閑話 〜 恋する乙女 〜
夜明け前のソマの街、南の街道沿いに集まった馬たちを、カイルはずっと眺めていた。
石の上に腰掛け頬杖をついて一頭一頭をじっくりと観察し、そして時折両手を見つめてにこりと笑む。
あまりにも楽しそうなのでつい声をかけてみれば、元気な返事が返ってきた。
「そんなに馬が好きか?」
「はい、大好きです! それにこの手袋も!」
手袋の甲の部分には、馬が図案化された刺繍が入っていた。
夕べは気付かなかったそれを今朝になって発見すると、カイルは飛び上がって喜びそしてラウルに抱きついた。
ごろごろ懐く仔猫をぺりりと剥がし、まずは服を着なさいと背を向ける。
胸元を覗き込めば輝く笑顔と白い肌。相変わらず目の毒だった。
服がないからと貸した胴衣は、結局カイルの寝間着となってしまった。トゥルグの村では自分の胴衣を着て寝たが、ラウルのものの方が着心地が良かったらしい。下着を買った時に、なぜそこに思い至らなかったのかと後悔しても後の祭りだ。しかし今を耐えれば後は野宿、ルッカレで真っ先に寝間着を買えば、もうこんな思いはしなくて済む。
馬だ馬だと上機嫌のカイルの隣に、ラウルも荷を置き腰を下ろした。
交易の準備を眺めながら、二人は夜明けを待っている。
出発を前にして、馬には次々に荷が積まれていった。
毛織物や絨毯、毛皮や布の加工品が主な品で、これらをテネルス王国やアルトローラ帝国に輸出して、穀物や染料、様々な道具類、そして貴重な外貨を彼らは得る。
アクサライの民は遊牧の民である。
古来より、彼らは馬はもとより山羊や羊などの家畜と共に生きてきた。
家畜は生活の糧であり、祖先から受け継いだ財産でもある。それを手放すなど、あってはならないことだった。ところが近年は、遊牧をやめ定住する者も増えている。街道沿いに居を構え、交易や旅人達をもてなすことで対価を得るのだ。
遊牧から遠ざかるには理由があった。
広大な平原が徐々に乾き、家畜達を養うのに十分な草を得るのが難しくなってきたことが第一に挙げられる。また、土地を巡る争いに破れ、追われたものも多かった。
当初定住を選んだ遊牧民は、誇りを忘れた恥知らずと蔑まれた。しかし交易は、人々の生活に劇的な変化をもたらした。
それは外国からもたらされる様々な品や情報であり、特に魔術を用いた便利な道具の存在が大きかった。労せずに火を熾せる「点火筒」。陽の光を蓄えて、暗くなると光を放つ「蓄光球」。比較的安価なものだとこの2つが筆頭だ。定住すれば他にも様々な恩恵に預かれる。そして狼に襲われることもない。
遠い国の不思議な風習、見たこともない服や食べ物、装飾品。大陸各地に伝わる様々な物語。それらに触れて、人々は遠い地へと想いを馳せる。しかし憧れだけでは食べてはいけない。集落を飛び出したは良いが、身を持ち崩した者も大勢いるのが現状だった。
定住しても生活が安定するとは限らない。そして道具は交易で手に入る。ならばなぜ父祖から受け継いだ羊たちを手放さなければならないのか。そう考えるのが普通であった。
「それでここの人たちは、こうして交易をしているのですね?」
「そうだな。ここはテネルスにも近いから、輸送の費用も安く済む」
アクサライの毛織物は質が良いうえ安価なので、テネルスでも帝国でも人気が高い。
そう説明してやると、そうだ、と小さな手が打ち付けられた。
「じゃあこの街で買ったものをテネルスに持っていけば、大儲けできますね!」
刺繍も絨毯も、とっても綺麗だもの。
馬の意匠を眺めながら、良いことを思いついたとばかりにカイルはまたにこりと笑う。
可愛いことを言うものだ。ラウルも目尻に皺を寄せ、膝の上で手を組んだ。
「ところが、そう巧くはいかないんだ」
え? と黒い瞳が開かれた。夜空の星が逃げ込んだかのように、薄暗い中でもその瞳はきらきらと輝いて美しい。
笑いながら答えを教えてやると、星は何度か瞬いた。
「……関税?」
「そう。あんまり安い外国製品が入ってくると、その国で同じ仕事をしている人が困るだろう? 買うなら安いものをと選ぶのは、どこの国でも同じだから」
だから国では関税をかけて、国内の価格にあまりにも大きな差がでないようにしてる。
そう締めくくると、カイルは少し考えことりと首を傾けた。
「でも、こっそり持ち込む人はいないのですか?」
「もちろん、そういう輩はどこにでもいるさ。けれど」
以前目にした光景を思い浮かべ、ラウルはくつくつと喉を鳴らした。
数年前、西の小国の商人がいよいよ帝国に販路を広げようと決心し、帝都に向かう荷の護衛を受けた時だ。張り合っていた豪商もなぜか一緒についてきて、威張り散らして敵わなかった。それが帝国領に入るとき、宝石類を懐に忍ばせ申告をしなかったのだ。見つかっても賄賂が通じると思ったのだろう。だが税関で袖の下をきっぱりと断られた上、悪質と判断された。
「それで荷をすべて没収されて。おまけに罰金まで取られていた」
いけ好かない豪商が、赤青めまぐるしく顔色を変えた挙げ句ぼろぼろになって打ちひしがれていた。そしてそれを見つめる職員の得意満面といった顔。敵にはしたくないものだと、その場にいたすべての人間が思ったろう。
「悪いことはするものじゃない。ただでさえ帝国の税関は優秀なんだ。魔術を使っているという噂もあるぐらいにな」
「……魔術って、そんなこともできるのですか?」
「さあ? あくまで噂だ。本当のところはわからない」
税関の人って凄い、と感心しながら頷いていたカイルだったが、はっとして胸に手を当て刺繍の部分をそっと押さえた。
「じゃ、じゃあ、ラウル。帝国に行くときには、この手袋も税金を取られるのですか?」
「いいや。自分で使うものなら大丈夫。少なくとも身につけていれば問題ない」
だから、とラウルは胴の周りが丸くなるよう両脇で腕を曲げた。
「時々、国境では服を着過ぎてダルマになった連中を見かけるな」
冬はまだ良いが、夏は顔を真っ赤にして本当に大変そうなんだ。
そう言って頬を膨らませてみせると、カイルはくすくす笑い出した。それでは帝国に行く時は、服を少なくしなければいけないのですね、とそんなことを言い出すので正確なところを教えておく。
関税がかけられるのは商人だけで、個人の持ち物は無税である。あまりにも荷が多すぎなければなんら問題ない。それを公用語の不自由な人間が誤解をし「身につけていれば無税」と、微妙に間違った噂が広まっていったのだ。
それを聞いてカイルは良かった、と胸を撫で下ろした。それから尊敬の眼差しで隣を見上げて眩しそうに眼を細める。
「ラウルは、本当になんでも知ってますね」
「あちこち旅しているからな。否が応でも耳に入ってくる」
「それは『特級』の護衛士さんだから?」
「うん? 護衛士と言っても色々だな。俺は落ち着けない性分だから、こうしてふらふらしているが」
定住したい者はどこかの貴族に雇われたり、あるいは軍に入り直す者もいる。男の子が憧れるのは、やはり騎士が一番だ。組合ができるまでは、護衛士といってもその辺のゴロツキとそう変わらなかった。
そんなとりとめのない話を、カイルは膝に手を置き真剣な眼差しで聞いていた。
「でもラウルは、お家を飛び出してまで護衛士になりたかったのでしょう?」
「……そもそもは実家に居難くなっただけで。護衛士というよりも、師に憧れたんだ」
「その方は……素晴らしい人なのでしょうね」
「ああ、今でも俺の目標だな」
サリフリに着いたら紹介しようと約束すれば、楽しみですと少女は笑う。そして真顔になって隣を見上げ、きらきら輝く黒い瞳で翠の瞳をまっすぐに見た。
「それでも『特級』の称号は軽くないもの」
だからやっぱりラウルは凄い、と確信したようにカイルは頷く。
不意打ちに、頬にかっと血が登った。
世辞ではない。その瞳からは心の底からそう思っていることが見て取れる。だからこそ、その賞賛がこそばゆかった。
ラウルは頬を掻きながら目を逸らし、この話はもう終わりとばかりに別の話題に切り替える。
「……お前は? 将来なりたいものはないのか?」
「わたしは……」
なりたいもの、とぽつりと呟くと、カイルはそっと目を伏せ視線を外す。それから未だ夜の気配を残す西の空をじっと見つめたかと思うと俯いた。その表情はフードに隠れてよく見えない。しかし唇は引き結ばれ、両手には力が込められている。
なぜ、とラウルの胸がつきりと痛んだ。
未来を想うのに、どうしてそんなに辛そうに──
(……ああ、そうか)
この子はひとりだ。
唯一の肉親である兄を失い、理由もわからず襲われて、一緒に暮らしていたという従者ともはぐれてしまったのだ。ずっと具合が悪かったのも、心労が祟ったのかもしれない。
そんな寄る辺ない中で、未来を夢見るなどどうしてできよう。どんなに楽しそうにしていても、忘れることなどできないだろうに。
ラウルは奥歯を噛み締めた。
愚か者め。上辺の笑顔に騙されて、おめでたいにもほどがある。
すまなかったと手を差し伸べようとしたその時、カイルがそうだ、と顔をあげた。
「ラウル! わたし……わたしがなりたいのは──!」
◇ ◇
「馬丁……ね」
少女ははにかみながらも頷いた。
想像をはるかに越えたその言葉に、ラウルの頬がぴくりと引きつる。
動揺を抑えながらもどうして、と尋ねればいかにもな答えが返ってきた。
「そうすれば……ずっと一緒にいられるでしょう?」
薔薇色に染めた頬に両手を当て、カイルはもじもじと恥じらった。
ラウルは呆気にとられたが、そこまで好きなのかと微笑ましくもあった。
「馬の世話は大変だぞ?」
「大丈夫です。お手伝いをしたことがありますから」
「そうは言うがな。夏も冬も休みなんてないんだぞ?」
「一緒にいられるなら、辛いことなんてありません!」
なんと熱烈な告白だろう。それはまさに、恋する乙女の顔だった。
しかし相手は馬である。
(これを恋に恋する年頃、と言うのだろうか?)
ラウルは首をひねった。
カイルはカイルで、寝わらを入れ替えるでしょう、馬房を洗うでしょう、身体を拭いてあげるでしょう、とひとつひとつの作業を指折り数えながら、だんだんと笑み崩れてゆく。
ふにゃりとした笑顔を眺め、やれやれとラウルは肩から力を抜いて天を仰いだ。
辛そうしているよりは遥かにマシだ。しかし触れてはいけないものに触れてしまった感がひしひしとするのは、どういうわけだろう。
自分だったら妹が馬丁になるなど、とても同意できるものではない。
「兄上は……なんと?」
ふと疑問に思ったことを口にすれば、少女はぴたりと固まった。
そして首を竦めて上目遣いにうかがいながら、言い難そうに口ごもる。
「わたし、前にも一度、馬丁さんになりたいって……そう言ったことがあるのです」
両の人差し指の先で円を描くようにすり合わせ、ぽそりぽそりと「その時」の様子を語りだす。
「そうしたら、兄は溜息をつくしサラは泣くし、ヴァルも見たことがないぐらいに渋い顔をして」
今度はむっとしたかと思うと膝を抱えてつま先をぱたぱたと動かしながら、どうしてダメなの、と少女は口をとがらせた。
ずっと諦めていたのですけれど、今ならサラもヴァルもいないから。
兄もね、思うように生きなさいって、そう言っていたのです。
だから、とカイルは力一杯宣言した。
「やっぱりわたし、馬丁になる!」
寝た子を起こしてしまったか、とラウルは額に手を当てた。
カイルの従者に対してなんと詫びたら良いのだろう。
(すまない……本当に馬丁になってしまう前に、この子を迎えにきてやってくれ……)
西の空で今だ輝く小さな星に、ラウルは心からの祈りを捧げたのだった。