草原の街・4
「──できた」
満足げに頷くと、脱衣場の桶に固く絞った服を放り込み、カイルはぐっと伸びをした。
色とりどりのタイルで埋め尽くされた小さな水場に白い裸体が浮かび上がる。高い位置に開いた小さな窓から射し込む陽射しを浴びて、少女はまさに輝いていた。
両手を天に突き出し若木のような身体をしなやかに反らせ、そして少女は左腕の黒い疵に眼を留める。指の先ほどの大きさだったその疵は、いまや2周りほど大きくなっていた。
無数にあった手足の傷は、ほのかに赤みが残っているだけだ。しかしその疵だけは墨を落としたように黒く、表面は不規則に盛り上がり、白い肌に異質な染みとなって残っていた。
それでもカイルはその黒い疵に手を当てそっと胸に抱きしめる。
「もう平気。……痛いのは、慣れるもの」
囁くような言葉が落ちた。疵の色とは似て異なる漆黒の瞳を閉じ、まるで祈りを捧げるように白い裸体は身じろぎひとつない。
祈りは長いようでほんのわずかな時間であった。脱衣場の外に人の気配が現れたかと思うと、木の扉が軽く数度叩かれた。
「……カイル?」
潜められていたが心配そうなその声に、少女ははっと顔をあげる。
「──はい!」
「大丈夫か?」
「終わりました! いま、出ます」
言うなりぱっと脱衣場に移動して、少女は棚に手を伸ばす。しかしその眉は、すぐに怪訝そうに潜められた。首をひねりながら水場の方に顔を出し、中をぐるりと見てからもう一度、脱衣場を確認する。腕を組んで目を閉じて、これまでの出来事を反芻すると「あっ」と小さな声が上がり、そして少女は途方に暮れた。
「どうしよう……」
◇ ◇
きい、と扉が開き、桶を抱えた少女が辺りをそっとうかがいながら顔を出した。すぐ隣で壁に背を預けていたラウルを認めると、ほっと安堵の息を吐く。その様子をいぶかしみながらも言いつけ通り外套を着込んでフードを被ったカイルに、ラウルは柔らかく微笑みかけた。
「どうだった?」
「……はい。さっぱりしました。髪も洗えましたし」
「そうか。洗濯は?」
「……そちらも、問題ありません」
はて、とラウルは首をひねった。
風呂場に入った時にはタイルが綺麗だの温い湯があるだのこれまでにない喜びようだったのに、今のカイルはどこか緊張しているようだ。久しぶりの風呂は、楽しくなかったのだろうか。
そう尋ねれば生真面目な顔をして、少ないながらも湯を使えることがいかに素晴らしかったかを、カイルは滔々と語りだした。
なら良いが、と屋上の物干し場に向かうために、二人は裏口から宿の中に入った。風呂場、というよりも水場と表現した方が良い小屋は、宿の裏手に設けられている。そこからは客室を通らずに屋上へと抜けることができるのだが、前を歩くカイルの様子がやはりおかしい。
右手で洗濯物の入った桶を抱え、左手で外套の前を押さえている。そのうえどことなく内股でちょこちょこ歩いて、外套の裾と長靴の隙間からは白い素足が──
(…………)
気のせいだ、とラウルは強く眼を閉じた。が、見間違いでもなんでもなく、階段を一段登るごとに外套の下からはちらりちらりと白い肌が顔を出す。
まさか。
「おい……服はどうした?」
「──!!」
地を這うような低い声に、文字通り少女はぴょんと飛び上がった。
◇ ◇
(まったく、あの娘は──)
洗った服を干した後、ラウルはまた街に繰り出していた。市の中を歩きながら、頭にこびりついて離れない少女の姿を振り払おうと努力する。
本当に、己の美しさを理解していないのだから困ったものだ。
カイルは下着以外の替えは持っていなかった。久しぶりに髪と身体を洗って気分が高揚したのだろう。そのまま夢中になって洗濯して、湯上がりに着る服までつい洗ってしまったのだ。部屋に戻ってラウルの下着代わりの胴衣を差し出しそれを着て寝ていろと言いつけてきたのだが、洗濯物を干すまでは自分でやると言い張った。
何事もできることは自分でやる。
それ自体は悪いことではない。美徳と言っても良い。しかし裸でやることでもないだろう。
服を借りたから大丈夫。カイルはそう言うが、ラウルの大きな胴衣を纏った姿は目の毒以外の何ものでもなかった。
大きな襟ぐりから覗く胸元、すらりと伸びた白い足。身体の線が陽に透けて、どれもこれもが眼に眩しい。上から外套を着れば良いというものでもないと、渋るのをどうにか布団の中に押し込んで、ラウルはやっとカイルをまともに見ることができたのだ。
買い出しに行ってくる、とそう告げれば布団に埋もれながら無念そうな顔をした。流石にこの格好では外には出られないと観念した様子に、ラウルもひとまず安堵する。もともと午後は休ませるつもりだったから、計画通りではあったのだ。
(馬を見てきたとは、とても言えないな)
ラウルはひっそりと笑みを漏らした。
ここからルッカレまでは、これまでの道のりとは趣が違ってくる。トゥルネイ山から南東に広がるミズル山地、ここを越えなくてはならないのだ。
山そのものは大したことはない。しかしなだらかな道は険しさを増し、草原はやがてごつごつとした岩地になる。ブースで聞いた通りやはり井戸がひとつ枯れたということだから、水も多めに持たなければならなかった。しかも岩地では昼夜の寒暖の差が激しくなる。大人の足なら2日で抜けられるとはいえ、ここが北方公路最大の難所と言えた。カイルもまだ本調子ではないだろう。だから馬が欲しかった。荷運び用のロバでも良い。しかし手持ちの金ではどちらもとても無理だった。
ならば徒歩の旅に備えなければならない。防寒具に保存食。必要なものを少し多めに購入し、ラウルは宿に戻ったのだった。
「おかえりなさい!」
部屋に入ると、頭から布団を被ったカイルが見えない尾を振って出迎えた。
どうやら窓から通りを眺めていたようだ。ちゃんと寝たかと尋ねると、はいと元気な返事があった。確かに顔色は悪くない。ラウルは頷き、買ってきた下着を手渡した。
「……ラウル。これは?」
「今日からこっちを使うと良い。これから夜は冷えるから、暖かいものにしないとな」
柔らかい綿の下着と毛織りの薄い胴衣、下履きの中に履く防寒着。靴下と襟巻き、手首まで覆う小さな手袋。それぞれにアクサライ刺繍が施され、見た目にも可愛らしい。上着から下履きまですべて新調しようかとも思ったが、それでは荷が増えすぎるしカイルも気にするだろう。だからとりあえず下着だけ。けれどこれだけでもかなり違うはずだった。
目を丸くして見入るカイルに着替えておくようにと伝え、ラウルは屋上に上がっていった。
アクサライの乾いた風と強い日差しは、あっというまに布から水分を奪ってしまう。洗濯には遅い時間であったのに、服はもう乾いていた。
ラウルはそれらを無造作に取り込んだ。
干すときにも感じていたが、乾いてみるとやはりカイルの服はあまりにも古びていた。色は褪せ、所々すり切れている。下着などもごわついて、あの柔肌によくこれを我慢して着ていたものだと感心するほどだ。早々に新調したいものだが、次はどんな理由をつけようか。
そんなことを考えながら、ラウルは階下へ降りていった。
「大きさが──合わなかったか?」
部屋に戻ればぶかぶかの胴衣の上から外套を羽織り、真剣な眼差しでカイルはなにやら縫っていた。
下着の類いはある程度なら紐で調節できたはずだと首をひねれば、刺繍をしているという。武器屋から貰った荷物の中に、針と糸があったのだそうだ。
「……『かイル』?」
「はい。なくなったら困るから、名前を入れようと思いまして」
刺繍糸でもない普通の木綿の糸で、カイルは奇妙な形の文字を縫った。下着にまですべて同じ「かイル」と縫い込み、できた、と笑ってそのまま着替えようとするのでラウルは慌てて背を向ける。
ささやかな衣擦れの音。鼻歌を歌うような弾んだ気配。
なんだかんだと言ってはいても、やはり新しい服は嬉しいのだろう。これならいっそすべて新調しても良かったか。
「ラウル、見て! 似合いますか?」
「どれ──」
うきうきとした声に振り向いて、ラウルはぴしりと固まった。
買ったばかりの長靴に足の付け根までしかない下着、臍は丸出しで他に身につけているものといったら胸を覆う女性用の下着と毛織りの薄い胴衣だけ。もっとも胴衣は前を閉じていないから、覆っているのは腕だけだ。白い肌を惜しげもなく晒し、すらりとした手足も胸から腰にかけての曲線も、ほんの一瞬見ただけなのにくっきりと眼に焼き付いて離れない。必死で頭から振り払った数刻前のあの姿が、脳裏にまざまざと蘇る。
慌てて布団でカイルをしっかり包み込み、ラウルは大きく脱力した。
「人前で……裸になるんじゃない」
「裸?」
カイルはきょとんと黒い瞳を瞬かせた。
「胸も腰もちゃんと覆っているし、上も羽織っているからこれは裸じゃありません」
「下着姿も裸と言うんだ」
「でも……こんなに綺麗なのに。隠すのは勿体ないです」
布団の向こうでもぞもぞ身じろいで、裾の刺繍が綺麗なのだと足を出そうとするのをラウルは必死で押しとどめる。
「いいから服を着なさい」
「ええ? じゃあラウル、もっとしっかり見てください」
「……見た。よく似合っている。だからせめて前を閉じろ。下履きを履いてくれ」
買ってもらった服を一番に見せてくれようとする、その気持ちはとても嬉しい。しかし裸では眼のやり場に困るのだ。
渋る少女の胴衣の前をきちりと閉じて防寒着を履かせ、襟巻きと手袋をつけさせる。たったそれだけで、カイルは見違えるように美しくなった。
ここに新しい上着を着付ければ、貴族どころか王族といっても通用しそうだ。
その想像に、男の頬が強ばった。
(──違う! この娘は王族では──)
「ラウル! 食事に行きましょう?」
ぎくりと肩をすくめると、扉の向こうから少女が顔を出していた。そうだな、と慌てて腰を上げれば布団の上に色あせた上着と下履きが残っている。
まさか。
「おい、上着は? なぜ下も履いてない」
「外套は着ましたよ?」
「待て。それはまだ途中──」
綺麗な刺繍が見えなくなってしまうと逃げる少女を捕まえて、外に出られるよう服を着せるのがまた一苦労であった。
◇ ◇
空が徐々に白んできた。
銀の砂のような星々はあっという間に西の空へと追いやられ、夜は猛々しい朝の気配に振り払われる。
果てのない草原に、瘤のようにわだかまるのは人馬の影。
馬は思う存分草を食み、人は一様に東の空を眺めていた。
地平の彼方で力強く、一条の光が煌めいた。
その金の輝きは瞬く間に天を支配し、大地をその腕に包み込む。
闇夜に道を違えぬように。
皆が無事であるように。
陽が旅路を照らすように。
至高の存在に祈りを捧げ、人はそれぞれ馬に跨がり旅立ってゆく。
残ったのはたった二人。
ソマの街を発つ中で、二人だけが徒歩だった。
背の高い護衛士と、少年の格好をした少女。
少女は東の空に手を合わせ、熱心に祈りを捧げていた。
この地の果て、あの陽の下の王都サリフリ。そこで為すべきことを想い、早く早くと心は逸る。
やがて騎馬の旅人達がすべていなくなったころ、護衛士は少女を促し歩き出す。今は南へ。そしてルッカレから街道沿いに東へ向かうのが、結局のところ一番早いのだ。
右手には天まで聳えるトゥルネイ山。朝日を浴びて白く輝く山を仰ぎ、少女は振り切るように前を見る。
振り返った護衛士に微笑んで、そして二人は南に向かって歩いていった。