草原のただ中で・1
ひょう、と乾いた風が渦をまいて駆け抜けた。
切り立った山々から吹き下ろされるその風は、瑞々しい葉を震わせると灌木の枝の隙間を通り抜け、そして上空に舞い上がり、青い空に溶けてゆく。
風の生まれる山の中腹、岩と草地の境目にオノレ隧道はぽっかりと口を開けていた。
周囲は頑丈な柵でぐるりと囲われているが無人である。この柵は隧道内に動物が入り込むのを防ぐためのもので、利用者は自由に開閉できるようになっている。こんな辺鄙な場所に割く人手はないと、アクサライではこの国境の管理を帝国側に一任しているのだ。ここ数百年の間、良好な関係を築いてきた両国だからできることである。
山から視線を転じれば、どこまでも広がる草の海。
山向こうは深い霧に覆われ肌寒いほどだった。だというのに隧道を抜けたこの場所は、陽の光がさんさんと降り注いでうっかりすると眠ってしまいそうになる。
朝一番でその隧道を抜けて来た3人と1頭は、「開放厳禁」とでかでかと彫られた板が掛かる柵を外から丁寧に閉めると街道から少し逸れた草原まで移動した。そして馬が草を食む傍らで、地図を囲んで腰を下ろして小休憩を取っていた。
騎士と護衛士が王都までの最終確認を行い、少女はその話を真剣な眼差しで聞いている。サリフリまではここから徒歩で一月弱。それなりの準備と心構えが必要になってくる。
少女の心はすでにサリフリへ飛んでいるのだろう。逸る心を抑えるように左手を胸に当て、その手を右手でしっかりと握りしめていた。視線はトゥルグとサリフリの間を何度も往復し、道のりをすべて覚えようとするかのようだ。
騎士はその様子を見て苦笑すると、栗色の頭を一度くるりとかき回した。
「なあ、チビ。俺と一緒に行くか?」
まだ言うか。
ラウルは渋面になって眉を寄せた。
騎士の方はその視線をあえて無視し、少女にどうだと問いかける。
カイルは地図から顔を挙げ、きょとんと瞳を瞬かせた。
「ザックさんは、お仕事でしょう?」
「まあ、そうなんだがな。……おまえひとりぐらいなら、ジュニアの負担にならんだろうし」
サリフリに急ぐなら馬の方が早い。だから一緒にとザックは誘う。
だが少女はいいえと首を横に振った。
「わたしはラウルと行きます。だって、ちゃんと守ってあげるって、約束したのです」
「ほへ……? なに? チビが、おっさんを守るわけ?」
「はい!」
少女は自信満々に胸を反らせて頷き返し、護衛士は額に手を当て嘆息した。そしてザックは顎を落とすとくしゃりと顔を歪めて笑い出す。
面白過ぎる。根拠の無いこの自信が、いかにも子供らしい。コレの扱いはやはり「おとーさん」に任せるべきか。それにコレを横から攫うような真似を、この護衛士は決して許さないだろう。
ザックはこの男と敵対したくはなかった。騎士としてコレは守らねばならない存在かもしれないが、それは護衛士に任せろとハーシュも言っていたではないか。あいつはまだ若いが今まで間違った判断を下したことはない。心残りではあるが今は自分の仕事を優先しなければならないだろう。
そっか、と呟き地図を仕舞うとザックは立ち上がり、腰に手を当て伸びをした。
「おっし! んじゃ、そろそろ行くか」
美味な草を求めて歩いたのか、馬は少々離れた場所にいた。ザックが名を呼ぶと長い耳がぴくりと動く。主人を認識しながらも、なおも草を食む姿に苦笑しながらもう一度、ザックはジュニアと名を呼んだ。
長い尾が風にそよぎ、二度三度、耳がふるりと振るわれる。
露を含んだ新鮮な葉を存分に食べ、やっと馬は満足したようだ。口の端からはみ出た草を口の中に引き込みながら、軽い足取りで主人の元に戻ってきた。
ぶるる、と鼻を鳴らした馬の首筋をぽんと叩くと手綱を取って、ザックは二人を振り返る。
「じゃあな。俺は先に行く。……給料下げられたら敵わんからなー」
「はい。ザックさん、気をつけて」
言うなりととと、とカイルが駆け寄り、また馬にへばりついた。艶やかな毛並みの頬と鼻筋を撫でながら、名残惜しそうに別れの挨拶を交わしている。
「またね、ハーシュ」
「ジュニア!」
「……ジュニア、またね」
まったく、と愚痴りながらカイルを追いやり、ザックはひらりと馬に跨がった。
「おまえらが来る頃までに、仕事はきっちり終わらせてやる。そんで旨いもんをたらふく食わせてやっからな、楽しみにしてろよ?」
「本当ですか!?」
「勿論だとも!」
闇色の瞳をきらきら輝かせたカイルに頷くと、ザックは馬の腹を軽く蹴った。馬は主人の指示通り、軽やかに歩き出す。
「また、サリフリで!」
片手を挙げて軽く振ると騎士はまっすぐに街道を下っていった。みるみるうちにその姿は小さくなって、丘の向こうに消えてゆく。手を振って見送っていたカイルが戻ってくるのをラウルは手元に引き寄せた。腰を屈めて眼の高さを合わせ、肩越しに南東の方角を指し示す。
「……見えるか? あの小さな集落が、トゥルグの村だ。今日はあそこで休ませて貰う」
遠い丘の向こう、白く霞んだ草原にいくつか角張った影が見える。そこがトゥルグの村。北方公路からアクサライ王国に入った時に最初に訪れることになる場所だ。
疲れたと思ったらすぐ報告しろ、無理はするなと言い含めてラウルは出発の合図をした。はい、と元気に返事をして、カイルは足取りも軽く歩き出す。
意気揚々と歩く少女を見守りながら、ラウルは気を引き締める。
多少の起伏はあるものの、しばらくは緩やかな下り坂が続く。ここからルッカレまでならカイルの足でも12、3日で行けるだろう。それまでは、特に体調には気を配らなければならなかった。
巨大な山の連なりが国境となるだけあって、山向こうとは風の匂いも空の色も、土の感触さえ違ってくる。ただでさえ今は夏の終わり、寒暖の差が激しくなる時期で、大人でも体調を崩し易くなる。そうなると特に子供はよく風邪をひくのだ。中央公路沿いなら街も大きく医者も居ようが、この辺境では病気になったら寝るしかない。この旅の一番の問題は、怪我と病気だ。
そんなラウルの心配を余所に、カイルは元気に歩いていた。
草むらを駆ける狐に声をあげ、延々と歌い続ける雲雀の息を心配する。小型の鷹の狩りに手を叩き、兎を見つけては弓があれば良かったのにとしきりにこぼす。一度石を投げて獲ろうとしたのを無理だと止めると、雉は獲れたと頬を膨らませた。
石に当たるとは間抜けな雉もいたものだ。
それでも凄いな、と褒めてやればカイルははにかんだように笑み、次に獲ったらご馳走しますと約束してくれた。
そうやって他愛もないことを喋りながら、二人はなだらかな坂を下っていった。
その日は順調に進み、日暮れ前にはトゥルグの村に着くことができた。
先行するザックが話をしていたようで、二人は村人たちに熱烈に歓迎された。村長宅に招かれて夕食を振る舞われ、本格的なアクサライ料理にカイルは眼を輝かせ、相変わらずの健啖ぶりを見せた。腹が膨れてうとうとしだしたのを寝かしつけ、ラウルは村人たちと酒を酌み交わす。そして夜もとっぷりと更けた頃、床に入る前に様子を見ると、カイルは穏やかな寝息を立てていた。満ち足りたように眠る姿にラウルも安堵し、就寝した。
しかし次の日、カイルは動けなくなっていた。