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運命の環は巡る  作者: らみ
終末を望むもの
36/59

草原のただ中で・3

 


「……ラウル?」


 ひっそりと、小さな囁きが零れ落ちた。

 広い背中で身じろいで、カイルはまた頬を押し付けもたれかかる。背の高い護衛士が一歩踏み出すに従って、小さな手足がゆらりと揺れた。

 ゆらり、ゆらりと揺れながら、男の背中で力を抜いて、少女は大人しく背負われていた。


「気分はどうだ?」

「もう、平気です。……わたし、いつ……?」

「昼過ぎだ。疲れが出たんだろう」

「……そう、ですね」

「もう少し、休んでろ。着いたら起こすから」

「はい。……ありがとう、ございます」


 すう、と身体から力が抜けた。

 眠ったようだ。

 ラウルはそれを確認すると、また足を動かした。

 陽は傾いてきたが、沈むまでにはまだ時間がある。前方のなだらかな丘。今日はそこを越えておきたかった。


 トゥルグの村を発って7日。カイルの不調は続いていた。

 朝は、まだ元気なのだ。なのに陽が中天を過ぎると途端に具合が悪くなる。顔は蒼白になり足がもつれ、歩けばすぐに息が上がる。そして身体から力が抜け、動けなくなってしまう。

 カイルの肌は日焼けを知らず、染み一つなく滑らかだ。徒歩の旅など、経験したこともないだろう。加えて慣れない気候、味気ない食事。男でも音を上げるような、過酷な旅。疲労が溜まり、体調を崩すだろうことは予想していた。

 しかしこれはなんだ。これはただの「疲れ」ではない。

 同じことを3日も繰り返せばそれぐらい、ラウルにも理解できる。けれどカイルは慣れないだけだ、じきに良くなるとそう言って、頑として譲らなかった。そして動けるうちに先に進もうと、焦っていた。

 今日も歩いている最中に倒れ込み、そのまま意識を失ったのだ。

 無理もない。トゥルグを出てから夜もまともに寝ていないのだ。

 カイルは隠し通せていると思っているようだが、ラウルは知っていた。




 本格的な旅が始まった最初の夜。

 結局、半日しか移動できずにその日はそのまま野営となった。

 ソマまでの道のり、井戸の位置、食糧。そしてカイルの体調。横になって眼を閉じて、頭の中に地図を描きながら考えていた時のことだ。


「────」


 それは本当に微かな音で、寝入っていたら気付かなかっただろう。

 不審に思い、ラウルは後方、少女の方へと意識を向けた。


「──ぅ」


 小さな衣擦れ、そしてさらに密やかなうめき声。

 息を殺して身体を丸め、少女はじっと耐えていた。痛みが去るとそっと息を吐いて力を抜くが、またすぐに、身体は強ばり固くなる。それを何度も何度も繰り返し、やがて意識を失った。

 星明かりを頼りにそっと様子をうかがい、ラウルはきつく眼を閉じた。

 カイルは小さく丸まって、声を漏らさぬよう布を噛み、その上から手で押さえて堪えていたのだ。

 気を失ってしまえば、そこに苦痛の色は見られない。

 しかしそれまで、一体どれほど苦しんだのか。


(一度村に戻り、回復を待った方がいいのか。それとも──)


 ラウルの胸は、刺すように痛んだ。


 けれど次の日、カイルは笑顔を浮かべ「早く行きましょう」とそう言って歩き出した。

 遅れた分を取り戻さなければ。早く、早くサリフリへ。顔色? 気のせいです。大丈夫、歩けます。

 青白い顔でひどく怠そうに、けれど必死になって、前へ、前へと足を動かし、昼が過ぎると倒れ込む。動けなくなって初めて身体を休め、そしてまた、夜になると痛みを耐えて歯を食いしばる。ラウルに知られないよう、毛布の中で丸くなって声を殺すのだ。

 なぜそんなに急ぐのか。

 それを問いただすと、ごめんなさい、と顔を伏せ、それきり口を噤んでしまう。

 弱った小さな身体に抱え込むもの。それを吐き出せない少女。そして黙って見ていることしかできない自分。

 何もかもが哀しくて、身を切られるように辛かった。


 そして、陽は昇る。

 小鳥が啄むほどの食事を摂って、カイルはまた歩き出す。しかしすぐに、崩れるように座り込んだ。

 意識を手放せばそのまま深い眠りに落ちることができるのに、夕べはずっと耐えていた。眠れなかったのだろう。

 ラウルは荷を解き、剣と毛布とロープで簡単な背負い帯を作った。そこに座るよう促すと、少女は首を横に振る。


「だって、わたしの荷物も持ってもらっているのに」


 そこまで甘えるわけにはいかないと、真っ青な顔でラウルを見上げ、立ち上がろうと膝に手を当て力を込める。

 本当に、頑固なことだ。

 だがラウルも譲れなかった。


「早くサリフリに行きたいんだろう?」


 そう言えば、カイルはぐっと詰まって黙り込む。

 ラウルも先を急ぎたかった。ソマで、医者に診せてやりたかった。

 渋々頷く少女を毛布で包み、背に括りつけると男は危なげなく立ち上がる。荷は両脇にひとつずつ、子供ひとり背負っても、ラウルはびくともしなかった。

 盛り上がった肩に頬を当て、両手はラウルの胸の前で組み、揺られながらもカイルはしきりに謝った。


「ごめんなさい……わたし、ラウルに何も返せないのに……」

「見返りを求めているわけじゃない。だいたい、弱っている人間を放っておけるか」

「でも……」

「カイル。もし俺が倒れたら、どうする?」

「……助けます」

「そういうことだ。困っている人を見かけたら、助けてやれ。それで良い」


 それきりカイルは大人しくなった。しかし納得はしていないようだ。

 本当に気持ちだけでじゅうぶんだった。しかしきちんと形にして礼をしたいと、その気持ちはわからないでもない。律儀なことだと歩きながらもラウルはひっそり苦笑した。


「守ってくれるのだろう? 礼は前払いで貰ってる」

「……それは。一緒に行ってくれるって。……だから」

「なら、そうだな。……サリフリに着くまでは、俺の言うことを聞いてくれ。これでどうだ?」

「…………」


 体調が回復するまで休めと、そう言われると思ったのだろう。カイルは顔を伏せて黙り込んだ。


「先に進むのを最優先にするから」

「それなら……」


 あっさりと要求の呑んだ少女に、ラウルは満足げに喉を鳴らす。


「なら、まず最初に。……もう謝るな」

「……はい……」


 胸の前で合わされた小さな手に、きゅっと力が込められる。背中に頬が押し付けられ、しばらくそうやって、カイルはラウルの背中で揺れていた。




 東の空は藍に染まり、気の早い星がひとつ、ふたつと瞬いている。西に聳えるトゥルネイ山は巨大な黒い壁となって天と地を引き離す。そこから伸びる皺のひとつは丘となり、街道を越えて伸びていた。

 広い背中に身体を預け、ゆらり、ゆらりと揺れながら、カイルは赤く染まってきた西の空をぼんやりと眺めている。

 ふと、小さな吐息のような言葉が零れ出た。


「わたし……こんなふうになるなんて、思ってもみなかった」

「誰でもそうさ。望んで病気になる奴なんて、いない」

「……ひとりでも大丈夫って。ちゃんとサリフリまで行けるって、そう……思っていました」

「……そうか」

「なのに、わたし……ラウルがいなかったら、何もできなかった」

「…………」


 動かない手足なんていらないのに、そう言って、カイルは唇を噛むと顔を伏せる。

 ラウルは無言で足を進めた。一歩、二歩、三歩と、最後の一息でなだらかな丘の頂上に躍り出る。

 手を伸ばして背に回し、カイルの腰をぽんと叩く。


「ほら、あれがソマの街だ。これから冬支度だからな。人がたくさん集まって、今の倍以上に大きくなる」


 示したのは、北方公路がまっすぐに向かう先の街。

 街道の両脇に家々が立ち並び、白く平らな屋根も壁も、夕日に照らされ優しい朱に染まっている。遠くには、ぽつりぽつりと黒い点のように幕家が見え、やがて集まり町の一部になってゆく。

 カユテやトゥルグの村など、比べ物にならないほどに大きな街。

 カイルは顔をあげ、眼を丸くして見入っていたが、ルッカレはさらに大きいと聞いて黒い瞳を瞬かせた。


「……本当に?」

「そうだ。中央公路沿いでは、あのぐらいの街が普通だな」

「凄い……」


 感嘆の息を漏らした少女に、今度は丘を下った先を指し示す。


「今日はあの窪みで野営する。明日は少し早めに出発すれば、昼前にソマに入れるだろう。そうしたら、久しぶりに旨い食事にありつける」


 ちゃんとした布団でも寝られるな、そう言って首を巡らせ少女を見ると、光を弾いて輝く瞳がふわりと笑んだ。夕日のせいか、頬に赤味が差して顔色も悪くない。午後いっぱい、ラウルの背で眠ったおかげでカイルは随分と回復したようだ。

 さあ、もう少し。しっかり掴まっていろ、と黒い頭をくしゃりと撫でると、少女は笑いながら首を竦めた。

 首に回された手を取って、ラウルは足早に坂を下り始めた。




「……このぐらいで良いか?」


 膨らんだ布袋に満足して、ラウルは野営地に向かって歩き出した。

 体調を崩してからめっきり食が細くなった少女に、少しでも食べさせてやりたかった。丘を下りながら見つけた樹木に、これなら、と目をつけていたのだ。それで陽が完全に沈む前にと荷物とカイルを置いて、灌木の茂みに分け入りたわわに実った果実をもいでいた。


 坂を少し上ると野営地が見えてくる。荷を置いたその場所で、カイルは大人しくしていたようだ。毛布にくるまり腰掛けながら、身体をひねって静かに山を見つめている。何の感情も映さずただぼんやりと、天を支えるようにそびえるトゥルネイ山に見入っていた。

 これまで度々見られた光景だ。

 休憩中も、ラウルに背負われている時も、じっと山を見ていることが多かった。それは本人も意識していなかったようで、指摘すると首を傾げてわからない、と言っていた。

 その姿はまるで山から来る「何か」を待っているようで、ラウルは酷く落ち着かなかった。得体の知れない「何か」が少女を連れて行ってしまう、そんな気がして不安だった。


 カイル、と呼びかけようとして、ラウルははっと息を呑んだ。

 影が、伸びていた。

 山の陰から射す強い光が少女を照らし、類い稀なその顔を文字通り白く輝かせる。そして短くなった髪を補うように影が伸び、身体をすっぽりと覆っていた。渦をまいて足元まで伸びる、長い黒髪に漆黒の衣。

 それは何者にも染まらない、闇よりも暗い黒。

 あれは──


(禁色……)


 ──いや。影だ。

 そう、ただの影。ああやって座っていれば、誰でもそう見える。あれは黄昏時の光が見せた、錯覚だ。


「……ラウル」


 少女は振り向くと、あざやかに微笑んだ。

 ラウルも微笑み返そうとしたが、頬はぎこちなく引きつった。

 長い髪の少女はまるで別人のような顔で──違う。これは「カイル」だ。世間知らずの、強情な少女。今は体調が優れないが、本来なら瑞々しい生気に満ちていて、信じられないぐらいよく食べる。くるくる表情が変わって目が離せない、小動物のような子供。

 そして何処かの国の、貴族の娘。

 何処かの国──ならなぜ、あの騎士はこの子を帝都に連れて行こうとした?

 そもそもなぜ、襲われたのだ?

 なぜ、本名を名乗れない?

 洗練された優雅な所作、癖のない綺麗な公用語、帝都にあるという、兄の墓。

 それらが意味するのは──


 ひやりとした指先が、頬に触れた。

 我に返って瞠目した護衛士を、不安に揺れる闇色の瞳が見上げていた。


「ラウル?」

「……ああ、すっかり冷えてしまったな」


 頬に当てられた白い指を両手で覆い、熱を移して暖める。


(──考えるな。いまはもう、これ以上考えてはいけない。この子は『カイル』……それだけだ)


 無理矢理口を笑みの形に引き上げて、ラウルは少女に布袋の中を見せた。

 あっと声をあげ、カイルは眼を見開いて覗き込む。


「柘榴……こんなに」

「この辺りには、よく自生しているな。たくさんあるから、好きなだけ食べると良い」


 ただし、食事の後で。

 そう付け加えると、はい、と返事が返された。

 声に力が戻ってきた。この分なら、そこそこ食べられるだろう。

 ラウルは眼を細めると、食事の支度に取りかかった。


 そして。

 切り分けられた柘榴の欠片を、カイルはじっと睨んでいた。眉間に深い皺まで刻み、憎々しげに深紅の粒を見つめている。

 さては綺麗にほぐされた実しか食べたことがなかったのかと、ラウルは食べ方を教えてやった。


「硬い皮をこうして持って。……そう。白い綿は苦いからな、紅い実の部分だけ、歯でこそげ取るように」


 ラウルの指示に従って、カイルは柘榴を口に入れた。

 一口噛むと、肩をすくめてぎゅっと眼を閉じ、そして満面の笑みを浮かべてラウルを見上げる。

 すっぱいけれど、美味しい。

 きらきら輝く瞳がそう言っていた。

 その様子に、ラウルも心からの笑みを浮かべることができた。

 こんな生き生きとしたカイルの表情を見るのは久しぶりで、嬉しかった。


 カイルはネズミのように、小刻みに顎を動かしている。

 妙な食べ方をするものだとラウルも柘榴を頬張ると、実を噛み締めて飲み込んだ。

 すると、あ、と声が上がり、同時にどうしよう、とカイルは口を押さえて青くなった。

 また具合が悪くなったのかと慌てるラウルの膝に、カイルは瞳を潤ませ縋りつく。


「種、食べてしまいましたか? ……さっきわたしも、呑んでしまって」


 どうしようどうしよう。おろおろと、カイルは取り乱すばかりで話にならない。

 柘榴は傷んでいなかった。種は食べても問題ない。だから落ち着け。いったいどうした? 背中をさすって穏やかに尋ねると、涙を浮かべた黒い瞳が翠の瞳を正面からぐっと覗き込んだ。


「だって。葡萄のような小さな種を一度にたくさん食べてしまうと、おへそから芽が出てきてしまうのですよ?」


 ふぐっ

 鼻と口から何かが漏れた。

 おまけに妙なところに入ってしまい、ラウルは呼吸困難に陥った。

 地に伏し悶える男の背を揺すりながら、もう芽が出たの? とカイルは必死になって名を呼んだ。

 ラウル、ラウルと悲鳴のようなその声が、いっそう男を悶えさせる。

 それはまるで、拷問のようなひとときだった。



 そして、しばらく後。

 ラウルは涙を拭いながら、種を食べても芽は出ない、と説明した。

 もしそれが本当だったなら、とっくに柘榴が芽吹いている。


「兄が! 兄がそう言っていたのです!」


 兄が間違ったことは一度だってありません! カイルは顔を真っ赤にして釈明するが、説得力は皆無だった。

 確かにその「兄」が本気で言ったとは、とても思えない。恐らくは食べ過ぎるなと、そう言いたかったのだろう。

 しかしそれを真に受けて、少女はずっと信じていたのだ。

 純粋なその気持ちを笑うのはマズい。

 そう思ったが、耐えられなかった。

 満天の星の下、冷たく乾いた風に乗り、腹を抱えて笑う男の声がどこまでも広がっていった。


 そしてその夜、カイルはまた兄を呼んだ。

 うなされているのかと心配したが、しかし漏れる言葉は「種」とか「芽」とかそういったことばかりで果てはくすくす忍び笑いまで漏れてきた。

 楽しそうなその姿にラウルも安堵し、久しぶりにぐっすりと眠ることができたのだった。




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