暗闇を抜けて・1
目覚めが近いのか、もそもそと衣擦れの音がする。その密やかな音は近づいたかと思うと遠くなり、やがて「んっ」と小さな声がした。
(んんーっ)
吐息と言った方がいいような、小さな小さな声。それが終わると少しして、長い息が吐き出された。それから軽やかに身を起こすと声の主は大きな瞳を瞬かせ、周りをきょときょと見回している。
眼を閉じたままでも、背後で起こっていることが手に取るようにわかってしまう。ラウルは身体を動かさないよう注意しながら、必死になって笑いをこらえていた。
ふと、何を見つけたのか、息を呑む音がした。
衣擦れと、かさこそ紙を開ける軽い音。
そして──
(ラウル……ラウルっ!)
潜めた声で名を呼ばれ、ゆさゆさと肩が揺らされた。
それで初めて目覚めたように顔を巡らし、あえてゆっくり眼を開ける。
目の前には早朝だというのに感動と喜びに満ち溢れた、輝くばかりに美しい顔があった。
(……おはよう)
(おはようございます。──ラウル、これ!)
声を潜め、まずは二人で朝の挨拶を済ませる。それから改めて、カイルは手にした物を差し出した。
それは、菓子だった。
夕べ寝る前に上着のポケットに入っていたのに気が付いて、隣の枕元に置いておいたのだ。
(ああ……これは昨日、砦の皆さんから頂いたんだ。後でお礼を言っておきなさい)
(はい!)
昨夜一緒に休んだ騎士は、小屋の隅でこちらに背を向け、まだ丸くなっている。彼を起こさないようにと気を使い、カイルは小さな声で返事をした。
窓の外はまだ暗い。時刻は陽が昇る寸前といったところか。だがもうそろそろ兵舎の方も本格的に目覚める頃だ。動き出しても問題ないだろう。
剣と貴重品と細々とした物を持ち、カイルを連れて土間へ向かう。
長靴に足を入れながら、ラウルはタヌキに問いかけた。
「──で? 君はどうする?」
「……行く」
栗色の頭を掻きながら、騎士はのそりと起き上がった。緩慢な動きで準備をし、カイルの隣にどすんと腰を下ろす。
「おはようございます、ザックさん」
「おまえさぁ……朝っぱらから、なんでそんなに元気なんだよ」
「は……?」
くそ、いってぇ、と愚痴をこぼしながらぞんざいに靴を履くと、ザックはまっすぐ扉に向かった。
あからさまに不機嫌そうなその様子にカイルは目を丸くして、ラウルの膝に縋りつく。
「わたし……寝ている間に、なにかしてしまったのでしょうか?」
「いいや、行儀良く寝ていただけだ。……そうだな、彼は拾い食いでもしたのだろう」
気にすることはない、と続けてラウルは大事なことを思い出した。
三和土に足を降ろしたカイルの前に片膝をつき、闇色の瞳にしっかり視線を合わせて言い含める。
「カイル、挨拶もできないような大人には、なってはいけない。人として、な?」
「はい、勿論です。……それにわたしは、もう大人ですから」
「嘘をつけ!」
にこりと微笑んだカイルの言葉に、ザックが振り返って異議を唱えた。そこに翠と黒、2対の視線が突き刺さる。あれが「挨拶もできない大人」の見本だと囁かれ、国を背負った騎士はぐっと詰まった。朝の挨拶もできないようでは帝国の威信も地に落ちよう。だが彼はめげなかった。拳を口元に当て、おほんと大仰に喉を鳴らし、にやりと口元を引き上げ片手も上げる。
「俺は騎士だからな、ちゃーんと礼儀は心得てんだ。……オハヨウゴザイマス!」
「お、おはようございます……?」
「おはよう」
「……っかーー! やっぱりこれだから田舎者は!」
顔を見合わせるラウルとカイルに、両手で頭を掻きむしってザックは吠えた。この仕草はどうやら都で流行っているようだが、知らなければただの奇妙な行動に過ぎない。これだから都人は、と思ったが、ラウルは黙ってカイルを水場に連れ出した。
こんな変な挨拶は教育上宜しくない。興味を持たせてはいけないのだ。
◇ ◇
外は、深い霧に覆われていた。
とろりとした真っ白な雲が辺り一帯に立ちこめて、数歩先を歩く騎士の姿さえ霞ませてしまうほどだ。トゥルネイ山もそこから伸びる山々も、すべてが白くとけ込んで、わずかな影すら見えなかった。
眼に見えない冷たい水が頬を撫で、鼻から口から身体の中を浸食する。その息苦しさに二人の男は顔をしかめたが、少女は一人、元気だった。
「……二人とも、まだ戻らないのですか?」
顔を洗って髪を梳かし、あっという間に身支度を整えたカイルが小首を傾げて二人に尋ねた。手にした袋を漁っていた騎士と護衛士は、顔を見合わせ曖昧に頷く。
「……あのな、チビ。男はな、準備に時間がかかんだよ」
「ああ、先に戻っててくれ」
どうやら彼ら二人には、これから何かがあるらしい。今度は反対側に首を傾け、不可解なものを見るように瞳を瞬かせながらも、カイルはわかりましたと素直に応じ、小屋の方へと戻っていった。
「君は……必要ないんじゃないのか?」
「なんつーか。これは今まで暇がなかっただけのことでして……」
「アクサライなら、そのままの方が目立たんだろうに」
「……そりゃ、そうなんすけどね?」
二人は念入りに、伸びた髭を剃っていた。
ラウルの眼と髪の色では誤魔化しようもないが、ザックなら、服を替えればアクサライ人らしくはなる。アクサライの男性は成人すると髭を立てる習慣があるから、伸ばした方が現地で馴染み易いだろう。そう言うラウルの意見はもっともだ。だがそれでもザックはしょりしょりと、耳から顎の下にかけては特に丁寧に手を入れて、濁った鏡を眺めながら髭を剃った。昨夜おじさん呼ばわりされたことが、余程堪えているらしい。子供の言うことにいちいち目くじらを立てても仕方が無い、そうは思っても笑って流せない辺り、まだまだ嘴の黄色い男のようだ。
ラウルは手早く後始末をすると、声をかけてその場を離れた。あぁ、とかくそ、とか言っている騎士は、まだ時間がかかりそうだったのだ。
冷たい霧をかき分けながら小屋の近くまでくると、傍で黒い影が動いていた。警戒しながら近づくと、それは小柄な人影で──カイルだ。
一度構えて剣を振り、足を捌いて切り返す。形を変えて払って引いて、どうやら稽古をしているらしい。
剣を扱うそのさまは、まるで舞うように優雅だった。どこかで見たことがある、そう感じたのも道理、それは剣を持ったときに初めて行う訓練の、その一連の動きだった。大人も子供も剣を扱う者なら必ず行う準備運動で、通常両手で持って行うそれを、少女は右手一本でこなしている。
身体の隅々まで神経の行き届いた、重心のぶれない綺麗な動き。「腕には自信がある」というだけのことはある。
なるほどこれは──
「……中々に筋がいい」
ぎょっとして声のした方に目をやると、隣で壮年の男が腕を組み、じっとカイルの動きを追っていた。いつの間にやってきたのか男はこの砦の長で、夕べは率先してラウルを足止めしていた。まったく気配を感じなかったのは、伊達に砦長などしていないということだろう。だがそれにしても。
──あんたが監督するのはこっちじゃない。
はっきりとこう言ってしまえれば、どんなにすっきりすることか。だが公的権力に無駄に歯向かうのは得策ではない。ラウルはむっと押し黙った。
「ふむ。お父さん、どうでしょう。お子さんを帝国に預けてみませんか?」
「…………俺の子では、ないのだが……」
「まあ、そう言いたくなる気持ちもわかります。お父さんはまだお若い。ですが子供の成長とは早いものでして……」
何を言っているのか、さっぱりわからなかった。ここの連中はどうしてこう、勝手に思い込みで話を進めるのだ。
冗談でなく頭痛がしてきて、ラウルは額に手を当てた。
「おっ、面白そうなことしてんじゃねぇの」
雲の中を泳ぐようにして、ザックが戻ってきた。ラウルと隊長と、その向こうの人影を見ると、舌舐りして腕をまくる。
「よーし、チビ。俺が相手になってやる」
「嫌です!」
即答だった。
呆気にとられ、動きを止めたその一瞬の隙をつき、カイルはとっとと逃げ出した。
「あっ、逃げんな、チビ!」
「だってザックさん、本気でやるつもりでしょう?」
「ったりめぇだ! じゃなきゃ訓練にならんだろ」
小屋の裏手にカイルは逃げ、ザックもそれを追いながら、二人は大声で言い合った。
「本気でなんて、そんなの、嫌です!」
「なんでだよ!」
「だって、剣に傷がつくじゃないですか!」
「……はあ?」
ついに小屋を一周したカイルがラウルの傍に寄ってきて、盾にした。ここで敵を迎え撃とうと、そういう魂胆らしい。ザックは呆れ、両手を腰に当てて顎を突き出しカイルをねめつける。
「じゃあおまえ、なんで剣なんか……持ってんの?」
「これは、お守りです!」
「……言い切ったなー……」
くしゃとザックは頭を掻いた。
そんなことは当然だ、と言わんばかりのカイルはラウルの背に両手を当てて、そこからひょこりと顔を出す。可愛らしく尖らせた唇がフードの奥からちらりと覗き、その様子に大人達は苦笑するしかない。剣を傷つけたくないと言ってはいても、人に向けるのが怖いのだろう。鍛錬とはいえ下手をすれば怪我をする。「手合わせ」は、ひとりで剣を振ることとは違うのだ。
けれどもそれでいいと、ラウルは思う。この子はまだ子供で、しかも女性だ。他人を傷つける方法など、知って欲しくないし、知らなくて良い。
ラウルは、胸の前にカイルを引き寄せた。
「そういうわけで、どうやらコレには向かないようです」
「うーむ……居てくれるだけでいいのだが」
「一体、何をさせたいので?」
「……此処には潤いが足りんのだ」
やはり目的は、それか。
湿気なら、じゅうぶん過ぎるほどありますよ? とまた妙なことを言い出した口を塞ぎ、ラウルはやけっぱちな案を出した。
「……猫でも飼ったらどうですか」
「うむ。猫はな……触らせてくれんのだ」
「……構いすぎでしょう」
やはりそうだろうかと呟いた砦長に、そうですと、ラウルはきっぱりと断言した。
(たかが一介の護衛士が、なぜ『砦内の癒し』について世話を焼かなければならんのだ)
ラウルのそのもっともな疑問に、律儀に相手をするからだ、と教えてやる親切な者は誰もいなかったのだった。