エピローグ・3
ここ数日の天気は快晴。森の中では賑やかに鳥が歌い、心地良い風がそよいでいる。
木漏れ日に目を細めながら、小屋の外、南側の木陰に向かって少女がそろそろと歩いていた。
だぶついた上衣に胸の下で絞って肩から吊った下履き。その上に長めの胴衣を纏った姿はいかにも珍妙だ。街中で会ったら、振り返ってまじまじと見てしまうような出で立ちだった。
だがそれを少女はまったく気にしていなかった。それどころか、どこか誇らしげな笑みさえ浮かべている。まだ思うようには動かない足で一歩一歩を踏みしめながら、少女は老人の元に向かっていた。
星から零れたときに少女が着ていたのは寝間着のような簡素なつなぎで、とても外で着れるようなものではなかった。これまでは洗って乾かしながらその服を着せていたが、動けるようになった今、それで済ませるわけにはいかなかった。
とりあえず急場を凌げるようにと手持ちの服を少女に合わせ、そして老人は途方に暮れた。
一番小さい服を持ってきたのに、上着の丈は少女の膝を覆い、首周りからは肩が抜けてしまう。胴回り、袖丈などもはや論外だ。
繕い物や裾上げはできても、本格的な裁縫など老人は経験したこともない。どうすれば、と頭を抱えた老人に、意外にも少女が知恵を出した。
「背と前身頃の中心を詰めれば、肩は落ちないのではないでしょうか」
後は丈を詰めればいいとの提案に、老人は一も二もなく頷いた。
自分で縫えます、そう言った少女の腕は確かだった。縫い目は揃い、手も早い。ただまだ身体が辛いようで、休み休みの作業ではあった。それでも2日目には下履きもできあがり、なんとか外に出られるようになったのだ。
老人も、少女の隣で靴を作った。所詮は素人、出来上がりはどうにも不格好だったが、それでも少女は嬉しそうだった。
「できたて」の靴と服を身につけて、少女は老人の元にゆっくりと歩み寄る。丸太を削る老人のそばに腰を下ろすと、そっと声をかけた。
「おじいさま?」
「うん?」
「『カイル』と言うのはどうでしょう?」
それは誰だ、と問いただしそうになって、老人は息を呑んだ。
それは、名前。
名乗れない、と言った少女が考えた、新しい名に他ならなかった。
「わたしはいま、名乗る資格がありません」
名を尋ねた時に、少女はそう答えた。
なぜ、と問えば「すべて預けてしまったから」だと言う。本名を名乗るだけの「力」がない、と。支払ったという「代償」のことを言っているのか、それを訊いても少女は曖昧に微笑むばかりで返事はなかった。
だが恐らく「そう」なのだろうと予想はできた。あの銀の瞳はあれきり一度も目にすることがなかったからだ。
少女の名を知らなくても、老人はそれでかまわなかった。
この小屋にはたった二人しかいない。「嬢ちゃん」「おじいさま」。互いを呼ぶのはそれだけで、すべてが事足りるのだ。だからあえて、老人は名前に拘らなかった。
その少女が、名を決めようとしている。
それは、つまり──
(飛び立つのは……まだ早い)
老人は拳を握りしめた。
歩けるようになったとはいえ、小屋から池まで往復するのに少女は息を上げている。これではカユテの村まで辿り着くことさえ無理だろう。傷もまだ、痛むはずだ。
「……それは男の名だろう? もう少し、可愛らしくても」
「でも……髪はこんなですし。いっそ男として通した方が良いと思うのです」
頬にかかった黒髪を、少女は一房つまんでみせた。
顔の両脇こそ顎より下まで長さがあるが、少女の髪はうなじのあたりでばっさりと切られている。
通常、女性の髪は長く伸ばして結い上げるものだ。短い髪は女性にとってそれだけでも辱めになるというのに、少女は嘆いたりはしなかった。
「自分で切ったのですから、仕方ありません」
自分で、とは言ってもそれは逃げるためだ。
決して望んでいたわけではないだろう。なのに少女は「頭が軽くなりました」と屈託なく笑う。
見苦しくないようにと少女の髪を整えた時は、それこそ胸がはち切れそうだった。できるだけ長く残そうとしたのだが、頭の後ろはどうにもならず、うなじが露になってしまった。
男物の服を纏った短髪の子供。確かにこれでは「少女」というより「少年」と言ったほうが違和感はない。そしてより安全に旅をするなら「男」のほうが都合がいい。少女の言い分は正しかった。
老人は立ち上がると少女に向き直った。
だぶついた服が身体の線を隠しているが、揃えた膝に手を置きじっと老人を見上げる姿はやはり女性のものだ。一見すると少年のようでも、見るものが見ればすぐ女と知れるだろう。
日焼けを知らない白い肌、襟元から覗く首も手首もか細く華奢で、掴んだら折れそうだ。
これでは街中の少年とも言い難い。これはどう見ても上流階級の子供で、たとえ女と知れなくても一人で歩いて無事に済むとは思えなかった。
「……おいで」
老人は少女を連れて池に向かった。
幾分肩を落として歩く老人の後ろを、少女はわずかに広げた両手でバランスを取りながらついてくる。
歩けるが、その足どりはまだ覚束ない。
(やはり……まだ早い)
ずっとここに、とは言わない。だが旅立つのは靴と服を誂えてからでも遅くはないだろう。
せめて、それだけでも待って欲しかった。
◇ ◇
鍛冶場のそばの、池を一望できる場所で腰を下ろすと少女もそれに従った。
「……怪我の具合はどうだ?」
「はい。だいぶ良くなりました。もう歩いても痛みません」
池を眺めながらぽつりと呟く老人の言葉に、少女も同じように池を見つめてそれに答える。
「だが、その左腕の傷は……」
「これは、このままです。これ以上は多分……治らない」
左腕に手を当て、少女は傷に視線を移した。
服に隠れ、布が巻かれて見えないが、押さえた右手の下には傷があった。ちょうど肘と手首の中間あたりにある、貫通した黒い傷。
他の傷より治りが遅いと感じてはいた。だが治らない怪我などないはずだ。
「治らない……? そんな、馬鹿な」
「そういう傷なのです、これは。……呪い……だから」
少女の言うことが、老人は理解できなかった。
ノロイ? それは何だ。
なぜ、そんなものがある?
どうして、この子がそんな怪我をしているのだ。
厳しい顔になった老人に少女はふわりと微笑んで、池の左を指差した。
「わたしが落ちたのは、あの辺りですか?」
「……ああ、あの岩の上だ、見えるか? 折れた木があるだろう?」
「──はい」
「あそこから落ちた。……なのに怪我もせず、よく、無事で……」
目を細めた老人の肩に、少女がことりともたれかかった。肩を抱くと、少女は猫が懐くように喉を鳴らして身を寄せる。
「おじいさま、わたし、幸せです」
──幸せなものか。
突然襲われ瀕死の重傷を負って。そのうえ「呪い」などという癒えない傷まで負わされて。これのどこが「幸せ」なのだ。
小さな肩を抱く無骨な手に、少女の白い指が触れた。つい力が入ってしまったかと外そうとしたが、少女はそれを押しとどめた。
「あの人は、ただ『あそこ』から逃げたくて『転送陣』を動かしました。サリフリまで行けるとは、最初から思っていなかったのです」
老人は、何も言えずに口を噤んだ。
魚だろうか、時折いくつかの波紋を広げる水面を見つめながら、少女は静かに言葉を紡ぐ。
「だからここに来たのも偶然で。……おじいさまに見つけてもらえなかったら、わたしは今ここに、こうしていませんでした」
だからわたしは運が良い。そう言った少女の言葉は、心からのものだった。
しかしそうではないと、老人は思う。
綺麗なドレスに可愛い靴、甘いお菓子に色とりどりの花々。少女ぐらいの年頃だったら、こういったものに憧れるはずだ。まるでそれらを知らないとでもいうようなこの小鳥が、酷く不憫でならなかった。
言葉もなく首を振る老人の皺だらけの手を、少女は強く握りしめた。
「……もうひとり、いるのです。こんなふうに呪われてしまった、可哀想な子が。その子はとても苦しんでいました。そしてあの人は約束したのです。『必ず助けるから、待っていて』って……」
目を見開いた老人に、少女は顔を歪めながらも微笑んだ。
「わたしもその子を助けたい。──あの人のように、なにもしないで後悔するのは、嫌」
家族も無く家にも帰れない。ならばここにいれば良い、老人はそう言ったが、少女はそれはできない、と繰り返すばかりだった。
あの銀の瞳、支払ったという「代償」、口にできない「名前」──
襲われたという理由も「そこ」にあるとしか思えなかった。
だが少女は今や、ただの子供だ。
なのになぜ、この子ばかりが苦労しなくてはならない。
酷い怪我をした。髪も切ってまともな服もない。自分の物は本当に何一つ持っていない。だというのに、もう一人の呪われた子のために少女は行くという。サリフリに呪いを解く「きっかけ」があるはずだからと。
老人は少女を抱きしめた。
まるで言葉を忘れたかのように「なぜ」としか出てこなかった。
「泣かないで」と少女は老人の背に手を回す。
「この傷が、わたしは愛しい。これはあの子とわたしを繋げてくれましたし……おじいさまとも引き合わせてくれましたから」
少女の声にも涙が滲んでいた。
もう泣かないって言ったのに。ごめんなさい。
小さな声が胸元から響いてきた。
老人は、小刻みに震える少女の身体を、ただ抱きしめることしかできなかった。