再会・2
ルッカレの南に広がる繁華街。そこにラウルの定宿があった。
師がここの亭主と知り合いであったので、駆け出しのころから訪れるたびに泊まっていた。この宿とはもうずいぶん長い付き合いになる。
前回泊まってからもう数年。忘れた頃にやってきた護衛士を、亭主一家は熱烈に歓迎した。弟子としてカイルを紹介し、早速だがと尋ねれば案の定、やはり馬はあの騎士のものであった。
案内された食堂には数組の客がいた。
公休日で店が軒並み閉まっているせいか宿泊客の他にも地元の人間が訪れたりと、午後の遅い時間になっても客が引かないようである。
その薄暗い片隅で、男がひとり背中を丸めて座っていた。
ザックと名乗ったあの騎士だ。
卓に肘をついて虚ろな視線を手元に落とし、言葉を発することもなく、身じろぎすらせずまるで彫像のように一日中ただじっと座っているらしい。卓には水の入ったグラスと軽食も置かれていたが、触れた形跡はみられなかった。
「……あのお客さん、帝国の人でしょう? ずっとああなんです。もう本当に気の毒で」
「いつからだ?」
「あの鐘が鳴って2、3日してからですから……もう1週間になりますか。お代は頂いてますし、暴れたりするわけでもないのですが……」
部屋を整えるからと促せば食堂に降りてくる。夜に食堂を閉めるといえば部屋に戻る。しかし寝台に使われた形跡はなく、食事を出しても手をつけない。それがもう1週間。かろうじて水は飲んでいるようだが目に見えて弱っていた。もう医者を呼ぼうかと、そんな話をしていたところだったという。
二人がすぐ傍までやってきても気づかないのか変化はない。それどころか一切の表情を失って、男はまるで人形のようだった。その様子を目の当たりにしたカイルが息を呑み、ラウルの上着を握る手にわずかに力が込められる。
肌はかさつき艶を失い、濁った眼の下には大きな隈。頬はこけ髭は伸び、唇はひび割れ血が滲んでいる。脂ぎった髪も固まり酷い状態になっていた。
記憶の中のこの男は、生き生きとして自信と誇りに満ちていた。それがこうまで変わるものか。別人のようなその姿にラウルの胸もひどく痛む。
眉を寄せると不意に胸元が涼しくなった。ずっとしがみついていたカイルが男に歩み寄っていったのだ。
「……ザックさん。わたしのこと、わかりますか?」
風呂にも入っていないのだろう。そばに寄ればすえた臭いが鼻につく。しかし少女は構わず膝を折るとその手を取った。
「カイルです。美味しいお菓子をありがとうございました」
「…………」
「トゥルグの村でも。ザックさんが話をしてくれていたのでしょう?」
卓の上に置かれた拳に両手を添え、カイルは優しく声をかける。
しかしいくら待っても男は身じろぎひとつしなかった。まるでこの周囲だけ時が止まったかのように、空気が重く淀んでいる。それでも少女は男を愛おしげに見つめながら辛抱強く話しかけた。
「わたしたち、いま着いたところです。ザックさんはどうしてるだろうって、ずっと心配してました」
「…………」
「ここで会えて……本当に良かった」
遅れてしまってごめんなさい。
カイルは微笑みながら、両手にそっと力を込めた。
するとわずかな変化が現れた。濁った瞳がのろのろ動き、手を握る白い指を不思議そうに眺めやる。しかしすぐに興味を失い視線は逸らされどことも知れない宙に移った。
(駄目なのか?)
土色の瞳は絶望に染まり、現実を激しく拒否していた。まるで緩やかな死を望んでいるようだ。
ふたたび動かなくなった男に、カイルは涙を浮かべながらも語りかける。
「……ザックさん、ねえ。わたしを見て?」
固い床に膝をつき、カイルは必死に呼びかける。
男の手を両手で包み、強ばりが解けるまで手の甲から指先までをゆっくりと、繰り返し撫でさする。
「ザックさん。ちゃんと寝てますか? 食事は、摂ってますか?」
「…………」
指が滑らかに動くようになると、カイルは指を絡ませ強く握った。男の視線は動かない。しかしゆっくり一度瞬くと、嗄れかすれた小さな声がひび割れた口からこぼれ落ちた。
「……眠れ……ない……」
闇を宿した瞳がぱっと輝き、嬉しそうに細められた。
そっと立ち上がると痩けた頬にふわりと手を当て、濁った土色の瞳を覗き込む。そして幼子に言い聞かせるようゆっくりと、慈愛をこめて穏やかに語りかけた。
「それでは……ね? 部屋に戻って休みましょう?」
ほんのわずか、顎が上下に動くのが見てとれた。
その様子に静かなどよめきが広がった。
やっと意思の欠片をみせた男に、その場にいたすべての者がほっと安堵の息をついたのだ。
◇ ◇
力の抜けた身体をそっと寝台に降ろしてやる。
どれほど食べていなかったのか、背負ってみると骨が当たり肉がだいぶ落ちていた。まさに抜け殻だ。生きる気力を失っていたのだろう。
そのまま横になるよう促したが、男は腰掛けたまま動こうとしなかった。膝に肘を乗せて背中を丸め、ただぼんやりと目を開けている。
控えめに扉が叩かれた。開ければカイルが水差しを持って入って来る。中にはやや濁った半透明の液体が入っていた。
「それは?」
「お砂糖を溶かして塩を少し混ぜたものです。檸檬も少しだけ落としてもらいました。……飲みやすくなるかと思って」
「ああ、それで良い」
ラウルが騎士の隣で背を支え、カイルがグラスをそっと傾ける。
最初は唇を濡らす程度。顎に落ちた雫を拭いつつ、徐々に液体を口の中に流し込む。
心は拒んでいても身体は水分を欲していた。喉が上下し、じきにグラスの中身はすべて綺麗に飲み干された。
もっと、と促すように男の両手がカイルの腕に添えられる。その仕草に笑みを浮かべ、少女は何度も水を含ませた。結局水差しの半分以上を飲み切って、それから男はゆっくりと息を吐きだした。顔を上げればほんわずか、濡れた土色の瞳に意思の光が戻ってきた。
「……な、んで……」
カイルとラウルを交互に見ると初めて二人に気がついたというように、ザックは呆然と呟いた。カイルは男の前に膝をつき、嬉しそうにその手を取って握りしめる。
「ザックさん、気分はどうですか? なにか食べたいものは? それとも少し休みますか?」
満面の笑みを浮かべながら矢継ぎばやに問いかけてくる少女に面食らったのか、男は口を閉じて黙り込んだ。のろのろと手を伸ばすと少女の頬に手のひらを当て、じっとその顔を見つめている。
「会いたいと……思っていた」
「わたしも! わたしもザックさんに会いたかった!」
「……そうか」
男はどこか奇妙だった。表情がまったく変化しないのだ。
感情を忘れてしまったというように、頬も眉もぴくりとも動かない。男の手のひらに頬を寄せていたカイルもその不自然さに気づいたようで、怪訝そうにじっとその瞳を見つめている。
「……ザックさん?」
「最後に……会いたかった……」
弱々しいがはっきりとしたその言葉に、カイルの顔が強ばった。頬に添えられた大きな手のひらに指を当て、必死になって縋り付く。
「最後って──なに?」
「俺は……もう……お役、御免……だ」
「──え?」
白い指から力が抜けてほとりと落ちた。呆然と見開かれた黒い瞳に男の目尻と口元が痙攣するように小さく動く。それはまるで微笑もうとするかのようで、ラウルははっと胸を突かれた。この男は感情を忘れてしまったわけではない。あまりにも哀しみが大きすぎて、それを吐き出せないでいるだけなのだ。
「だから、ジュニアは……おまえに、やる。……好物は、林檎だ」
「そんな……っ!」
アイツを頼むとそう言う騎士に、少女は嫌だと必死になって首を振った。頑是ない子供のようなその仕草に男はわずかに眼を細める。頬は強ばり引きつっているが、それでも両手を少女の頬に当てると上向かせ、視線を合わせて語りかけた。
「サリフリ……行けなく、なっちまった」
「ど……して……そんな」
「おまえの、ことは。護衛士、殿が……連れて行ってくれる」
だから、安心しろ。
掠れた声でそう言う男が、なにかに気づいたように少女から手を離した。いぶかしみながらも両手のひらを広げてみれば、そこはしっとりと濡れている。
「なぜ……泣く?」
「悲しい、から……っ」
男の前で座り込み、顔をくしゃくしゃにしてカイルは泣いていた。ぽろぽろこぼれる大粒の涙を拭いもせず、眼を赤く染めて男を見上げ、必死になって訴えかける。
「誰が決めたの? そんな、こと……っ」
「……俺は、もう……いらない、んだ」
「いらなく、なんかっ!」
しゃくり上げた少女の頬を、男は指の腹で何度もなでた。しかし拭っても拭っても、涙は絶え間なくこぼれ落ちる。
やがてその手を止めると男は両手を膝に置き、虚空を見据えてぽつりともらした。
「……なにも、知らなかった……」
頬が引きつり奇妙に歪む。嗤っているような、それでいてひどく辛そうなその顔に、カイルもラウルも口を挟むことができなかった。
「あのとき……城に行ったとき……もう、陛下は……なのに!」
握りしめられた男の下衣に皺が寄る。しかしすぐに力が抜け、男の両手はだらりと垂れた。
自嘲するような呼気がもれ、支えを失った頭が項垂れる。
「だから、俺は……もう、用済み……」
「──違う!」
天に向かって伸ばした腕をカイルは男の頬に添え、そっと顔を上向けた。
瞬くたびに少女の頬には涙が伝い、顎から雫となって落ちてゆく。嗚咽をこらえ、それでも少女はきっぱりと断言した。
「そんなこと、ないっ!」
貫くような眼差しで、男の瞳をひたと見据えてカイルは叫んだ。土色の瞳がかすかに揺らぎ、眉根に深い皺が刻まれる。
「ザックさんは! あの紋章をっ。……っく。持って、いるもの!」
身体を伸ばして膝立ちになり、カイルは男の首に腕を回して頭をそっと抱きしめる。
大きな背をゆっくりと撫でながら、少女は静かに問いかけた。
「割って……しまうの? なにも言わずに?」
今度こそ男の顔はくしゃりと歪み、身体全体を大きく戦慄かせた。
震えながらも少女の背に腕を回すと強い力で抱きしめる。そして離すまいとするように、縋り付くようにその細い首筋に顔を埋めた。
「……いや、だ。嫌だ! ……あれは、俺のっ」
首を振り、必死になって男は嫌だ嫌だと繰り返す。身体はがたがたと音を立てて震えだし、それを少女は仰け反りながらも辛抱強く受け止めた。
どれだけそうしていただろうか。やがて落ち着きを取り戻すころ、小さな嗚咽がもれだしてきた。
「俺は、まだ……っ」
すすり泣き、涙に声を詰まらせながらも男はついに望みを吐き出した。
皇家の盾となるのだと。
そして皇家の騎士でありたいのだと。
赤く腫らした眼を閉じて、抱きしめられ仰のきながらもカイルはじっと聞いていた。
やがてそっと男の額にかかった髪を払い、こけた頬に手を添えるとじっとその瞳を覗き込む。
「ザックさん……貴方は、皇家の騎士です」
「お、おれ、は……!」
「許します。皇家を……守ってください」
男はぐっと息を詰まらせた。
眉を寄せたが涙は次から次へとあふれ出てきて止まらない。そして少女は優しい笑みを浮かべていたが、こちらも静かに泣いていた。
「我慢しないで。哀しいことは、涙で流してしまいましょう?」
眼を見開き大きく息を吸い込んで、男は再び少女を強く抱きしめた。
「……でん、か……っ」
もう声を殺すこともない。
男はその感情のまま、少女の胸にすがりついて慟哭した。
これまでずっと胸の中で凍っていた悲しみが、ひび割れ融けて流れ出す。
澱がすべてなくなれば、男は立ち直ることだろう。
二人を部屋に残してラウルはそっと外に出た。背にした扉の向こうから、男の声が低く響く。落ち着くまではこのままに、邪魔せず見守るつもりだった。
そしてラウルにも時間が必要だった。
二人の会話。そして男が口にした単語。ずっと考えまいとしてきたことが突如目の前に突きつけられたようだった。
(どうすれば──)
目元を腕で覆うとラウルはその場に座り込んだ。
◇ ◇
あの方を主と仰げることが誇りだった。
まさに太陽のようにすべてを照らし、導いてくれた我が主。突如消えてしまった俺の太陽。
それを国は、アイツは情報を隠蔽し、発する機会を謀っていた。
ずっと信じていたのに、裏切られた。
それに気づいてしまったら、なにもかもが闇に覆われすべてがどうでも良くなった。
世界が閉じて狭くなる。
このまま消えてしまいたいと、そう願わずにいられなかった。
けれど闇の中に光が見えた。
鮮烈な、太陽にも負けずにきらきら輝く小さな星。
闇の中のその星は、沈んだ陽の後から登る、新たな陽を導くように輝いていた。
若々しい陽とまるで双子のような、それは守るべき存在で──
──暖かい。
胸の中にはほかほか柔らかいものが収まって、花のような香りがする。引き寄せれば身体にぴたりと重なって、いっそう幸福感で満たされた。
目蓋はどうにも腫れぼったいが、頭の中はすっきりしている。こんな気分は久しぶりだ。
「うぅぉあ!」
清々しい朝日の中、眼を開け胸元を覗き込み、ザックは慌てて飛びすさった。
自分で上げた叫び声と抱き込んでいた「モノ」、そして急に動いたせいなのか、頭の中では馬が集団で暴れ回っているようだ。がんがんごんごん上下左右に振られるようにひどく痛み、ザックは再び頭を抱えて倒れ伏した。
布団に顔を埋めながらも様子をみれば、そこにはすやすや穏やかな寝息を立てる類い稀な美貌がある。こちらも泣いたせいか眼の縁を赤く染め、それでもどこか満ち足りた顔であった。
「夢……じゃ」
自分の声とは思えない、ひどく嗄れた声が口からもれた。
顔をしかめながらも手を伸ばし、起こさないようそっと白い頬に触れてみる。そこは相変わらず手にしっとりと吸い付くように柔らかく、そして暖かかった。
この少女はいまここに、確かに現実として存在しているのだ。
感情のまま笑もうとしたが頬はぎこちなく引きつるばかりで思うように動かない。
それでも頬に落ちた髪を払い、うつぶせた身体を仰向けようと肩に手を伸ばしたそのとき、どん、と低い音が響いてきた。
びくりと身をすくませ顔を向けると、そこには渋い顔をした男がいる。
いっぱいに中身の入った水差しを力一杯打ちつけたせいか、卓の上は水びたしになっていた。それを拭いもせずにまた音を立ててグラスを置くと、機嫌の悪さを隠そうともせず男は用件だけを吐き捨てた。
「水はここに置く。好きなだけ飲むといい」
言うだけ言って、不機嫌な護衛士殿はまるで猫の仔のように少女を抱えて無理矢理立たせた。
「……カイル、起きろ」
「うぅん……」
「食事にしよう。それとも風呂が先か?」
気持ちよく寝ていたところを起こされて、少女はまともに立てなかった。頭もぐらぐら弧を描き、こてんともたれて護衛士殿に手を回す。そのまま寝入りかけたのをまた揺すられて、はっと半分だけ眼を開けた。
ごはんとおふろ。もごもご形の良い唇が動く。
「んん……ごはん……」
「そうか。なら顔を洗って食堂に行くぞ」
「……はい」
胸の下で少女を抱えて引きずるように扉に向かい、一歩足を踏み出したところで立ち止まると護衛士殿はいかにも嫌そうに振り向いた。
「君も来るなら構わないが……どうする?」
暗に来るなと言われているような気がした。しかし奴がなぜ怒っているのかわからない。迷惑をかけたのは間違いないが、それはそんなに腹立たしいことだったのだろうか。
なら関わるな、と八つ当たりじみたことを考えながらもザックは遠慮なく要求を口にした。
「……ご一緒……サセテクダサイ」
手にも足にも力が入らず眼も回る。このときはこれが精一杯であったのだ。
それでもこの日、久しぶりに食べた汁うどんはやたら酸味がキツかったが、甘露のように甘く、そして美味であった。