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運命の環は巡る  作者: らみ
終末を望むもの
51/59

再会・5

 


 心臓が止まるかと思った。

 冷たい汗がどっと噴き出しジュリアは胸を押さえて何度も喘ぐ。

 逢いたくて逢いたくて、ずっとそれだけを願っていた。一目逢えればそれだけでいいと、そう思っていたはずなのに。

 道行く人々から頭ひとつ飛び抜けて背が高い、くすんだ金髪の男の人。次の依頼人である豪商の屋敷に向かう途中であの人を見つけたときは夢かと思った。まさかとじっと眼で追って、ちらりと見えた横顔で確信した。「雲」を見ずともすぐにわかる。あの人だ。いましかないと荷物を捨てて追いかけて、心のままに声をかけた。何度も何度も練習したからとっさの時でも口も舌も滑らかに動くようになっていた。現実のあの人を前に名を呼べる。それがたまらなく幸せで。

 あの人が振り向いてくれたときは嬉しかった。あのときと変わらない、威風堂々としたその姿。緑の瞳が見開かれ、視線がぴたりと合ったときには覚えていてくれたのかと天にも昇る心地だった。

 忘れられているのは当たり前。怪しまれてもしかたがない。でも誰だ、とそう尋ねられたらちゃんと説明して礼を言おうと思っていた。

 それがまさかあんなふうに憎悪を向けられるとは想像すらしなかった。なにが起きたのかわけもわからず息を詰めたその一瞬で、あの人はすぐ隣を駆け抜けた。風が頬に当たったけれど、振り返ることもできなかった。

 舞い上がった心は一瞬で地の底まで突き落とされた。胸がえぐられるように痛かった。苦しかった。そして悲しかった。


(ああ、ダメ……)


 立っているのが精一杯だ。でもこんなところで倒れるわけにはいかなかった。

 強く眼を閉じ息を吸う。震えながらも胸いっぱいに満たした空気をゆっくりと吐き出して、ジュリアは腹に力を入れると歯を食いしばる。

 泣くな。まだ間に合う、あの人を追いかけろ。

 そう叱咤するのに足は石になったように重くなり、ぴくりとも動かなかった。ずきんずきんと胸が脈打つように痛んでいた。


「ジュリアっ!」


 大きな荷を背負ったケネスが駆けつけジュリアの顔をのぞき込み、はっと息を飲み込んだ。


「……大丈夫か? 少し、休んだほうがいい」

「……平気よ」

「いや、休もう。そこの店まで歩けるか?」


 促され、一歩踏み出そうとしてよろめいた。ケネスが支え、ジュリアはその腕に縋りつく。無言で唇を噛んだジュリアを痛々しそうに見つめながら、ケネスは時間をかけて屋台の前まで移動すると木陰の椅子に座らせた。

 待ってろ。そう言い残して席を立ったケネスを見送って、ジュリアは眼を閉じると胸の前で手を握る。意識して大きく息を吸い、それを鼻から少しずつ吐き出した。

 魔術と同じだ。集中しろ。


(落ち着いて。あの人は、どんな人?)


 記憶を探ると笑顔が浮かぶ。

 自分自身も怪我をして、頬から血が伝っているのにもう大丈夫だと力強く微笑む姿。そんな人が理由もなく相手を傷つけるようなことをするだろうか。なにも言わずに駆けていったのは、ほかに事情があったのではないだろうか。

 目蓋を開ければまばゆい光が眼に痛い。ジュリアはその眩しさに目を細め、ローブの影から道行く人々を眺めてみた。

 ときおり強い風が吹く中を大勢の人馬が歩いている。先ほどまではまったく気にもしていなかったが、仕事中にこんな往来の真中で呼び止められたとしたら。ただでさえ怪訝に思うだろうに、ローブを目深に被ったジュリアはどう見ても魔術士だ。見知らぬ人間どころか魔術士に、突然名を呼ばれて話しかけられれば大抵の人は身構える。


(馬鹿みたい。──ひとりで勝手に喜んで、無視されたって落ち込んで。あの人のことなんて、全然考えていないじゃない。でも)


 ジュリアは顔を伏せると手を開き、表に返してじっと見た。

 あれから10年。短くない年月を待っていた。それをあの一瞬だけで終わらせることはできなかった。とても諦めがつかなかった。それにあの人には得体の知れない魔術が関わっている。悪いものではないかもしれない。けれど、せめてそのことだけでも知らせなければならなかった。


「ジュリア? 気分はどうだ」

「──ケネス」


 声のした方を振り向けば、気遣うようにケネスが2つの器を手に立っていた。片方を差し出され、礼を言って受け取った器の中には乳入りの暖かい茶が入っている。

 それに気づいたジュリアの頬がほころんだ。

 ずいぶん昔、茶に牛の乳を入れて飲むのが好きなのだと言ってから、以来ケネスはいつもこの茶を用意してくれるようになったのだ。

 気持ちが少し軽くなり、ジュリアはもう一度礼を言う。ケネスはほんの一瞬動きを止めたが隣に腰をおろすと無言でぐいと茶を含む。二口、三口、少しずつ茶を飲みながら、ケネスは静かに問いかけた。


「いまの……あの背の高いのが」

「うん……そう」

「なにか、されたのか?」


 ううん、と首を横に振り、ジュリアはぎこちなく微笑んだ。


「私、全然周りが見えていなかったから」


 胸の内に苦いものがひろがった。けれど茶を含むと蜜の甘みが口の中に広がって、胸の痛みを和らげる。身体の強ばりも少しずつ解けてきた。

 ジュリアの様子をうかがいながら、ケネスは「そうか」とそれだけを口にした。けれど茶を飲みながらもちらりちらりと視線を寄越して鼻を掻く。気づいたジュリアが顔を向けると誤摩化すように茶を飲んだ。

 詳しく聞きたいだろうに我慢してくれてるんだ。

 その様子が可笑しくて、ジュリアはひっそり笑みをこぼす。ケネスと視線が重なりそうになり、緩んだ口元を見せないようにとジュリアもぐいと茶を飲んだ。

 落ち込んでいる暇はない。動かなければ。

 ジュリアは残った茶を飲み干すと立ち上がり、ケネスに向かって微笑んだ。


「もう大丈夫。心配かけてごめんなさい」

「謝ることじゃ」

「ううん。私、ケネスに甘えてばかりだもの。こんなんじゃいけないよね」


 空になった器を2つ手に取って、返してくる、と席を立つ。


「ごちそうさま」


 器を返してジュリアは両手に力を込めた。

 諦めるな。顔をあげて前を向け。

 もう「あのとき」とは違う。私は小さな子供じゃない。白い壁も高い塔も、私を閉じ込めるものはなにもない。そしてこうして大地を踏みしめ自分で歩ける足がある。怖れるな。踏み出さなければ近づけない。

 動かなければ。そうしなければ、なにも始まらないのだから。

 振り向いて、小走りで戻るとジュリアは荷物に手を伸ばす。


「行きましょ。次の仕事を終わらせて、そしたらもう一度、あの人に会ってみる」

「それで……良いのか?」

「うん。一度逢えたから。これからはすぐに探し出せる……だから、大丈夫」


 荷物、ありがと。

 そう声をかけるとケネスはぐっと息を呑み、無言で荷を奪って歩き出した。


「……俺が持つ」

「悪いわよ」

「いいんだ。軽いから、持たせてくれ」


 荷を巡ってささやかな攻防を繰り広げながら、2人は街の北側に向かって歩き出した。



 ◇  ◇



(殺される! ……殺されるっ!)


 男は無我夢中で走っていた。

 息が苦しい。胸がつまる。口の中は乾いて引きつり喉がひりひり痛みを増す。頭にがんがん響いてくるのが心の臓の鼓動なのか呼吸の音なのか、それとも自分の足音なのかそれすらもわからなかった。

 周りを見渡す余裕などどこにもない。それでも人気のない通りに飛び込み小刻みに角を曲がり、北に向かいながら追っ手を撒くことだけに集中する。この街のことなら隅々まで知っている。下街と違って高い塀に囲われた高級住宅街は、昼間は人が少ないのだ。

 この子供と一緒にいた二人の男。どちらも自分の手には負えそうにない。それでもずっと後をつけ、ほんの一瞬の隙をついて攫ってきた。少しでも身を軽くしようと武器の類いは預けてきたから捕まれば間違いなく殺される。たとえ逃げ切れても親父にバレれば後はない。間違いなく身の破滅だ。

 けれど、それでもこの子は連れて行かなければならなかった。手がかりはこれだけで、もう他に手はなかった。急げ、急がなければと足を動かし駆け続けた。抱え込んだ小さな身体を落とさないようにとそれだけに気を使い、男はひたすら走っていた。


(あの角を曲がれば!)


 馬まで辿り着ければ逃げ切れる。

 ひゅうひゅうと胸が笛のように鳴っていた。身体が限界を訴えたが無視して足を前に出す。


(あと少し……っ)


 と、なにかにつまずき身体が浮いた。蹴った足が宙を掻き、次の瞬間男は背中を地に打ちつけていた。


「がっ……!」


 衝撃で身体が弾み、激しい痛みに呼吸が止まる。みぞおちが圧迫されてひしゃげた声が喉から漏れた。強く眼を閉じぐるぐる回る世界をやり過ごし、やっとのことで息を吸って目蓋を開くと闇よりも暗い瞳と目が合った。

 上から男を見下ろしているのは攫った子供だ。少年の格好をしているが、女だというこの子供。抱えたときにはあれほど軽かったのに、いまは力を込めても男の上からぴくりとも動かない。いや、みぞおちを強く膝で押さえられ、身体に力を入れることができなかった。さらにいつの間にか喉の上には鞘の先が当てられて、動こうとすると容赦なく食い込んでくる。

 大の字で地面に貼りつけになったまま、男は指先ひとつ動かせなかった。視線を逸らすことすらできなかった。少女の静かな瞳に呑まれたと言っていい。恐れも憎しみもない、感情のこもらないその瞳が怖かった。影になった顔が美しいだけに、よりいっそう恐ろしかった。


(なんで……っ。こんなガキがっ)


 たったいま目にした光景が信じられなかった。腕の中で少女が動いたと思った瞬間、男は投げ飛ばされたのだ。足を払われ右手を取られ、あっという間に天地が逆になった。とっさになにが起きたのかわからなかった。

 浅い息を繰り返しながらも逃げ出す隙を探ってみるが、指に力を入れるだけでも喉の圧迫が強くなる。


(クソっ、動けねぇっ!)


 雲が多いとはいえ陽はまだ高い。後頭部に当たる砂は熱を持ち、背中がじりりと汗ばんでいる。なのにひゅうと風がそよぐ感触が、まるで冷たい刃が頬を撫でるようだった。

 見上げる先の、底の見えない昏い闇。

 まるで道ばたの石を見つめるようなその視線にぞわりと身体中の毛が逆立った。こめかみを汗の粒が伝って落ち、眼は乾いて痛みを訴えるのに瞬きすらできなかった。


(ヤバい。このガキ──!)


 遠くから男の怒鳴り声と足音が響いてくる。この少女の連れに違いない。

 逃げなければ。

 焦りばかりが大きくなる。

 けれどこの闇から目を逸らしたら殺される。そんな恐怖が腹の底からわき上がり、震えを押さえることができなかった。

 呼吸はますます浅く、速くなる。耳の奥からごおごおと音がして、頭にかっと血が上る。頬を撫でた風に死の息吹を感じたとき、ふと、視界の隅を小さな影が横切った。

 はっと目を剥き男は夢中で影を追う。


(逃げろ! 来てはダメだ。ダメだ、ダメだ!)


 その気配に気づいたのか剣の柄を握る少女の右手に力が入る。

 ダメだ、やめろ。そう声をあげたつもりだった。しかし出てきたのは掠れるような喘ぎだけ。男の瞳が絶望に染まる中、影が叫びながら突っ込んできた。


「わあああぁあっ!」


 男の喉から剣が外れ、少女がゆっくりと立ち上がる。影のほうに身体を向けると、両手がついと伸ばされた。


「あああぁっ」


 少女が影を受け止める。

 やめろ、殺さないでくれ。

 最後の力で伸ばした右手が突如地面に縫い止められた。痛みをこらえて横目で見れば、大きな足が手首の上に乗っている。


「チビっ、無事か!?」


 足に力が加わり手首がみし、と音を立てた。苦痛に呻く男の上で小さな子供が叫び声を上げている。


「やめてーぇ、やめてやめて! おねがいっ!」


 顔をくしゃくしゃにして泣きながら、子供が男の腹を踏みつけた。少女にしっかり抱きつきながらもここから離れろというように、足を力一杯踏ん張っている。

 十にも満たない子供だろうか。しがみつく小さな身体をカイルは支え、促されるままそっと後ろに下がっていった。


「……ザックさん」

「なんだこの餓鬼。まさかコイツも攫われて」


 上質な刺繍の入った服を着た、アクサライの子供だった。だがカイルに向かって「やめて、はなして」と叫んでいるところをみると、どうやらこの男を助けようとしているようにみえる。しかし同時に足蹴にもしているので、どうしたいのかよくわからなかった。

 言葉にならないなにかを叫び、子供はふたたび男を力一杯踏みつけた。


「っ──ぐえ」

「……あっ」

「おっ?」


 踵がまともに喉に入り、男は白目を剥くとくたりと急に静かになった。しかしそれに気づかないのか子供はなおも「たすけて」と泣いている。


「……たすけて、たすけてぇっ! おねがい、だからっ」


 ザックはくるりと後頭部を掻き回し、伸びた男をつま先で小突いてみた。動かない事を確認すると、帽子の上から子供の頭をぽんと撫でる。


「坊主、よくやった! お前のおかげで悪い奴をやっつけられたぞ」

「そ、そうです! ぼく、がんばりましたね」


 カイルも子供を抱きしめ背中をさする。怖かったな、もう大丈夫だと何度も根気よく言い聞かせ、子供はやっと落ち着いたようだった。カイルの胸から涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげ、振り返ってザックを見上げ、そして足元に横たわった男を見ると眼を丸くして悲鳴を上げた。


「ソネルっ! ソネル、ソネルっ!」


 カイルにひしとしがみつき、子供はまた「ソネルをたすけて」と泣いたのだった。



 ◇  ◇



 子供の泣き声が聞こえるほうに、自然と足が向かっていった。

 道は広いが家々は高い塀に囲まれて、人通りもほとんどない。それぞれの敷地の中には立派な家が建っているが、外に出ているものはいなかった。面倒なことには関わらないと、そんな意思が感じられた。裕福な暮らしをしているだろうと見て取れるのに、他者に対しては突き放しているようだ。

 人気のない道をラウルは駆けた。騎士を見失ってまだ間もない。遠くへは行っていないはずだった。


「……あちらか!」


 一度止んだ声が再び響いた。細くなった路地を曲がり、道の先に目的の人物を見つけてラウルはほっと息をつく。

 2人とも無事のようだ。伸びているのはカイルを攫ったあの男。そのかたわらでカイルと騎士が膝をつき、小さな子供を宥めているようだ。


「カイル、怪我はないか!?」

「──ラウル!」


 ぱっとカイルが顔をあげ、騎士が熊そのままにのっそりと振り返った。


「……よお」

「すまなかった。……よく、無事で」

「いやな、チビがコイツのことぶっ飛ばしたんだけどもよ?」


 ザックが剣の鞘で倒れた男をつんと小突いた。男はうめいているが、まだ意識が朦朧としているようで眼を固く閉じている。カイルはしゃくり上げる子供を抱きしめて、背中をゆっくりと撫でていた。


「……そうか」

「でな? このガキも攫われたのかと思ったんだが……どうも違うんだよなー」


 短くなった頭を掻いて、ザックはちらりと子供を見た。子供はカイルにしがみつき、だって、だってと繰り返している。


「んー? なにが『だって』なんだ?」

「だ、だっ……てっ! おとなはみんなっ──!」


 くるりと子供が振り向きザックを見上げ、そしてその後ろに立つラウルを見るなり顔を大きく歪ませた。


「……え?」

「んな?」

「う……うえっ、えっ」


 しまった、と思ったときには遅かった。

 赤く腫れた瞳からは三たび涙が盛り上がり、唇を何度か戦慄かせると、子供はまた大声で泣き出したのだ。


「あーっ……ちゃー」

「あのね? ぼく。泣かないで? もう大丈夫ですから、ね?」


 寝不足の頭には子供の悲鳴がことさら響く。ラウルは一度頭を振って後ろを向くと、大きく肩を落として天を仰いだ。


(泣きたいのはこちらのほうだ)


 もはや溜息しか出なかった。




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