エピローグ・4
アケビ、サルナシ、セリ、ユリネ。春のようにはいかないが、そこそこの収穫だ。
朝靄のたなびく中、老人と少女は森に分け入り山菜を採っていた。
そもそも最初の目的は、できるだけ早く出発したいという少女の願いから始まった。
カユテの村までは徒歩で半日。せめてそれだけ歩けないなら、ここから出すわけにはいかない。そう言った老人に、少女は大丈夫、と大見得を切ったのだ。ならば歩いてみせろ、と挑発すると少女は真剣な顔でこう返した。
「ただ歩くだけでは面白くありません」
そして籠を持ち、なぜか二人で山菜を採っていた。
湧水の池から流れる小川に沿って、老人はことさらゆっくりと歩を進める。少女は老人の膝を気遣いながら、周囲をくるくると動いて食べられそうな山菜を採ってきた。生で食べられるものはその場で齧りながら、二人は歩く。試験というよりも、それはまさしく散策だった。
百合を引き抜き球根を掘り返す少女の様子に、老人は顔をほころばせる。
驚くべき回復力だった。昨日はまだ足どりが覚束なかったのに、たった一晩で、これだ。この分なら、たとえ止めても飛び出していってしまうだろう。
(その前に、できる限りのことを)
目を細め、顎髭を撫でながら見守る老人の元へ、少女がユリネを持って来た。
小川で軽く洗われたそれは、丸々と良く太ってとても旨そうだ。今晩はこれを使ったスープにしようか。そんなことを考えながら手にした籠に入れていると、「あ」と言葉を残して少女が薮の中に分け入った。
どうした、と声をあげかけた老人に、少女は振り向くと人差し指を口に当てて「しっ」と言う。思わず口を噤んだ老人に、にこりと笑みを浮かべて頷くと、少女は腰を落として薮の奥に姿を消してしまった。いったい何をしているのか、老人が奥を覗こうとしたとき、げっ、とひしゃげた短い声が耳に届いた。
(もしや、狼でも……)
少女の声ではないが、少女の向かった先から聞こえたその声に、無性に不安になってくる。後を追おうと薮に一歩踏み出したとき、弾けるような声がした。
「おじいさまっ! 見て!」
獲れた、と頬を上気させて戻ってきた少女の右手には、雉の足が握られていた。気絶しているのか、頭と翼を下に垂らして雉はぐったりとしている。
まさか、と眼を丸くした老人に、少女は胸を張って獲物を掲げてみせた。
「立派な雉でしょう? 今日のご飯にと思って」
ユリネと同じくこれも丸々と太った、大きな雄の雉だった。
罠も弓矢も無しにどうやって獲ったのかと聞けば、石を投げたのだと少女は言う。
「石……?」
老人は吹き出した。
まさか、そんな方法で雉を獲るとも獲れるとも思わなかった。
腹を抱えて笑う老人と一緒になって、少女も笑う。
昨日とは別の意味で、二人は涙を流したのだった。
その日の夜は、久しぶりの豪華な食事になった。
もちろん老人の作る料理であるから、街の食堂のようにはいかない。だが塩をふって焼いただけの雉肉は、それだけでも頬が落ちそうになるほど美味であった。セリとユリネのスープも、トリガラの出汁と秘蔵のチーズを加えたおかげで濃厚な味わいになっていた。コクのあるスープの中に、ほろりと甘いユリネと歯ごたえのあるセリ。何とも絶妙な味わいに、二人は何度も椀を空けた。
食後にサルナシを食べて茶を飲んで、満足げな吐息を漏らした少女を誘って外に出る。
山と森に遮られて満天の、とはいかないが、樹々の間から覗く夜空では、輝く砂を撒いたように星が瞬いていた。老人は星の読み方を少女に教え、少女もよく話を聞いた。
そして時折視界を横切る流れ星が、二人を存分に楽しませてくれたのだった。
◇ ◇
「おじいさま、これは……?」
「使わないに越したことはないが、念のためだ」
手渡された黒剣に、少女は眼を見開いた。
それは老人がこの山奥に移り住んで間もないころ、森で見つけた不可解な金属から削りだした二振りの剣だった。これはもともと長い板のような金属が折れたものだが、鋼を溶かす炉にくべても曇りもせず、鎚で叩いてもヒビひとつ入らなかった。
鍛治師が剣にできない「金物」などあってたまるか、と石とも金属ともつかないこの板を、老人は半ば意地で研いだのだ。結局磨き上げたところで気力と情熱が尽きてしまい、柄にも鞘にも装飾はしなかった。ただ刃だけは極上の出来だったため、長く鍛冶場に置かれていたのだ。
少女は剣を使えると言った。
ならばこの黒剣は身を守り、旅の助けとなるだろう。
それにこの双剣は、もともとひとつだったのだ。同じ金属から削りだされた剣ならば、互いに引き合い、助け合ってくれるのではないか。
──なんと自分勝手で我侭な、都合の良い願いだろう。しかも、ただの剣にこんなことを望むなど、かつての自分なら鼻で笑ったところだ。
だが老人は、そう願わずにはいられなかった。
「村に着いたらまず武器屋に行け。なに、店はここからだと最初に見える家だからすぐわかる。そしてそこの親父に『ランドルから』だと言って、剣と手紙を渡してくれ。それで旅に必要なものはすべて揃うはずだ。いいな? ……カイル」
その名を口に乗せてしまえば、二人の間に壁ができてしまうような気がした。それでこの時まで老人は、少女の新しい「名」を呼べなかった。
そして恐る恐る、窺うように見上げてくる黒い瞳も心細げに揺れていた。
──ああ、この子にとっても同じだったのか。
老人の目尻に深い皺が刻まれ、知らず口元が緩んでしまう。
「ランドルさま……これからも『おじいさま』とお呼びしても構いませんか?」
「勿論だとも。儂のことはそんなふうにで呼ばんでくれ。それはずっと昔に捨てた名だ」
「はい。……お世話になりました。ありがとうございます……」
最後は消え入るような声になったが、少女は深く頭を下げた。
少女はしばらくそのままじっとして、それから勢いをつけて身を起こした。
生気に満ちた漆黒の瞳。
そこからは、不安も戸惑いの色も消えていた。
「それでは、おじいさま……行ってきます」
一度だけ振り返って、少女は森の奥に消えていった。
腰に一振りの剣を挿し、背に対の剣をくくりつけたその足取りに、もはや迷いはみられない。
そのしっかりとした歩みに安堵しながらも、老人は胸に手を当て祈りを捧げる。
神に祈ったことなどなかったが、この時ばかりは縋らずにはおれなかった。
──どうか、無事で。
少女が星から零れ落ちてわずか10日。
目を覚ましてからはほんの数日。たったそれだけで、慌ただしく小鳥は飛んでいってしまった。
老人は、雲一つない蒼い空を見上げてひっそり呟く。
「遮る物のない空で、心が望むまま存分に羽ばたいておいで。そして疲れたら、またここに──」
それは飛べなくなった老人の、心からの願いだった。