閑話 〜 そして、夜が明けた 〜
** 第二の犠牲者 **
「それに……触れるな」
「ケチケチすんなよ、おとーさん」
目の前で、ヒトの形をした小動物が丸くなっていた。
その白い頬はつつけば果てがないほど柔らかく、つまめばどこまでも伸びてゆく。つまみすぎると時折ふるりと顔が振られて伏せられるが、すぐに元の位置に戻ってくる。小動物は、今も重ねた両手を口元に添え眼を閉じている。よほど深い眠りなのかいくら頬をつついても、目覚める気配は微塵もなかった。
「いい加減にしろ」
「……もーちょっと……」
「これで最後だ。……止めておけ」
無理、止められない。
口には出さなかったがそんな気配を敏感に察したようだ。呆れたように溜息をつくと、護衛士は毛布をかぶってさっさと寝てしまった。こちらに背を向け少女との間に荷物を置いて、どこか突き放したような様子が少し気になる。だが五月蝿い「おとーさん」がいなくなったのを幸いに、ザックはますます調子に乗った。
(お、面白れー……)
これは癖になりそうだ。
しっとりとした肌の感触、つついたときのこの弾力、つまんだときの、この伸び。
こんな菓子があったような気がするが、なんと言ったか。
夢中になって、ふにふにと少女の頬をつついていたら、白い頬が手の甲で覆われた。
防御するとは小動物のくせになんと小賢しい。
ザックは柔らかい頬と手のひらの間に指を2本差し込んで、そっと持ち上げ外してやった。そして本来の位置である口元に手を戻そうとしたそのとき、差し込んだ指が小さな手のひらに捕えられた。
細い指がやわやわと太い指を握り込み、肉刺のある、男の固い手のひらを引き寄せる。なにをする気だ、とされるがままに見ていると、やがて頬が寄せられた。
少女の口元には微笑みさえ浮かび、手のひらにすり寄ってくる仕草にザックの頬もふにゃりと緩んだ。楽しい夢でも見ているのだろう、そう思ってじっとしていると、男の手のひらに、ざらりと濡れた感触が伝わった。
(なっ……なっ、舐められた!?)
眼を剥き咄嗟に引き抜こうとした騎士の手は、がっちり捕えられ動かなかった。すでに夢の住人となっている少女は、狼狽する男の事情など知る由もない。
んふ、と鼻を鳴らして微笑むと、少女は紅く色づいた唇を限界まで大きく開けた。
かりり、と音がした。
声にならない悲鳴が上がる。
ふうふうと息を吹きかける音と、満足そうな溜息。
なにが起きたのか、ラウルは手に取るようによくわかった。
(だから触るな、と言ったのだ。……馬鹿め)
ふん、と鼻を鳴らした最初の犠牲者は、そのまま毛布を引き上げ眠りについた。
** 注意事項 ** (エピローグより)
「おじいさまっ!」
りぃん、と天上の鈴が鳴った。
呼ばれるままに振り向けば、遠くから少女が駆けてくる。
身につけているのは首元の詰まった長袖の、身体の線に沿って裾が広がった白いドレスだ。質素だが上品なその服が、少女にとても良く似合っている。そして足下に届くほどの漆黒の長い髪は流したまま、少女が駆けるに従って、ドレスと一緒に左右に揺れた。
これが、あの子の本来の姿なのか。
(なんと、美しい……)
元気一杯のその様子に老人は目を細め、皺を刻んで顔をほころばせた。
なんとも不思議な場所だった。穏やかな、優しい光に満ちた白い世界。足元からふわりふわりと漂って、まるで雲の上にいるかのようだ。
少女はその世界を飛ぶように駆け抜けて、老人めがけて飛び込んだ。
来るべき衝撃を予想して、老人は腰を落として少女を迎える。
かすかな風が頬を撫で、少女の腕が首に回った。
しかし衝撃はこなかった。
老人はその身体を抱きとめようと力を入れたが、思わぬ事態にたたらを踏んだ。前のめりになりながらも少女を抱え、転ばぬようにとくるりと回る。少女は声をあげて笑い、ドレスの裾は翻り、そして長い髪はその軌跡どおり、ゆらりと漂い宙に浮いた。
まるで羽のように少女は軽く、髪は水中にあるかのように揺らめいている。
現実では有り得ないその光景に、老人は眼を丸くした。
(夢──なのか?)
だとしたら、なんと素晴らしい夢だろう。
その喜びのまま、老人は少女を抱きしめる。
「ふふふっ」
ごろごろと、喉を鳴らす猫のように頬を寄せ、少女も老人にきゅうとしがみついた。
「おじいさま! お会いできて、わたくし嬉しい!」
「……嬢ちゃん、どうしたね?」
らしくないその言い様に、はて、と老人は首を傾げた。
細い腰を支えて下に降ろし、少女と向き合い眼を合わせ、そして驚愕のあまり老人は声もなく仰け反った。
「──っ!!」
少女の瞳は銀。
あの子を導いて、と言葉を残して消えたはずの銀の少女だった。
「おじいさま?」
小首を傾げて見上げる顔は、老人の知る少女と同じものだ。ただ瞳の色が異なるだけの、まったく同じ表情だ。
老人は、やっとのことで掠れる声を絞り出した。
「……なんで、あんたが……」
「おじいさま、わたくし本当に心配で」
居ても立ってもいられなくて、来てしまいました、と銀の少女はにこりと笑んだ。
「あの子は知識はあっても世間知らずですから。今になって兄の気持ちが良くわかります」
頬に手を当て小首を傾げ、銀の少女はほう、と小さく息を吐いた。
少女の兄も、死の直前まで妹のことを気に掛けていたという。
だからわたくしも、あの子の取り扱いについて注意事項を説明いたします、と満面の笑みを浮かべて銀の少女は宣言した。
「まず、武器は一通り扱えます。逃げ足も速いので、一人にしても心配はありません。それから家事もそれなりにできるはずですが、料理だけはさせないでください。絶対に。……兄は、食材が無駄になるだけだから触れないように、と申しておりました」
「……なんだね、それは」
「さあ? わたくしは料理をしたことがないので、わかりません」
朗らかに答えると、銀の少女はそれから、と人差し指を立てて釘を刺した。
「なにがあっても、同衾はだけはしないでくださいね?」
「儂をなんだと思ってる!」
腹を立てた老人に、少女はそれは違うと首を振った。
「ただ一緒に眠るだけでも相手の方が危険なのだとか。何度尋ねても兄は詳細を教えてくれなかったのですが、兄が言うからには、そうなのでしょう」
「……あんたいったい、なにをしたんだ?」
「わたくしも、ずっと疑問に思っているのです。なにしろ眠っている時のことなので……」
わかりません、と明るく笑んだ銀の少女に老人は額を押さえ、大きな溜息をついた。
「嬢ちゃんは、あんたを嫌ってる。こうして会ったと知ったら、どう思うか……」
「大丈夫ですよ、おじいさま。ここは夢の中ですから、魔力のないあの子が来ることはできませんし、絶対にバレません。おじいさまが黙っていれば大丈夫です」
バレるバレないの問題ではない、と言いかけて老人は気がついた。
「……あんた、確か時間がないとか言ってなかったか? その、代償がどうとか」
「ええ、わたくしは消えるのだと思っていたのですが……そうでもなさそうですね」
なにしろ初めての経験なものですからわからないことだらけで、と続けて銀の少女は晴れやかに、輝くような笑顔を見せた。
「まあ、それならそれで、宜しいのではないでしょうか」
(子供……というよりも「素」なのか……?)
なんだか目の前が暗くなってきたような気がする。
ああ、もう一言。一言だけ言わせて欲しいと願ったが、そのことを口にする前に、老人は深い眠りに誘われ落ちて行った。
(儂に言っても嬢ちゃんが知らなければ、意味が、ない……)
** そして、夜が明けた **
朝食後に茶を飲んでいた時のこと。
カイルがそうだ、と手を叩いた。
「ラウル、聞いてください!」
嬉しさを隠しきれないといったような、その華やいだ声にラウルもつられて微笑んだ。
「どうした?」
「わたし、夕べ凄い夢を見たのです!」
なんとなく、その内容には想像がついた。
そっと騎士の方を窺うと、明後日の方に眼を逸らし、大きな身体を固くして、じっと息を潜めている。
それを横目で見ながらも、素知らぬ振りでラウルは尋ねた。
「ほう。どんな夢だった?」
「鶏唐揚げが、歩いてやってきたのです! 食べたら歯ごたえがあって、こりこりしてとっても美味しくて!」
カイルは両手を頬に当て、その「味」とやらを思い出したのか、うふふ、と幸せいっぱいに微笑んだ。
……やはり、鶏唐揚げか。確かに「あれ」は、これ以上ないほど新鮮な肉だ。歯ごたえもまた、格別だったことだろう。
ラウルは頷き、そしてあくまで無視する騎士をちらりと見た。
(……馬鹿め)
何を探っていたか知らないが、忠告を聞かないからこんなことになる。
ふん、と鼻を鳴らし、ラウルはカイルに微笑みかけた。
「……そうか、良かったな」
「はい! 2日も続けて夢でも食べられるなんて、わたし、なんて幸せなのでしょう」
胸の前で両手を合わせ、カイルはうっとりと眼を閉じた。
子供は夢の中でも味や匂いを感じているという。幻とはいえその鶏唐揚げは、さぞ美味かったことだろう。ただひとつ、妙なものを口にして腹を壊さないかが心配だったが、この分なら大丈夫そうだ。
カイルの緩んだ口元に、ラウルも誘われ眼を細めた。
二人して良かったな、良かったですと浸っていると、ザックが胡乱な目つきで声をあげた。
「……なあ、チビ」
「はい?」
「おまえ、一昨日も夢で鶏唐揚げ、食ったの?」
「はい!」
「へえぇ……そーなんだ」
濡れた土色の瞳がきらりと光った。つるりとした顎をさすりながら、騎士はにやりと片頬だけを引き上げる。
どうせ碌でもないことを考えているのだろう、そう思った通り、ザックは一度ちらりとラウルに視線を送ると、張り合うように問いかけた。
「なあ……どっちが美味かった?」
どちらと訊かれて黒い瞳が瞬いた。両方っつーのはダメだ、と念を押されてカイルは唸る。
「そうですね……昨日のは少し固いけれど歯ごたえがあって美味しかったし、一昨日のは柔らかくてぷりぷりして、口に入らないぐらい、大きかったのです」
カイルは眼を閉じた。顎に拳を当てううん、と唸り、さんざん逡巡してから眼を開ける。そしてまっすぐに、濡れた土色の瞳を見あげて結論を出した。
「やっぱり、わたしは大きい方が好き……です」
大きさかよ、とザックの頬が引きつった。
どうでも良いことだ、とラウルは一口茶を啜る。
そしてカイルはさらに考えて、ぽそりと小さく呟いた。
「大きくて、柔らかくて美味しくて……あれは、もも肉だったのでしょうか?」
もも肉、と聞いてザックは眼を剥きラウルは咽せた。
「……おっさん、変態?」
「違う!」
断じてやましいことなどしていない。
ラウルは必死になって否定した。
随分イイコトしてんじゃないの、と冷やかすザックに、カイルがいっそう追い打ちをかける。
「わたしもイイコトしたいです!」
二人でばかり、狡い。そう言って頬を膨らませたカイルに、全然楽しくない、とラウルは懸命に主張した。しかし隣では、ザックが腹を抱えて笑い転げており、説得力は皆無と言えよう。
「そうだチビ、存分に遊んでもらえ!」
ザックは手を叩いて囃し立て、カイルをしきりにけしかける。
昨晩投げかけた言葉をそのまま返されラウルはぎりりと歯を食いしばった。
(──この野郎)
だがその冷やかしに敏感に反応したのはカイルのほうだった。
「ラウルもザックさんも、ひどい。……わたしで『イイコト』してたんですね」
上目遣いで大きな闇色の瞳に見つめられ、男二人はぐっと詰まった。つんと口をとがらせ、両の拳を膝の上でふるふる震わせるその姿は、毛を逆立てた仔猫そのものだ。
これ以上は、マズい。
意見の一致をみた二人は、顔を見合わせ頷いた。
本格的に臍を曲げる前に、ほかのもので気を逸らそう。
だが時すでに遅く、カイルは盛大に拗ねていた。
「……もういいです。『イイコト』しても、つまらないもの」
そういって立ち上がると、カイルは小屋の隅に向かって腰を下ろし、膝を抱えて丸くなった。
拗ねる姿も面白かったが、ここで笑うのはさらにマズい。ではどうするか、と二人は苦笑しながら肩をすくめた。
困ったことは確かだが、それは本当に些細なこと。後で聞いたら笑い話になるような、そんな他愛のないことだ。
少女の行動は予想がつかず、見ているだけで楽しくて。ラウルはこの幸せが、ずっと続くものだと思っていた。
だがこれが、ほんの一時のことだと二人が知るのはもう少し先のことになる。