カユテ村の夜・1
(──不愉快だ)
かつてないほどの不快感と疲労感が、ラウルに重くのしかかっていた。
今日は本当にろくなことがない。
ロバには舐められ、武器屋ではぼったくられ、ゴロツキどもには三流呼ばわりされ、挙げ句の果てに「大荷物」を背負い込んでしまった。
自分の意志の及ばないところで勝手に物事が進んでいるような、そんな気持ちの悪さが身体中を這い回っている。
何故こんなことになったのか、どこで間違ったのか、いくら考えても答えは出ない。鬱憤を晴らそうにも当たる相手は無く、酒に逃げるしか道はなかった。
(やってられるか)
手にした蒸留酒を一気に飲み干して、ラウルは熱い息を吐きだした。
◇ ◇
カイルと名乗った妙な少年を連れ、ラウルが宿に着いた時には夜の支配が天の全域に及んでいた。
さほどの距離ではないとはいえ、四方八方から鳴り響く虫の音の中を歩いてきたのだ。宿の前で道に落ちる窓の影を踏み、漏れくる屋内のざわめきを耳にした時は、人の気配にどこかほっとさせられた。
ラウルは少年にいくつか細々としたことを言い含めた。そして少年が頷く事を確認してから入り口の取っ手に手をかける。
カユテ村唯一の宿、「銀の鎖亭」では宿と食堂と酒場が兼用になっている。
1階が食堂兼酒場、そして入り口と対角になる位置に、2階の客室へと続く階段がある。今晩は少ないとはいえ客室が埋まっているだけあって、食堂のテーブルは宿泊客と村人でほぼいっぱいになっていた。
酒や食事を饗する場所がここしかないということと、辺境とは思えないほど食事が美味いので、この宿は村人たちにも人気が高いのだ。
扉を開けると、小振りのカウベルがからん、と鳴った。
ラウルは頭を下げて扉をくぐる。
一歩中に足を踏み入れると食堂は一瞬にして静まり返り、値踏みするような視線が集まった。だがすぐに興味を失ったように逸れて、それぞれの話題に戻っていく。
ラウルはそれを確認してからカイルを招き入れ、カウンターの奥へと向かって歩き出す。そこは階段のすぐそばで、テーブル席からは背中しか見えない位置だ。ここならこの少年がフードを外しても、客から顔は見えないだろう。
この子供を人目に晒すのは、冗談抜きで危険だった。
これほどの美貌であれば、男女を問わず「商品」としての価値は計り知れない。相手が貴族であっても、それどころか貴族であるからこそ、手に入れたいと願う人種は少なからず存在する。そういった輩ほど手段を選ばないので厄介だ。
先ほどのゴロツキどももカイルのこの顔を見ていたら、あれほどあっさりと引き下がりはしなかっただろう。日が暮れかけた森の中だったことも幸いだった。この幸運が尽きぬうちに「荷物」を届けてしまわねば。
そう、この少年はあくまで一時預かりの「荷」であって、自分の物ではない。
ラウルは自嘲した。
せっかく懐いたこの小動物を、手元から離しがたいと感じている。けれどもこれは、迷い込んだ仔猫を保護することと変わらない。保護者が来たらすぐに引き渡さなければならないものだ。
だが、なによりもまずは食事だった。
先ほどからカイルの腹がきゅうきゅう鳴いて、小さな溜息が漏れている。その様子があまりにも切なげで、これを放っておけなかった。
「いらっしゃ……」
カウベルの音に厨房から出てきた女将がラウルとカイルを交互に見つめ、大きく安堵の息をついた。
「あぁ坊や、無事だったんだね! 村長さん家には誰も来てないって言うし、どうも筋の良くないのがいたって聞いたもんだから気になってたんだよ」
「ご心配おかけしました」
「さぁさ、座って! お腹空いているだろう?」
笑って椅子を勧める女将に、ありがとうございます、と微笑みカイルは外套を脱いだ。ラウルが自分のものと一緒に椅子の背にかけてやるが、その間も女将は突っ立ったままだった。常ならくるくるとよく動いているのに、と怪訝に思って見てみれば、女将は眼と口を大きく開けて、頬を真っ赤に染めていた。
「女将、食事を頼む」
「…………」
「女将」
肩を軽く叩くとびくんと身体を震わせて、女将はやっと正気に戻ったようだ。頬に手を当て熱を移し、何度か大きく深呼吸をした。
「……ああ、びっくりした。あんた、またなんて子を連れてきたんだい」
「成り行きでな」
「まったく。年寄りをそんなに驚かせないでおくれよ」
「そんな年でもないだろうに」
軽口を叩くラウルにお世辞は結構だよ、と肩をすくめて何度か頭を軽く振り、女将はきょとんとしていた少年にことさら優しく話しかけた。
「もう安心だね。この護衛士は顔はそりゃあ怖いけど、なかなかに腕が良いんだよ」
「……ラウルは、怖くなどありませんよ?」
瞳を瞬かせたカイルに破顔一笑し、女将は大きく頷いた。
「ああ、そうだね。待ってな、とびきり美味いのをご馳走してやるよ!」
「頼む」
上機嫌になった女将が厨房に消えるのを見送ってから振り返ると、黒い瞳と目が合った。
「あの……本当にあれで良かったのでしょうか……?」
おずおずと問いかけてくる少年に、ラウルはああ、と頷いた。
ここではあの大仰な挨拶は止めるようにと言ったのだ。礼の言葉に微笑むだけでじゅうぶんだと。カイルは相手の機嫌を害さないかと心配だったようだった。けれど女将は喜んでいただろう、と指摘して、やっと安心したようだ。
ふにゃ、と笑んで肩の力を抜いた途端、また少年の腹がぐう、と鳴った。慌てて腹を押さえるが、もう遅い。思わずくっと喉が鳴れば、はっとしてラウルを見上げ、そして頬を染めて俯いた。
本当に、面白い。
この子の護衛は、常にこんな仕草を目にしているのだろうか。この少年は類を見ないほどの世間知らずであるから扱いには気を使うだろうが、それでも楽しさの方が勝りそうだ。
「…………」
ラウルは口元を片手で覆い、緩んだ頬を引き締めた。
これ以上はいけない。あまり深入りしては、手放せなくなってしまう。見据えるのは夢ではなく、現実でなければならないのだ。
いまだカイルの護衛らしき人間は現れない。どこか別の場所にいるのか、それともどこかで撒いてきたのか。食事の前にこれだけは聞いておかなければならなかった。
「それで、カイル。護衛はどこにいる?」
「護衛……護衛は貴方、ですよね?」
香ばしい匂いが店内に満ちているせいか、少年は腹に手を当てたまま、なんとも切なげな表情を浮かべていた。頭の中は食事のことでいっぱいになっているのだろう。話し方もどこかぼんやりして、心ここに有らずといった風情だ。
「俺は護衛士だが、あんたに雇われた訳じゃない。あんたの護衛はどこかと聞いてるんだ。──従者でも付き添いでも良いが、どこにいる?」
わたしの、と呟いて少年は首を傾け、しばらく考えた。
考えることでもないのだろうが時折鼻をひくつかせているところを見ると、食事のことをひとまず頭から追い払うのに苦労しているようだ。
やがて顔を上げるとカイルはラウルを見上げ、困ったように眉根を寄せる。
「──それなら、いません」
「……いない?」
「わたしに護衛はいません。必要ないのです……腕には自信がありますから。それに従者……のような者とは、はぐれてしまって」
「すると、一人か?」
「そうなりますね」
ラウルは愕然とした。
ありえない。
こんな世間知らずの「お貴族様」がたった一人、供はおろか護衛も無しにこんな辺境まで無事に来られるはずがない。もしそんなことが可能であれば、護衛士などとうの昔に廃業だ。しかもカイルの場合、剣の腕がどうこう言う以前に問題がありすぎる。
だがこんな子供にそんな嘘をつく必要があるとも思えない。第一、ここでラウルを騙したところでなんの益も無いはずなのだ。
「では聞くが。──どうやってここまで来た?」
「はい、徒歩で来ました。まず宿を取れと言われていたのでこちらにお邪魔したのですが、生憎と空きがなくて。それでどうしようかと思っていましたら、先ほどの『ゴロツキ』の方々にお会いしたのです」
あの方達、今頃どうしているのでしょう──攫われかけていたのだと知っても、いまだ暢気なことを呟くこの少年に、ラウルは拳を握りしめた。
落ち着け、この子供はこういうヤツだ。筋金入りの箱入りで、己を傷つける人間など世の中にいやしないと思っている。深呼吸をしろ。決して悪気はないはずだ──
大きく息を吸って、そしてゆっくりと吐いてから、ラウルは質問を変えてみた。
どうも嫌な予感がする。
「訊き方が悪かったな。どこからこの村まで歩いてきた?」
「はい。トゥルネイ山の中腹にある、鍛冶師のお爺さんのお宅からです」
なんでもないことのように答えるカイルに、ラウルはまた愕然とした。
それは全くの予想外の答えだった。
北方公路はカユテの村をほぼ東西に走っている。
村の南方には偉大なるトゥルネイ山が眼前にそびえ立ち、北を見れば大陸一の霊峰シャンティーイを彼方に望むことができる。そしてここトゥルネイ山地からは、シャンティーイへと続く高く険しい山々が連なっているため、人はそうそう住めないし、移動しようとする物好きもいない。カユテに来るには公路沿いに、西のアルトローラ帝国側からならブースの街、東のアクサライ王国側からならトゥルグの村を経由するしかないのだ。
確かにトゥルネイ山の奥深くには鍛治師が住んでいると聞いたが、まさかそこから来たとは。
にわかには信じられない話だった。
「……それでその剣か」
「ええ。何もわからなかったわたしに、あの方はとても親切にしてくださいました。この剣も、その時に頂いたのです。一振りは護身用として、もう一振りは売って路銀にしろ、と」
カイルは愛おしげに腰の剣を見つめ、そっと触れた。そしてゆっくりと闇色の瞳でラウルを見上げて口を開く。
「ですから武器屋のご主人には、この剣に相応しく、大切にしてくれる方に譲ってくださいとお願いしたのです。──あの方の剣を手にしたのがラウルで良かった。本当に、ありがとうございます」
少年は瞳を潤ませて、まっすぐにラウルを見て微笑んだ。
感謝と愛しさと信頼と、そのすべての想いに満ちた透き通るように美しい、それは輝くような笑みだった。
ラウルは息を呑んだ。
──ああ、駄目だ。
そうやってあまりにも簡単に気を許すから、自惚れてしまいそうになる。
つい先ほどまで、この小動物を手放したくないと思っていたが、これでは手放せなくなってしまう。
「──おまえは、どうしてそう……」
不意に頬に熱を感じ、ラウルは思わず口に手を当て低く呻いた。そのまま反対側へと身体を向けて視線を逸らせると、カイルが腕にそっと触れてくる。
「ラウル……もう少しだけ、我慢してください。すぐに食事が来ますから、ね?」
「──ぐふっ!」
少年の胸の内を端的に表したその言葉に、ラウルは盛大に咽せたのだった。