。
「でも、この子はソネルさんを慕ってますし。それにとても良い子です」
「この子」とは馬である。ラウルとソネルの「話し合い」の場、路地裏に留め置かれていたソネルの馬だった。確かによく手入れがされ、性格も大人しく従順だ。しかしだからといって飼い主が善人だとは限らない。
チラと見ればうっとりと、カイルは跨がった馬を愛おしそうに撫でている。
子供とカイルの乗った馬の手綱を引きながら、ザックはさらに口をとがらせた。
「おまえね。馬が主人に懐くのは当たり前だっつーの」
「そうですけど。でも馬を見ればお世話する人の人となりもわかりますよ?」
「ほーお。んじゃ、ジュニアはどうよ? アイツはな、性格ひねくれてるぞ? 俺ぁ、あんなに性格悪くねぇ」
己の愛馬がいかに意地悪であるか、ザックはいくつも例をあげて教えてやった。しかしカイルはそんなことはないと力一杯否定する。
「ジュニアは、とってもとっても良い子です」
「どーだか。この髪だってなあ、アイツにやられたんだぞ? 主の髪を食うなんざ、どこが『良い子』だっつーんだよ」
短くなった髪に合わせて整えればだいぶ短くなってしまった。おかげで頭がすうすう涼しくてしかたがない。男の命ともいえる髪をこんなにされて、笑って許せるものでもないだろう。
そう告げればカイルはきゅうと子供を抱きしめた。そして頭を優しく撫でながら、ザックに向かってぽつりとこぼす。
「……だって、ジュニアは」
「んだよ」
「ジュニアはザックさんのこと、弟だと思っているから」
「……はあ?」
「だからからかったりするんです。でも、ザックさんのことは大好きですよ?」
「ばか言え! 俺はアイツが赤ん坊のころから世話してんだぞ? 俺が兄ちゃんに決まってんだろ」
「ええ? でもジュニアは──」
そのまま小声で言い合う2人の背を眺めながら、ラウルは辺りに気を巡らせた。行き交う人々にも風の音にも今のところ異常はない。先頭を歩くソネルという護衛士見習いが少々挙動不審であるが、これは怯えているためだろう。
一行は、ミシュアルの屋敷に向かっていた。
カイルの件でソネルの師、ハイダルに協力を仰がなければならなくなったのだ。
このソネルという護衛士見習いの暴挙には理由があった。しかも魔術士がらみであることはまず間違いないだろう。この得体の知れない「魔術」という力を相手に、しかしラウルは驚くほど凪いでいた。そして同時に身体の奥底では火が灯り、じりじりとくすぶっている。
来るべきものがついに来た。ここで決着をつけなければならなかった。
「あの子を攫ったのは……本当に、助けるためだったんだ」
カイルを連れ去ろうとした男──ソネルはそう切り出した。
「なに?」
「このままじゃ、あの子ももうすぐいなくなる。ナスリーンお嬢さん……ミシュアル坊ちゃんのお姉さん、みたいに」
「どういうことだ」
力づくになるかもしれないと路地裏まで引っ張ってきたのだが、男に抵抗する意志はみられなかった。塀に背を預けてずるずると腰を下ろし、つかえながらもラウルの問いに答えを返す。
「お嬢さんは……」
そこまで口にすると苦しげに顔を歪め、ソネルは悔いるようにぽつりぽつりと語りだした。
それは、にわかには信じられないような話だった。
帝国皇帝崩御の報が伝わって、週が明けると街は大混乱に陥った。ルッカレは交易の街、常に荷が行き交う場であるというのにそれが突然止まったのだ。この前代未聞の事態に人々が冷静でいられるはずもない。街のあちこちで怒声が飛び交い商人たちは意味もなく駆け回る。そこここで乱闘騒ぎも起きていた。
これではなにがあるかわからない。
子供たちは外出を禁止され、姉弟は大人しく従った。しかし弟のほうは外で遊びたい盛りの年頃だ。不憫に思ったソネルが下街の屋台で子供に人気の菓子を買い、気晴らしにと2人に届けたときのことだった。
「莟は見えるかって、そう訊かれたんだ」
姉の手首に赤い花の莟があるという。
しかしソネルにはそれがなんなのかわからなかった。すると姉弟はやっぱりね、と顔を見合わせ微笑み合う。どうやらそれは姉弟にしか見えない花のようで、今まさに咲かんとほころんできているそうなのだ。
明日になったら満開になるだろうから、そうしたらソネルにも見えるようになるかもしれない。とても綺麗だからぜひ見せたいのだとそう言う2人に、ならばと約束をしてその日は休んだ。ところが次の日の朝、姉はこつ然と姿を消していた。
子供部屋のすぐ近くに部屋を与えられていたというのに、ソネルもその師もまったく不審者の気配に気づかなかった。そのことに師はひどく責任を感じたようで、伝手を使って組合やら警備隊やらに手を回して情報を集めたが、姉はいっこうに見つからない。身代金の要求もなく、しかも若い使用人が夜中に外に出て行く姿を見たと証言したことから、家出として捜査は打ち切られてしまったのだ。
けれど、とソネルは拳を強く握りしめる。
「お嬢さんが家出なんてするはずないんだ。だってお嬢さんは……」
そこでソネルは言いよどんだ。大きく息を吸い、吐き、それを何度か繰り返してからやっと言葉を絞り出す。
「ま、魔術の、素質があるって。それで年が明けたら帝都の学校に、行くことになっていて」
弟がまだ乳飲み子だったころに2人の母親は亡くなった。だから弟にとっては姉が母代わりだったのだ。父親も仕事が忙しく、そうそう子供に構ってはいられない。だから高名な護衛士であるソネルの師、ハイダルが父親の役目を担ったようなものだった。そしてソネルも2人を実の兄弟のように可愛がっていたし、守ってやりたいと思っていた。
「お嬢さんは坊ちゃんがまだ小さいのに、残していくのは心配だって。だから出立の日まで、できる限り傍にいてやるんだって」
ずっとそう言っていた姉が、はたして家出などするだろうか。
何者かに攫われたに違いないのに、何度訴えても警備隊は動かない。姉がいなくなってもう8日、居ても立ってもいられず弟と共に姉を捜し、そしてカイルを見つけたのだ。
「あの子の右肩にも、お嬢さんにあったのと同じ莟があるって坊ちゃんが。だからあの子のそばにいれば、お嬢さんの手がかりが──」
「──だから、攫ったと?」
ラウルの怒りに当てられて、男はひゅっと息を呑んで押し黙った。しかし一拍後には歯を食いしばり、青ざめながらも唸るような声を出してラウルをきっと睨みつけた。
「……じゃああんたは! もし俺が『もうすぐあの子がいなくなる』って言ったら、それを素直に信じるのかよ!」
「……無理だろうな」
「だろ!? だから俺は……っ!」
「だとしても、やり方というものがある。おまえのしたことは、おまえのみならず師も、そして護衛士そのものをも侮辱したと同じことだ」
はっとして口を噤むと唇を噛み、ソネルは両手を膝の上で握りしめて俯いた。
「俺は……いいんだ。護衛士をクビになっても……お嬢さんが戻ってくるなら」
「馬鹿め。弟子の不祥事は師の責任だ。クビになるのはハイダル師のほうだ」
「──なっ!?」
「知らなかったのか? アクサライの護衛士法は、ことさら厳しいというのに」
ソネルは顔から血の気をなくしてラウルを見上げ、そして呆然と両手を宙に彷徨わせる。
「待ってくれ。師はなにも……」
「言い訳は後だ。まずはあの子を送っていく。それからハイダル師と相談しよう」
踵を返しながらそう告げれば、ソネルも慌てて立ち上がる。馬が、と言うのでそちらを向けば、路地の奥からじっとうかがう目があった。
カイルを攫い、ここで馬に乗り換え逃げるつもりだったのだ。
(もう少し……脅かしておけば良かったか)
舌打ちをこらえ、ラウルはソネルを促し歩き出す。
考えなければならないことは山ほどあった。
(──これはただの『偶然』なのか?)
ハイダルは古い知り合いだ。癖はあるが優秀な護衛士で、まだラウルが駆け出しのころはずいぶん世話になったものだ。それが寝ていたとしても不審者に気づかないなどありえない。
誰にも知られず突然姿を消した姉、そしてカイルは寝込みを襲われたと言っていた。それには魔術が関わっているとも。この2つの事件の奇妙な一致。
それにさきほどラウルを呼び止めた魔術士の女、ケネスという男、そしてこの護衛士見習いとハイダル師──
辺りに渦巻く風のように、なにもかもが一気に押し寄せ奪い去ろうと迫っている。
決して負けられない、けれど一度でも手を間違えれば取り返しがつかなくなる。
綱渡りをするようなそんな予感にラウルは身を震わせた。護衛士として久しぶりのこの感触がひどく懐かしく、また歓喜にも似た震えが沸き上がってくる。
身ひとつで逃げてきて、悪夢にうなされ兄を呼んだ少女。なにか大きなものを背負っているのに、ずっとたったひとりで耐えている。
その荷を肩代わりしてやれない以上、もう二度と同じ恐怖を与えてはならない。カイルを襲おうとする輩から、今度こそ守ってやらねばならなかった。