閑話 〜 とある領事館職員の日記・2 〜
* 帝国歴2576年 水月 5日(地)
暦を見たら、いつの間にか新年度になっていました。
まだ5日しか経っていませんが、1年分の仕事をした気がします。
明日は公休日。
長かった1週間も終わりです。
疲れた。
* 帝国歴2576年 水月 6日(陽)
今までできなかった荷解き、始めてみました。
疲れてるんですけど、なんかこう動いてないと落ち着かないって言いますか。
いい加減服を出さないと、着替えがもうないんです。
また先輩が食事に誘ってくれました。行ってきます。
あれ、なに食べたんだっけ……?
まあいいや。
先輩に、表情が強ばってるって言われました。自然な顔ってどんな顔だろう?
怖い顔では受付として失礼ですから、頬をつまんで揉みほぐしてます。これって効果あるのかな……
* 帝国歴2576年 水月 7日(月)
領事の訓示がありました。
「皆さん、ご苦労様でした。皆さんのおかげで混乱も治まりつつあります。本国の方でも落ち着きを取り戻しているそうです。新帝陛下は立派に議会をまとめあげ、十侯も新たに忠誠を誓ったそうです。お若い陛下に負けぬよう、我々も精一杯職務を全うしようではありませんか」
とかなんとか。
その他にも、家族や知人が心配しているだろうから手紙を書きなさいって。まとめて速達便で出してくれるそうです。帝都までなら10日で着くそうですよ。しかも送料は領事持ち! 流石伯爵さまは違いますね!
ワタクシ、貴族という方がこんなにも気さくだとは思ってもいませんでした。平民とは違うんだって、壁を作っていたのはこちらの方ですね。反省してます。
え? 領事が特殊なだけ?
気をつけろって、どういうことですか?
……先輩、なに言ってるんです? 領事は立派な方ですよ。
* 帝国歴2576年 水月 8日(炎)
どうやらワタクシ、なし崩し的に受付担当になるそうです。
どちらかというと、裏方で書類を扱う方が好きなのですが。
数字を見ていると、うきうきしませんか? ぴたっと計算が合うと笑いが漏れてきませんか? ……そうですか。漏れませんか。楽しいのに……
領事館もだいぶ落ち着いてきました。
先週は怒濤の1週間でして、時間の流れが曖昧で。記憶が断片的にしかありません。
なにがあったかと聞かれても、無我夢中だったとしか。
あ、そうでした! 領事のお言葉。あれは素晴らしかった!
忘れないように記録しておこう。
先週、週明け早朝に皆で集まって訓示を受けたのですが、その時のお言葉です。
「皇帝陛下が崩御されました。我々は、この国難を乗り越えなければなりません。誰もが不安になっています。なにを隠そう、この私も不安で一杯です。ですが、それを他人に見せてはなりません。我々は、いわばアルトローラ帝国そのものなのです。我々が揺らげば帝国も揺らぐ。そして不安や恐れは必要以上に伝わります。ですから常に冷静に、落ち着いていてください。帝国は変わりません。これを忘れないでください」
確か、こんな趣旨のコトを仰っておられたかと。
このときの領事にはまるで後光が射しているようでした!
ワタクシ、じんと胸が熱くなりました。
先輩だって涙ぐんでたんですよ?
ああっ! あの時のこと、もっとちゃんと覚えておけばっ!
書き留めておかなかったことが悔やんでも悔やみきれませんっ!
追記:さっき尻を見てみました。青かったところが茶色っぽくなっていました。いつの間にか治ってきていたようです。先週は湿布どころではなかったのに、身体はちゃんと回復してたんです。偉いなあ。
* 帝国歴2576年 水月 9日(水)
真っ白い髭の長いお爺さんがいらっしゃいました。
威風堂々という言葉がぴったりの、アクサライ商人の方です。
にっこにこです。嬉しそうです。
ワタクシもつられて笑顔になりました。自然に笑えるって、良いですねぇ。
今日はどういったご用件でしょうか? なんてうかがってましたら、慌てて先輩が出てきました。平身低頭してます。
……あれ?
えー……
領事も出てきた!?
貴賓室にご案内ですか?
ワタクシ……失礼なコトしてませんよね!? ね?
後から先輩に、あのお爺さん誰ですか? って聞いたら小突かれました。
お会いしたことありましたっけ?
って、ええ? あの時の方ですか? 顔が全然違ってますよ!
そりゃ大儲けしたんだろって……
ちょっと先輩! 解説してください!
なにがなんだかワカリマセン!
……はあ、お爺さんは両替商の方ですか。
だからあんなにお金を持っていたんですね。
え? もっと持ってるんですか? あんなにあったのに?
えええ!?
……ワタクシ、腰が抜けました。
実はですね、あのお爺さんにはお金を借りているのです。
誰がって? ……一応、名目上は領事ってことになってます。それが良いのか悪いのかは別として、領事はお金を借りました。で、それをそっくり領事館に貸し付けたことになっています。
どうしてそんな面倒なことをしているかって?
お金が足りなかったんです。
テネルスが国境を封鎖などしやがったおかげで混乱しまして。それが取り付け騒ぎにまで発展したんです。
国ではこれを見越していたんでしょうね。支払が滞ることのないように、って無利子で貸し出ししたんです。そしたらまあ、来るわ来るわ。荷が届かなくて支払に困った人から証書を現金に替える人まで次から次へと来ましてね。地下室の小部屋いっぱいに詰まっていた金貨と銀貨がどんどん減っていったんです。
流石に足りなくなってきて、どうしよう! って時にあのお爺さんが融資を申し出てくれたわけですよ。しかもメチャ安な金利で。
領事館では外国人から勝手にお金を借りてはいけないのですが、本国に許可を取ってる余裕がなかったので領事が借りることになったんです。
それにしてもなぜアクサライの人が援助をって思いますよね?
そこには深ーいワケがありまして、お爺さんはあの「ハーキュラネウムの奇跡」の場にいたんだそうです! 伝説をその目で見たんですよ! いいなあ。羨ましい……
それで先帝陛下、ってあれ? 先々帝陛下になるのかな? まあとにかく新帝陛下のご祖父君にあらせられます先帝陛下が後見なら帝国は大丈夫って、そう思ったそうです。
で、お爺さんは両替商ですからあの混乱の最中、まずは暴落した帝国通貨アシェラートを大量に買ったそうです。で、テネルスの野郎が3日で国境を開いた後は、今度はアシェラートが暴騰したのでそれを売ってまず一儲け。一度に売れば値下がりしますからね、余ったアシェラートを領事に貸し付け流通量を調節して、そしてじわじわ利益を上げているそうです。
一時はアシェラートがアフィニスと等価にまでなったそうですから……お爺さん、たった1週間でいったい幾ら儲かったんでしょうね……
聞いたらイケナイ気がします。
あれ? でもあれだけのお金を貸し付けたんですよ?
どうして帝国通貨は値下がりしないんですか?
って先輩に訊いたら、持ってるだけじゃ無いのと同じだって言われました。
……ええと。良くワカリマセン。
くっ……また先輩に笑われた!
* 帝国歴2576年 水月 10日(樹)
あー……ヒマです。
突然ヒマになって嬉しいかと訊かれれば、そうでもないと答えてしまう、ワタクシ根っからの貧乏人です。
まあ、嵐ですから。確かにこんな日は出歩きたくありませんよね。
今日は人がほとんど来ないだろうってことで、ワタクシ事務処理やってます。念願の裏方です。やっぱり数字って良いですよねー。
静かです。聞こえるのは雨音と風の音、あとは算盤を弾く音ぐらいです。
うふふ、うふ。
やっぱり算盤って良いなあ……
少し余裕が出てきたら、色々と思い出してきました。
あの不吉な鐘が鳴った次の日、部屋で呆然としてたら先輩に領事のお家、というか館に連れてかれて、職員皆で身を寄せ合ってたんです。
なんだかもう怖くて怖くて、でも領事と先輩がお茶とお菓子を配ってくれて。それで落ち着けたんですよね。
そして次の日の訓示を聞いて、ワタクシ領事についていこうって思いました。
やっぱり領事は素晴らしい人です。
そう言えば、あの日ワタクシ乱暴されましたか?
乱暴ってほど乱暴ではないかもしれませんが、胸ぐら掴まれて締め上げられたと言いますか。
んー、違うな。
縋り付かれたけど向こうの方が大きかったから、結果的に締め上げられた?
それ見て先輩が裏に引き摺ってってその人を殴り飛ばしてくれたけど、公務員が民間人を殴ったりして大丈夫なのでしょうか?
え、向こうは騎士だから平気だって? 良く知ってますね、先輩。
……怒ってませんよ? だってあの人、取り乱してただけですもん。
立ち直ってると良いですよね。
あ、思い出したら可笑しくなってきた。
……違いますっ。ヘンな趣味じゃありません! あの騎士の人の髪型思い出しただけですって!
頭のてっぺんだけ短くするって斬新な発想ですよね。
なんでこんなコト、覚えてるんだろ。
やっぱり異常事態だったからですね、きっと。
* 帝国歴2576年 水月 11日(金)
一夜明けて快晴。
街もだいぶ落ち着いてきました。
昨日の嵐で頭が冷えた人も多かったのだと思われます。
恵みの雨って本当ですね!
ああ、早く明日にならないかなっ。
「張りつめた糸はいつか切れるものですよ」って職員の慰労のために、領事がご馳走してくれるんだそうです!
領事だって激務で目の下に隈作ってるのに。ホントこの地に来て良かった!
* 帝国歴2576年 水月 12日(地)
皆で必死になって仕事を終わらせました。
今日は定時で上がりです。
鐘が鳴ったら服を着替えて現地集合。お店は繁華街にあるそうなのですが、ワタクシ地理が全然わかりません。先輩が連れて行ってくれるそうです。
ここに来てもう3週間が過ぎようというのに、一人で街も歩けないなんてどこの子供ですか。決めました。明日は街の探検です!
ってあれ? 先輩、馬なんて連れてどうしたんですか? 仕事はもう終わりですよ?
──うわっ。ちょっ……
掴まってろって! 何するんですか!
先輩! 公用馬の私的流用はいけません! 規則違反ですっ!
◇ ◇
陽は地平へとその身を降ろし、揺らぎながらも大気を染める。
西の空は燃える赤に彩られ、薄紅色の東の空にも歪な月が昇っていた。
馬車には乗っても直に馬に乗るなど初めてだ。
クララ・クレメンティアは必死になって鞍の縁に掴まっていた。
乗馬の知識など無いに等しいが、この馬は横座りになって乗るものでも二人乗りするものでもないはずだ。
──どうして、こんなことに。
もうワケがわからない。
馬が足を進めるに従って不規則に身体が跳ね、ずり落ちそうになる。かといって腰に回された手にしがみつくこともできず、クララはひたすら鞍の縁を握りしめていた。
背中に密着した温もりから漏れる息が、頭上で髪をくすぐっている。
──また、笑われた。
気がついてはいたが、とても抗議の声をあげるどころではなかった。
周りを見る余裕もない。
どこをどう移動したものか、目を開けた時には馬は大きな公園の中を歩いていた。
乗せられた時とはまるきり逆の丁寧さで馬から下ろされ解放されたが、しかしクララはまたすぐに柔らかく拘束された。
広い胸に抱き込まれ、背と腰を支えられる。
膝が震え、自力ではとても立ってはいられなかった。
放せ、ともがく気力もすっかり消え失せ、もはや男のなすがまま。
男──目の前にいるのは優しい先輩などではなく、これまで見たこともない目をした男の人だ。
(どうして、こんなことに?)
恋など無縁だと思っていた。
だから一人でも身を立てられるようにと公務員になった。ここで無事に任期を終えればささやかな役職を貰えるし、年金もちょっぴり多くなる。定年まで勤め上げたら帝都の片隅に小さな家でも買って、そこでのんびり過ごそうとそんな夢を描いていた。
けれど男はそこに自分も混ぜろと言う。
二人なら、部屋も庭ももう少しだけ大きくなると。そして茶飲み友達に困ることもない。
だから俺を選べ。
一目惚れだったのだと、見たこともないような綺麗な顔で男は告げた。
笑み崩れたその顔を、クララは呆然と見上げることしかできなかった。
「わたしはチビでソバカスだらけだし、お世辞にも美人とは言えませんが?」
「……見た目じゃないんだ」
「がりがりで骨と皮だけだし」
「これから太れば良い」
「人目がなければ、口だってすごく悪い……」
「……知ってる」
「料理だってたいしてできないし。……好き嫌いだって激しいし」
「俺が作る。料理は得意だ。嫌いなものも食べられるようにしてやるさ」
あの月に誓ってひもじい思いはさせないから。
耳元で囁かれ、かっと頬が熱くなった。顔は見えないだろうが耳まで燃えるように火照っている。絶対、この人にはお見通しだ。
「──誓うなら、陽の神と陛下じゃないですか?」
「……この辺りでは月の女神の方。エルフィに誓うんだ……」
抱擁が強くなり、息をするのも苦しかった。
頭の奥ではがんがんと音を立てて血が巡る。わずかに目を上げれば太った月が滲んで見えた。
何もかにもがぐちゃぐちゃで、どうして良いのかわからなかった。けれど耳に当たる広い胸から聞こえる鼓動もまた乱れていて。
わたしだけじゃない。そう思ったら少し気が楽になってきた。
目元を和らげ、クララはそっと力を抜いて身を任せる。
「じゃあ、先輩──」
とろけるような笑みを浮かべ、男はまた、クララを強く抱きしめた。