暗闇を抜けて・2
それから3人は小屋に戻り、彩り豊かな朝食を摂った。
持参した食糧の大部分は食べ尽くしてしまったため、朝は質素な食事になるはずだった。ところがザックが「騎士特権」とやらで牛乳と果物を兵舎から貰ってきたおかげで、そこそこ豪勢な食事を得ることができた。
「……騎士特権?」
「おうさ。国内ならな、衣食住が保証……」
そこまで言って、ザックははっとして黙り込んだ。ラウルの眼差しが凍りつく。
「ほう、衣食住が、ね」
昨夜食事が出ないと言っていたのは嘘だったと、あっさり自白したのだ。小さくなった騎士を睨みながら、ラウルはこれ見よがしに溜息をつく。
(──馬鹿め)
詰めが甘過ぎる。嘘をつくなら最後まで貫き通せと、そう言ってやりたかった。しかしその「騎士特権」とやらは考えるまでもなく、食べ盛りのカイルのために使ったものだ。昨夜の詫びのつもりかもしれないが、こちらも「食事代」を貰ったことでもある。今回だけは不問に付そう。
見ると迂闊な騎士は、ちらりちらりとラウルを窺いながら、背中を丸めてもそもそパンを食べている。その姿はまさに熊が蜂の巣を抱えているようで、ラウルは危うく吹き出しかけた。慌てて咳で誤摩化したが、それをじっと見ていたカイルが「二人だけでイイコトして、狡い」などと言い出したので、誤解を解くのに苦労した。
食事の後に小屋を軽く掃除して、ラウルとカイルは出発の準備をして外に出る。ここは遠大なトゥルネイ山地の崖の下、そのため夜明けを過ぎても山の影に入ってまだ薄暗い。それでも徐々に霧は薄れ、砦の広場が見渡せるほどになっていた。
二人は毛布を返し、隧道の前で扉が開かれる時間を待つ。そこでカイルが気づいた。いつの間にかザックが消えたのだ。
ここに居ると言っていたのに、とカイルは不安げに辺りを見回し、小屋の周りを何度も探した。用を足しにでも行っているのだろうと、ラウルは気にしなかったが、ひとつ気懸かりなこともあった。良い機会だ。折角のこのタイミングを、逃す手はない。
「カイル……気付いていたか?」
「はい、なんでしょう?」
「彼の……その、変化だ」
変化、と聞いてカイルは瞳を瞬かせた。
「ザックさん、具合が悪いようには見えませんでしたが」
「いや。彼の……顔にな」
「顔? そういえば、頬にいくつか切り傷がありましたよね?」
あの傷が悪化したのでしょうか、と心配するカイルを安心させるように、ラウルは腰を屈めてフードの奥の瞳を覗きこんだ。
「そうではない。……気がつかなかったか? 髭が無かったろう?」
「あ、そういえば」
「親しい人になにか変化があったら、一応褒めておけ。彼にはそうだな……『若くなった』とでも言ってやるといい」
「……はい」
わたしが気がつかなかったから、ザックさんは居なくなったとすっかりしょげ返るカイルを宥めながら、広場の隅で時間を待つ。大丈夫すぐに戻ってくる、とラウルが言った通り、ほどなくして笑顔で騎士が現れた。なんのことはない、馬を取りに行っていただけのようだ。
「おう!」
「……ああっ! ザックさん!」
その無事な姿を発見すると感極まってカイルは声をあげ、そしてそのまま駆け寄った。ザックの方でも腰を屈め、両手を広げてそれに応える。
が、飛び込んでくる身体を支えようとした両手は空を切った。カイルの目的地は、連れて来た馬の方だったのだ。
もはやカイルの視線は馬に釘付けで、ザックのことなど見向きもしない。頬を染め、瞳をきらきら輝かせて馬の姿に魅入っている。
「触っても、良いですか!?」
流石帝国の騎士が持つだけあって、それは立派な馬だった。艶やかな黒鹿毛で額に星があり、四肢の先だけが白く抜けている。
つい先ほどまでの満面の笑みを仏頂面に変え、それでもザックはああ、と応じた。カイルは飛び上がらんばかりに喜んで、大きな馬に抱きついた。
馬の鼻すじと耳の下を掻きながら、可愛い可愛いと、しきりに繰り返して頬を寄せる。
「わたし、馬は靴下履いている子が一番好きなんです!」
「くつした……」
ぶっと吹き出しそうになったのを、ラウルは再び咳で誤摩化した。自慢の馬を「靴下」などと評されて、ザックはいささか憮然としている。
「あのな、チビ。こいつにゃ『ハーシュJr.』って名があるんだ」
「ハーシュ、ジュニアですか?」
「……おう」
「じゃあ、『ハーシュ』って呼びますね!」
「いやそこは、『ジュニア』の方で……頼むから」
「ハーシュ、ね……」
ラウルがそう呟くと、ザックはそっと目を逸らす。
その名が故意か偶然かはわからない。だがいずれにせよ「本人」との浅からぬ関係が連想させられた。このザックという男、意外にも帝国中枢に近いのかもしれない。
もっともカイルには、そんなことは関係なかった。「ハーシュ」の方が呼び易いのに、と零しながら何度も「ジュニア」と声をかけ、飽きずに馬を撫でていた。
やがて時間が来た。トゥルネイ山地を貫く、オノレ隧道の扉が開かれる。この長いトンネルを抜ければ、そこはアクサライ王国だ。
そしていよいよ出発というその時に、なぜか砦の兵がゾロゾロ出てきた。それを見たカイルはお菓子のお礼を言ってくる、と元気に駆けて行ったのだが……
なぜか一人一人と握手をして、さらに菓子を貰っていた。
ラウルは唸った。再び頭痛がしてきたような、そんな気がして額にそっと手を当てる。
たった3人の出発のために、なぜ正規軍が手土産つきで見送りにくるのだ。
「……どうなっているんだ、ここの連中は」
「おやまあ、チビ、凄ぇじゃねぇの」
ひゅう、と口笛を吹いて帝国の騎士は暢気に笑う。
(帝国というのは、こんなにもいい加減だったろうか……?)
この騎士と、ここの兵たちが特殊なだけだと、ラウルはそう思いたかった。
砦に駐在するほとんどの兵と挨拶を交わし、背負った荷物をずいぶんと膨らませてカイルは戻ってきた。
「ラウルっ! お菓子をたくさんいただきました!」
「……そうか、良かったな」
見て、と頬を紅潮させて報告したカイルの頭を軽く撫で、保護者として仕方なく礼を言う。砦長が右手を差し出し、ラウルもそれを握り返した。
「また是非、いつでも来てくれ。歓迎する」
「ええ……まあ、いずれ」
「んじゃ、行くか」
言うなりザックがカイルを持ち上げ、ひょいと馬の上に乗せた。
あんだけ食ってて、なんでこんなに軽いんだよ、と愚痴りながらもぴしりとカイルに命令する。
「いいか、チビ。お前は荷物だ。だからしばらく黙ってろ」
「は、はい」
「喋るなよ?」
突然のことに、カイルは眼と口を大きく開けて固まった。だが念を押され、慌てて両手で口を塞ぐ。その姿に眼を細めて頷くと、ザックは砦長の肩に手を回した。
「隊長さんよ、あれは積み荷だ。だからこのまま通っても構わんよな?」
「む?」
「……正直な、アレがうろちょろしてると危ないし、邪魔なんだ。手綱は俺が持つからさ、荷物ってことで許可してくれ」
「うむ。……そうだな。確かに『壊れ物』ではある。……よろしい、許可しよう」
アルトローラの法では、オノレ隧道内での騎乗は禁止されている。だが暗いトンネル内で、小さなカイルが馬の周りを歩くのはかえって危険だと、ザックはそう言っているのだ。
それに砦長は柔軟に対応した。
確かに杓子定規で融通の利かないどこぞの神殿よりは、遥かにマシだ。しかし悪趣味な茶器を売ってみたり、子供に菓子をくれてやったりと、柔らか過ぎやしないだろうか。
ラウルは眉間を揉みながら、何度も自らに言い聞かせた。この騎士とここの兵たちが特殊なだけなのだ。問題ない。
砦の兵に見送られ、一行は隧道内に踏み入った。
先頭はラウル、次いでザック。そして手綱を引かれた黒鹿毛の馬と、その背にやたらと可愛らしい「動く荷物」。荷物は馬に跨がり片手で口を押さえ、振り返りながらもう片方の手を振り砦の兵たちに別れを告げる。
入り口の向こうが白い光に滲むまで、カイルはずっと外を見ていた。
薄く曇った空、ひやりと湿った空気、天に聳える数々の巨木。助けてくれた鍛冶師の老人、優しかった村の人、お菓子をくれた、砦の人たち。
そのすべてを忘れないというように、しっかりと眼に焼き付ける。
「……おっし、チビ。もう良いぞ」
声を出す許可を貰って、カイルは口を押さえていた手をやっと外した。
ぷはっと息を吐きだし深呼吸する姿に、徒歩の二人はくすりと笑う。
「なんだよチビ。息まで止めてたのか?」
「少しだけ、です。だって荷物は息をしないでしょう?」
その言い草に、ラウルとザックはぷっと吹き出し肩を揺らした。「もうっ、なにが可笑しいのです?」と拗ねる少女がまた面白くて、二人はしばし、呼吸困難に陥った。
あまり笑うとまた拗ねて、口を利かなくなってしまう。ラウルは涙を拭いつつ、足を緩めて振り返った。
「ああ、カイル。眼は慣れたか?」
「……眼?」
「そうだ。何か見えないか?」
んん? と鼻を鳴らした後に、カイルははっと息を飲んだ。
「わたしたち、明かりを持っていないのに、どうして周りが見えるのですか?」
一行はトンネルの中を歩いている。道は緩やかな弧を描いており、出口も入り口も、そこから漏れる光さえ届かない場所にいる。だというのに辺りには、まるで海の底にいるような、深い藍の光が満ちていた。人の形がうっすらと判別できる程度だが、それでも真の暗闇ではない。
きょときょと周りを見回すカイルに、ラウルとザックは声をあげずに再び小さく肩を揺らす。
「チビ、上だ、上」
「うえ?」
言われるままに仰のいて、カイルは言葉を失った。
頭上には、満天の星。闇夜に撒かれた輝く砂が、一筋の河となって続いている。河は緩やかにうねりながら道の先へゆるりと伸び、隧道をほのかな藍の光で満たしていた。
「……凄い……生きてる……」
呆然と呟いたかと思うと、カイルは何度も手を打ち歓声を上げた。
「……カイル?」
「ラウル、凄い! 凄いことですよ! これは! この遺跡、まだ生きてる!」
「遺跡……これが?」
騎士の疑惑も護衛士の懸念も意に介さず、少女はただただ歓喜した。凄い、凄いと何度も繰り返し、最後に胸の上で両手を強く握りしめる。
よかった、これで。その囁くような声を聞き咎めた騎士が口を開くと同時に、少女が身を乗り出した。
「そうだ、ザックさん!」
「っと危ねぇ! ちゃんと座ってろ」
鞍から落ちそうになり、すみません、と肩をすくめた少女は上機嫌で笑っている。あの潤んだような声は、気のせいだったのだろうか。
手綱を引きながら首をひねった騎士を、少女は今更のように褒め称えた。
「ザックさん、お髭がないと、わたしよりも若く見えますね!」
「お? そうか?」
見え見えの世辞に、それでも騎士は喜んだ。つるりとした頬の感触が気になるのかしきりに頬を撫で、これも良いかもしんない、とそんなことを呟いた時だった。
「だから、わたしが『お姉さん』ですね?」
くすりと笑って返されて、ザックの顎がかくりと落ちた。
「う、うっせえ! 勝手に決めんな!」
「……まんざらでもないくせに」
またくすりと笑われて、いよいよザックの眼がじとりと据わる。
若く見られるにも限度があると、そういうことらしい。三十路を越えれば腹も座るが、その直前というのが気になるようで、この年頃の男というのは本当にムズカシイ。
ラウルはふう、と息を吐きだした。
ここは狭いトンネルの中。馬がすれ違うのがやっとの幅で、天上だけがヤケに高い。おまけに周りは叩けば高い音が返ってくるような石。それは即ち──
わんわんと、声が何重にも木霊する。それに負けないような大声で、ザックとカイルは言い合った。しかも二人のじゃれ合いは熱を帯び、徐々に声が大きくなる。
「だーれがお前より年下だって? 未成年が、粋がんな!」
「わたし、とっくに成人してます!」
「あー、アクサライではそう言う部族もあったな、確か! ……14だったか?」
「ちーがーいーまーすー!」
「ちーがーわーなーいー!」
藍色の闇の中に、高低合わせた不協和音がくわんくわんと響き渡った。まるで頭の中を金棒で掻き回されるようで、馬も不満げに鼻を鳴らして幾度も頭を振っている。これ以上大声を出されると、流石に限界を越えてしまう。
ラウルはちらりと振り返り、両手で耳を押さえながらあえて大きく息を吐き出した。「大人だと言い張る子供」と「子供と一緒になって口喧嘩をする大人」。どっちもどっちだ。
「ふん……どちらも子供に違いない」
「「…………」」
それきり姦しい口喧嘩はぴたりと止んだ。しかし、ぼそぼそとした言い合いはその後も続く。今度のネタはラウルらしい。
(おとーさんは、おかーさんみたいに口煩いな?)
(だから、ラウルは『お兄さん』です!)
(チビ……ほんっとに、冗談が通じねぇのな?)
(言って良い冗談と、悪い冗談があるんです!)
(……これのどこが悪いんだよ)
(ラウルが『おとうさん』ってとこに決まってるじゃないですか!)
(……はあ?)
(だって、『おとうさん』は勝手なことばかりして、すぐにいなくなってしまう人のことでしょう?)
ラウルはそんなことしないもの、と続けたカイルに、ザックは言葉を失った。栗色の頭をくしゃりとかき回し、動揺を押し殺す。
「はは……そうだな、うん。『おとーさん』じゃなくて『おかーさん』だ。間違えちまったな」
「ザックさん……ラウルは女の人ではありませんよ?」
「そ、そう、そうだよな。うん」
「そうでしょう?」
ね、とカイルが笑んで、ふふ、と小さな息を漏らした。そこには嘆きや憂いの色はみられない。けれど騎士も護衛士も、言葉を発することができなかった。あれほど少女が「兄」にこだわるその意味が、重く胸にのしかかる。
それきり言葉もなく、一行は静かに歩を進めた。二つの靴音と、一頭の蹄の音だけが隧道内に響き渡り、囁くような律動を刻む。
だが深刻な顔をして黙り込んだのは地を歩く二人だけで、馬上の少女はずっと天を仰いでいた。感嘆の息を何度も洩らし、時折「凄いね、ハーシュ」と馬の首筋をくすぐっていた。
ぶるり、と馬が鼻を鳴らして頭を起こした。耳がピンと立って前方を向き、心持ち足が早くなる。
人もはっとして気がついた。遥か前方に、光が見える。横から差し込む色は白。隧道内の藍とは違う、地上の光。
無意識のうちに、人馬の足が速まった。皆小走りになって光を目指す。白い光はどんどん大きくなってくる。闇に慣れた眼に光が射し込んで、じわりと涙が滲み出た。眼を閉じて、それでも駆けた。強い陽が身体全部を包み込み、目蓋を閉じても眩しくて、歯を食いしばって手をかざす。手のひらがじわりと熱を持ち、靴の底からは草を踏みつける感触がする。
息を切らして躍り出た一行に、強く輝く陽の光が降り注ぐ。
そしてふわり、と涼やかな風が頬を撫でた。
「──ここが、アクサライ」
眼を細めて手をかざし、涙をこぼしながらもぐるりと辺りを一巡する。
広がるのは、果てのない緑の草原。
なだらかに下る数々の丘。はるか遠くに霞む、山らしき影。
乾いた風に乗る、草の匂い。筆で佩いたような薄い雲。どこまでも高い、蒼い空。肌を刺す、鮮烈な陽の光。
カイルは、左腕にそっと手を当てた。そして闇色の瞳で遠い東の果てを臨む。
そこはサリフリの方角だ。
「もうすぐ。……もうすぐだから……待っていて」
囁くような呟きは、そよと吹いた風に乗り、乾いた大気に溶け込んだ。
◇ ◇
小屋を出て、また老人は空を見上げた。
今朝は曇り。じきに晴れそうだが、湿気が多い。
いよいよ本格的な雨期が始まる。そしてそれが終わればもう冬だ。そろそろ本腰を入れて、冬支度を始めなければならない。
だが老人の手は止まりがちだった。
あれから3日。少女はもう、国境を越えただろうか。
一人で泣いてはいないだろうか。
そんなことが気になって、気付けば空を眺めている。
せめて村まで送っていければ良かったのだが、どうしても膝が動かなかった。
老人は、何度も何度も祈りを捧げる。
──どうか、無事で。
老人はこの10年、正直いつ死んでも良いと思っていた。いや、積極的でないにしろ、死を望んでいたといっていい。
だが、今は違う。
そう簡単には死ねなくなった。
少女が残した「行ってきます」という言葉。それは帰りを約束する文言であったし、なにより可愛い小鳥の願いを叶えなければならなくなったのだ。
飛び立つ前の、それは少々やっかいな「願いごと」だ。
「……ぼんやりとしていられんな」
ずいぶんと長い間、空を眺めていた老人だったがぽつりとそう呟くと、鍛冶場に向かってゆっくりと歩き出した。