プロローグ
むかしむかし、陽と月の神さまがまだ人と一緒に暮らしていたころ、いまはロタラ湾がある場所に「ロウストフト」という国がありました。
ロウストフトは大国でしたが、王様はそれに満足することはありませんでした。この世のすべてを自分のものに、というその野心に果てはなく、大陸すべてを征服しようと戦争ばかりしておりました。
明けても暮れても戦ばかり。
人々は家を焼かれ、畑を荒らされ、歯向かえば簡単に殺されます。
大地は乱れ、罪もない民草の怨嗟の声が大陸中に木霊しました。
それを知った陽の神さまは、たいそう悲しまれました。
そこで王様を諌めようと、月の女神を遣わします。
王様は男です。美しい女神さまが説得したら、ころっと参って戦のことなど忘れてしまわないかなーと、そう思ったのでした。
たしかに女神さまを間近で見た王様は、あっという間にその虜になりました。
けれど陽の神さまの作戦は失敗してしまいます。
「世界のすべてを貴女に捧げよう」
王様はそう言って、ますます戦に精を出したのです。
もちろん、女神さまは断りました。世界などいらない、戦をやめてくれと、ただそれだけを願いました。
しかし王様は聞き入れません。
「すべての人間は、我々にひれ伏すべきだと思わないか?」
王様はそう言って女神さまの手を取り口づけ、そして野獣のような眼でにやりと笑いました。
なんということでしょう。
会話がまったく成立しません。しかもいつの間にか「我々」などと、勝手に仲間にされています。
女神さまは打ちのめされました。
話し合えばわかり合える。そう思って説得に来たのに、その前提が覆ってしまったのです。
そして話し合いなど無駄だ、そう思ったのは王様も同じでした。
これまで王様は、欲しいものは「チカラ」でもって手に入れてきました。
そして女神さまも、そうやってモノにしようと考えたのです。
ところが王様は、女神様に手を出して、ものの見事に失敗しました。なにがどうしてそうなったのか、誰も知りません。この時の記録はどこにもないのですから訊いても無駄です。諦めてくださいね。
とにかく! 女神さまは手に入らなかったのです。
それでも王様は、女神さまを諦めることなどできません。そして思い詰めた挙げ句、とんでもない暴挙に出ました。
なんと女神様を、城の奥深くに監禁してしまったのです。
月の女神さまが帰ってこない。
陽の神さまは、焦りました。
陽の神さまは世界を造り、生きとし生けるもの、そのすべてを守護しています。そして月の女神さまは死者を守護し、冥界へと導きます。いつか訪れるという世界の終末を告げるのも、女神さまです。
ロウストフトとの戦は激しさを増し、死者は減るどころか増えるばかり。なのに導き手は監禁されて、お仕事ができません。
死せる魂は迷いました。なにせ「死ぬ」のは初めての経験なのです。死んだらどうすれば良いのか、どこに行けば良いのか、だれも知りません。死者と生者はお話しできないのですから、それも当然のことですね。
さらには折悪く疫病が流行ったこともあり、世界中に死者があふれました。
世はまさに暗黒の時代。
自分が生きているのか死んでいるのか、それすらもわからなかったと言われています。
このままでは生者がすべて、死者の仲間になってしまう。
時間はもう、残されていません。
陽の神さまは、苦渋の決断をしました。
力ずくで女神さまを取り戻そうとしたのです。
女神さまには早急に交通整理をしてもらい、冥界への渋滞を解消してもらわなければなりません。なぜなら、あまりに死が近いと人は引き摺られて死んでしまうのです。
陽の神さまは、たったひとりでロウストフトへ向かいました。
城にはたくさんの兵が待ち構えていましたが、そこは腐っても神さまです。文字通り兵を蹴散らして、女神さまを目指します。
陽の神さまが攻めてきた。
神さまが相手では、いかな王様でも勝ち目はありません。いま女神さまを返せば、許して貰えるかもしれない。側近はそう進言しました。
けれども王様は、女神さまを手放せませんでした。
このまま別れることになるならいっそ。そう思い詰めるほどに、女神さまを愛してしまっていたのです。
そして追いつめられた挙げ句、王様はまたしても暴挙に出ました。
「この世界が我らを認めないのなら、冥界で」
古来より何度も使い古された言葉です。独創性の欠片もありません。戦に明け暮れていた王様は、文学的な表現を苦手としていようです。
気の利いた言葉が出ないことに苦笑して、王様は宝剣を鞘から抜きました。
「私もすぐに後を追う。それまで大人しく待っていろ」
やなこった。
女神さまはそう言いたかったに違いありません。そもそも女神さまは王様のことが好きでもなんでもないのです。なのに一方的に好意を寄せられ手込めにされそうになった挙げ句、監禁までされたのです。これで好きになれと言われても、とても無理というものでしょう。
女神さまは逃げました。でも鎖に繋がれてしまっていては、そうそう逃げようもありません。すぐに追いつかれてしまいます。
進退窮まった女神さまが振り向きます。王様は、女神さまの瞳に自分の姿が映っていることに満足したようです。剣を振り上げるとそのまま力一杯突き出しました。
ぎらぎら光る刀身が、まっすぐに女神さまの胸に吸い込まれていきました。
すぐに女神さまの身体からは力が抜け、瞳がゆっくりと閉じていきます。
王様は、微笑みながら刺さった宝剣を引き抜きました。
ところが女神さまの胸からは、血は一滴も零れません。
かわりに溢れ出たのは──闇。
「世界の終わり」が、女神さまに閉じ込められていたのです。
闇はあっという間に女神さまを覆ってしまいました。
そしてすぐに触手を伸ばし、王様も、城も、ロウストフトという国はおろか、世界までも飲み込もうと広がっていきます。
すべてが闇に覆われようとしていました。
ここでやっと、陽の神さまが到着しました。
遅過ぎます。女神さまがやられてしまう前に来なければ、まったく意味がありません。
なぜ遅れてしまったのでしょう。
一説によると陽の神さまは城の中で迷っていたということです。しかしやはり、この時の記録はどこにも残っていません。神さまなのに迷うの? なんて訊いても無駄ですからね。訊かないでくださいね?
話が逸れました。続けましょう。
世界はまだ生まれたばかり、終末を迎えるには早過ぎます。
陽の神さまは決意しました。
世界と、そして月の女神さまを救わなければなりません。
陽の神さまは迅速に行動し、その力でもって世界を明るく照らしました。
かつて世界を造った時と同じように、暖かな光で人々を、世界を、女神さまを癒します。
やがて闇は小さくなり、女神さまに吸い込まれて消えました。
女神さまは目覚めます。
そして目にしたのは、陽の神さまの変わり果てた姿でした。
陽の神さまは、力を使い果たして亡くなっていたのです。
女神さまは嘆き、そして深く哀しみました。
これまでにない、どす黒い感情が女神さまを支配します。そしてこの一連の出来事を引き起こした、ロウストフトの王様に呪いの言葉を投げつけます。
「──其方など、消えてしまえばいい」
王様は、そのとき微笑んでいたそうです。消えろと言われて喜ぶとは、この王様、やはり変わっています。変態さんかも知れません。
それはともかくとして。
その日、女神さまの言葉通り、ロウストフトは滅びました。
国全体が哀しみの業火に包まれたのです。
火の柱は天を焼き、三日三晩燃え続けました。
その様子は西の端のヘクストからも、東の果てのサリフリからも、大陸中からはっきりと見えたそうです。
そしてすべてが燃え尽きたロウストフトは、海の底に沈みました。
ロタラ湾が綺麗な円を描いているのは、女神さまが燃やした所為なのです。
やがて我に返ると、女神さまは深く後悔しました。
罪も無い数多くの人々を巻き込んでしまったからです。
後悔先に立たずとは良く言ったものです。みなさんも、よくよく考えて行動しましょうね。
さて、女神さまです。
それから女神さまは、人の世界を去りました。
人と一緒に暮らしていては、また同じことが起こるかもしれない。このようなことは、もう二度と繰り返してはいけないのだと、そう考えたのです。
北の果て、霊峰シャンティーイの奥深く、人が辿り着けないその場所で、女神さまは長い眠りにつきました。
世界の終末がくるその日まで、目覚めることのない眠りです。
裏を返せば女神さまが目覚めたその時、世界が終わるということですね。
だから、と「おばあちゃん」は言った。
女神さまがうっかり目覚めてしまわないよう、歌を歌って楽しいお話をして、慰めてさしあげましょう──
◇ ◇
突っ込みどころは満載だった。
戦を終わらせるのに色仕掛けなの、とか。
そもそも神様のくせに簡単に捕まるな、とか。
交通整理の「お仕事」とやらは、どこでしていたんだ、とか。
極めつけは、女神さまを起こさないよう歌を歌って話をする、だ。もしわたしがそんなことをされたら間違いなく飛び起きてしまうだろう。
でもそう言うと、「おばあちゃん」はひどく怒ってわたしを打った。
女神さまへの敬意が足りない。
あの方の御許に行けるのは、とても名誉なことなのよ?
私は行けなかったのに。おまえという子は──
ロタラ湾の南の端、高い高い塔の上。そこから見える蒼い空と果てのない青い海。そして、塔の小部屋の白い壁。
たったそれだけが、わたしの知る世界のすべて。
その世界が終わったのは、忘れられないあの日のこと。
月のない、まっくらな夜。
大人の怒声と金属の打ち合う音。
白い壁を赤い火がゆらめいて、舐めるように這い登る。
崩れる天井。子供の悲鳴。
あつくてあつくて、くるしくて。
小さな柔らかい手を引いて、喘ぎながらそれでも駆けた。
出口が見えて、階段を下りようと踏み出したとき、足の下がぐらりと揺らいだ。
崩れる。とっさに小さな手を抱き込もうとしたら、背中がとん、と押し出された。
「────」
振り返れば紫の瞳。
たったひとこと、口にして。
差し伸べた手を取ろうともせず、ただ綺麗な笑顔を浮かべていた。
天と地が逆さまになって、紫の瞳がどんどん遠くなっていって。
大きな手がわたしを支え、抱きとめた。
そして。
あの高い、天に向かってそびえ立つ塔が、あっけなく崩れ落ちた。