草原の街・2
「これで? ……終わりですか?」
「そうだよ、坊」
「ありがとう、ございました……」
「世話をかけます」
「ああ、なに。元気なことに越したことはないからねぇ」
ほうほうほうと医師は笑い、もしまた具合が悪くなったら、この薬草を煎じて飲んでごらんと小さな包みを差し出した。
あっさり終わった診察が信じられないというように、どことなく呆然とした面持ちでカイルは包みを受け取ると、はい、と神妙に頷き返す。
「なんだ、物足りなかったか? なんならもっと苦い薬を出してもらおうか?」
「いいえっ!」
ふるふるっと頭を振ったカイルはまるで怯えた仔犬のようだ。
尾を丸めて項垂れて、一刻も早くこの場を出たいと上目遣いにラウルを見上げる。
「こらこら、からかうもんじゃないよ」
そう言う医師も、皺だらけの顔をくしゃくしゃにして笑んでいた。
痛かったかい、そう尋ねると、カイルはいいえ、とまた頭を振った。
「疲れたんだろうね。今日はたくさん食べて、そしてゆっくり休むと良い」
はい、と頷く姿に笑顔を見せて、医師はもう良いよ、と促した。
外に出ても良いかとうかがう黒い瞳に頷いて、ラウルもほっと胸を撫で下ろす。
ひどく消耗した気がした。こうして診察を受けさせるまでが、一騒動だったのだ。
一度は了承したものの、医者は嫌だとカイルはごねた。玄関にある柱にしがみつき、やっぱり止めるとじたばた足掻く。
幼い頃の病気で苦しかった経験が、医者と強く結びついてしまっているのだろう。確かに薬は飲んで美味いものではない。だからそれを飲めという医者は、子供にとっては大きな脅威だ。加えて医師宅には薬草の匂いが染み付いて、嫌が応にもつらい記憶を呼び覚ます。ラウルにも覚えがあるから気持ちはわかる。けれど大人なんだろう? とそう問えば、大人でも嫌なものは嫌だと渋る。
いったい何事かと医師が外に出てくるまで不毛なやり取りが続き、そしてやっとのことで診察を受けさせて、あっさりと片がついた。
医師の診察は、簡単なものだった。舌と喉の奥の様子を見て、下の目蓋を引っ張り粘膜の具合を見る。喉の周りも触って異常がないかを確認し、最後に脈をとってこれで終わりだ。
それはカイルにとっても予想外だったようだ。痛くないだろう、と訊かれぽかんと口を開けて頷いた。不安が大きかった分だけ緊張していたようで、終わり、と告げられると洗濯された猫のような足取りで出て行った。
苦笑しながらそれを見送り、ラウルは医師に向き直る。
「どうですか? あの子は……」
「健康そのものだよ。病気ではない感じだねぇ」
「ですが……」
これまでの症状を説明すると、医師は顔を歪めて頭を振った。
「悪いが、儂じゃわからんな。すまないねぇ。こんな田舎医者には荷が勝ちすぎるようだ」
「……いえ」
「ルッカレなら、もう少し詳しい医者がいるだろう。これからも続くようなら、向こうで診てもらったら良い」
カイルが病気でないと確認できれば、それで安心するはずだった。ところがどうだ。胸がざわめき得体の知れない焦燥感は募るばかりで、一向に治まらない。
石を飲み込んだかのように、ラウルの身体は重かった。
よろよろと玄関から外に出ると、カイルは柱にもたれて大きく安堵の息を吐いた。よかった。そう洩らすと後頭部を柱に当て、闇色の瞳を静かに閉じる。身体からは力が抜け、背中がずるずると柱を滑った。やがて膝を曲げて座り込むと貰った薬を上着の中にしまい、誰に聞かせるともなく呟いた。
「……これは、病気じゃない。だからお薬は利かないの」
左腕にそっと手を当て、カイルはゆっくりと「そこ」に触れた。
「戻っておいで、って。あなたはそう言っているのでしょう? ……でも、今はだめ。このまま『あそこ』に戻ったら、わたしはわたしでなくなってしまうもの」
少女は左腕を胸に抱き込んで、まるで幼子に言い聞かせるかのように、静かに小さく囁いた。
「あなたは帰りたいのね? ──わたしも、そう」
慈愛のこもった眼差しで、少女は優しい笑みを「そこ」に向ける。
「ごめんね。すぐ戻るから。『これ』を解いたら、急いで帰るから。だから、待っていてね。……あなたはわたしが助けるわ」
──そう、必ず。あなただけは。
◇ ◇
宿に荷物を置いて外に出ればちょうど昼。屋台は大いに賑わっていた。
男はつばのない小さな帽子を冠り、ゆったりとした丈の長い上着を羽織っている。女は頭部を布で覆って顔だけを表に出し、やはりゆったりとした胴衣をまとっていた。アクサライの衣装はみな美しく、華やかだ。
屋台の食べ物やら人々の服装やら商品やら、見るものすべてが物珍しいようで、カイルはまともに前を見ていない。それでも行き交う人にぶつかることなく、すいすいと泳ぐように歩いていた。
器用なことだと感心しながら、ラウルもカイルの後を追う。周りからは頭ひとつほど抜き出ているから見失うこともない。向こうも時折顔をあげ、ちらりとラウルを確認していた。食べたいものを選びなさいと放したから、程なくどこかの屋台で立ち止まるだろう。
店を覗く様子を見守りながら、ラウルはふむ、と顎に手を当てた。
二人で並ぶとカイルの頭は丁度胸の辺りにくる。身体は華奢だし抱き上げれば驚くほど軽い。そのためずっと子供だと思っていた。ところがアクサライの女性と比べると、同じぐらいの背丈がある。ここの人々が帝国人より少し小柄であることを差し引いても、カイルは縦には伸びているようだ。とっくに成人しているとそう言っていたのも、あながち嘘ではないかもしれない。
あまり子供扱いするのも良くないだろうか。
「ラウルっ!」
なにやら胸に抱え、跳ねるようにカイルが駆けてきた。楽しそうにいったいなにを買ってきたのか、と目元に皺を刻んで出迎えて、皺は眉間に移動した。
「こんなにあるのに、たったの2シャルクだったのです!」
「そうか、よかったな。……で、カイル。それは?」
「? お昼ですけど……」
背丈はあっても、まだまだ子供だ。
ラウルはこぼれそうになる溜息を飲み込んだ。
「それだけで済ませるつもりか?」
「今年の初物だそうです。……一度、お腹いっぱい食べたくて」
えへへ、と愛おしそうに見つめているのは、粒の小さい赤い葡萄だ。種をたくさん食べても臍からは芽が出ないと知ったとたん、早速これか。
「それを食事にするのは、止めておきなさい」
「ええ? どうして?」
「葡萄だけというのは身体に良くない」
「だって! 好きなものを食べなさいって!」
「それとこれとは話が違うだろう?」
たしなめると、みるみるうちにカイルはしゅんと小さくなった。見る影もなく項垂れて、ラウルから見えるのは毛羽立ったフードの縫い目だけになる。
「こら、そんなにしょげるな。食べるなとは言っていないだろう?」
軽く肩を叩いてやると、眼の縁を赤く染めて潤んだ瞳がほんの一瞬上向くが、すぐにまた伏せられてしまう。
少女はこぼれ落ちそうになる涙を、唇を噛みしめ精一杯耐えていた。こんな顔をさせたいわけではないのに、とラウルの胸もつきんと痛む。
確かにたった今手に入れたばかりの好物を、「食べるな」と止められたら悲しくなるのも道理だ。それにこの子は、食べ物に関して並々ならぬ執着がある。気を失うほど辛くても泣き言ひとつ漏らさぬくせに、鶏唐揚げが炭になったと大泣きする。
ラウルとて意地悪したいわけではない。早く元気になって欲しいと、そう願っている。ただ葡萄だけでなく、他のものも食べなさいとそう言いたいだけなのだ。
「ちゃんと食事をしたら……そうだな、1房ぐらいなら」
耳元でそう囁けば、はっと息を呑む音がして、カイルはラウルを仰ぎ見た。真っ黒な瞳が呆然と見開かれ、瞬いた拍子に涙が一粒こぼれ落ちる。
戦慄く唇がどうして、と動いたきり言葉をなくし、カイルはそれでもじっと翠の瞳を覗き込んだ。夜空の星を閉じ込めた大きな闇色の瞳には、もはや悲しみの色はどこにもない。純粋な驚きに、何度も瞳を瞬かせている。
「カイル?」
おかしなことは言っていないはずだが、と濡れた頬を拭ってやると、くすぐったそうに身をよじり、少女は晴れやかに笑い出した。
「……どうしてラウルは、兄の言葉を知っているの?」
「兄上の……?」
はい、とカイルは頷いた。一度跳ねてくるりと回り、隣に立つとくすりとまた笑む。
「葡萄は食事の後に、1房だけなら食べて良いよって」
「そうか、兄上もそう言ったのか」
先ほどまでべそをかいていたのが嘘のように、カイルは上機嫌で歩き出した。左手で葡萄を抱え、右手でラウルの袖を引き、大通りを外れて街路樹の下までやってくる。そしてくるりと振り向き、はにかみながらも告白した。
「……今なら、一度だけならたくさん食べても大丈夫って思ったの。なのにラウルは、本当に兄のように言うものだから」
びっくりしました、とフードの下から覗く頬は薔薇色に染まっていた。一度大きく息を吸い、そしてなにかを決意したように顔をあげ、カイルはまっすぐラウルの翠の瞳に誓いを立てる。
「ごめんなさい。もう、わがまま言いません」
「我侭などと……」
そんなことはない、と言いかけたのを制して、カイルは続けた。
「兄は、間違ったことは絶対に言わなかった。だから、『一度だけ』でも言いつけを破ったら、いけないのです」
「……そうか」
「やっぱり、ラウルは凄い」
照れたような笑顔を見せて、そしてカイルは駆け出した。
「向こうの方に串焼きがありました。ラウル、早く!」
急がないとなくなってしまいます、と急かす少女を追いかけながら、男の頬も知らず緩んで笑みの形が刻まれた。
少し前の調子が戻ってきた。
まずは食事。そしてゆっくり休んだら、明日はもっと元気になる。そんな予感にラウルの身体も軽くなったようだった。