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運命の環は巡る  作者: らみ
北方公路
25/59

エピローグ・2

 


 目を覚ましてからというもの、少女はめざましい回復をみせた。

 食べて寝て、起きる度に少女は腹が減ったと訴えた。目覚めたその日は流石に白湯(さゆ)以外与えなかったが、翌日の朝、その潤んだ黒い瞳に負け、老人はつい、自分用の汁の椀を渡してしまった。

 重湯(おもゆ)に加えて具入りのスープでは、病み上がりの身体に負担にしかならない。我に返って青くなった老人を不思議そうに眺めながら、少女は平気な顔で中身を全部食べ切って、お替わりまで要求した。

 腹は痛くならないか、熱が出たりしないかと、老人は身がすり減る思いで少女に付き添った。そしてその後、具合が悪くなるどころかますます快方に向かった少女に、老人はやっと安堵することができたのだ。

 少なくとも4日は水すら口にしなかった人間が、すぐにこんなに食べられるものだろうか。そう首をひねるほど、少女は食べた。そしてつい先日までの人形のような姿が嘘のように、瑞々しい生気にあふれていった。


 少女は無邪気に笑い、つられて老人の頬も緩む。

 強ばった顔もいつしか(ほど)け、老人は自然と笑えるようになっていた。


 危うい均衡の中、二人は笑みを交わす。

「あのとき」のことには触れない、それが暗黙の了解になっていた。



 ◇  ◇



「ありがとうございます」と微笑みながら眠りについた少女は、森全体が夕日の朱に染まるころ、再び目覚めた。

 吸い込まれるような深い闇色の瞳に呼ばれ、老人は少女の元に駆けつけ白湯を含ませる。

 老人の胸にもたれかかり、咽せないようにゆっくりと時間をかけて喉を潤した少女は、何度か声を出す練習をした。それから何かを訴えるように、力の入らない手で老人の腕を掻く。掠れる声で「お話が」と、精一杯身体を反らせて顔を見ようとする少女に、老人は一度身を離した。

 まだ横になっていた方がいい、そう諌めても首を横に振るばかりの少女に、老人は折れた。背にあるだけの布団を詰め、寄りかかれるようにして身を起こしてやると、少女はまた、ありがとうございます、と呟いた。

 寝台の横に置いた椅子に腰掛け、老人は少女に話しかける。


「一体、どうしたね?」

「……ここは、どこでしょうか」

「……トゥルネイ山だ。帝国側のな」


 この分ならもう、身体は大丈夫だろう。弱々しいが朝よりは随分しっかりした少女の声に、老人はほっと胸を撫で下ろした。

 それでも「どこ」という言葉に心が痛む。それはあえて考えないようにしてきたことだ。この傷ついた小鳥は、この場所に望んで来たわけではないのではないか。そんな不安に身体の奥がざわめきだした。

 アルトローラの、と口の中で小さく呟いて、少女は首を傾けた。


「では……わたしは、国境を越えられなかったのですね」

「……国境?」

「はい。サリフリへ……わたしは、サリフリへ行かなければなりませんから」

「サリフリ……アクサライの、か?」


 ああ、やはり。ここに来たのは間違いだったのか。老人の胸はつきんと痛んだ。だがなぜサリフリなのだ、と訊けば、少女ははっとしたように黒い瞳を見開いた。


「……どうして? わからない……どうして、わたしはサリフリに行きたいの?」



 ◇  ◇



「なにか、なにかに引かれました。あれは絡み付いて離れなくて。それでサラを逃がして、それが精一杯で」


「あの時」のことを思い出そうと、少女は必死になっていた。

 老人は何度も止めるよう言った。まだ目覚めたばかりでまともに身体も起こせないのに、無理をするなと。だが少女はやめなかった。とても大事なことだから早くしなければと、苦しみながらそう言った。


 どうやら少女は「何か」に襲われたようだった。

 微睡んでいたところを強引に連れ去られ、その時にあの怪我を負ったらしい。誰に襲われたのか、何があったのか、しかし少女は覚えていなかった。ただ逃げなければとその一心で、「転送陣」とやらを動かしたのだという。


「わたしは代償を払いました。あそこにあった陣は不完全で、とても使えるようなものではありませんでしたから。──それに」


 ぎらぎらと、その黒い瞳に狂気にも似た光を宿し、少女はひたすら記憶を探る。恐怖を押さえ、痛みをこらえ、事実だけを抜き出して、そこから答えを得ようと悶えている。

 背に当てた布団に沈み、なのに目は中を睨みつけ、まだ思うように動かない身体からは鬼気迫る執念が感じられた。


「『転送』という魔術はありません。人は、空間を越えられないのです。でも『あれ』は違いました。……空間を越えて、わたしを引いたのです。──どうして? どうすればそんなことができるの?」


 老人は魔術のことはさっぱりわからないが、どうやらあの「星」のような魔術は存在しないらしい。そして存在しない物を無理に動かしたため、少女は「代償」とやらを支払ったようだ。


「『あそこ』に行けば、答えが得られるのでしょうか。……ならば行って、確かめなければ……ああ、駄目。わたしは、サリフリへ行くのです。……約束……そう、約束したのに」


 少女は酷く混乱していた。

 相反することを同時に口にして、そのことに取り乱す。

 その矛盾を少女も理解しているようで、それは目覚めたばかりの身体には大きな負担となってしまった。

 ふつりと糸が切れたように、少女の身体から力が抜けた。荒い息をついて目を閉じた小さな身体を、老人はそっと抱きしめる。


「もういい。……もう、お休み。今の嬢ちゃんには、休息が必要だ」


 ゆっくりと、老人は少女の背中を撫でさする。

 少女も徐々に落ち着きを取り戻し、やがて深く規則正しい呼吸が聞こえてきた。

 もう休ませなければ。

 寝台に少女の身体をそっと横たえ、老人は古びた掛布に手を伸ばす。布を引き上げ少女の首元に辿り着いたとき、節ばった老人の手に、白い手が重ねられた。

 ぎょっと身を引いた拍子に、たおやかな手はほとりと落ちた。だが老人に、その手の行方は見えていない。息を詰め、じり、と老人は一歩後退った。


 銀に輝く瞳が、ひたと老人を見つめていた。

 夕べはあれほど美しいと感じた瞳が、今はこの上もなく恐ろしい。

 なにもかもが見透かされているようで、醜い心の奥底を暴かれまいと老人はまた一歩、無意識に後退した。


「聡き方……」


 天上の鈴を転がしたような声がした。

 声の主は、間違いなく少女だ。老人が横たえたそのままの姿で、顔だけをこちらに向けている。


「賢き方……どうか、わたくしの願いを聞いてください」


 老人は動けなかった。淡く輝く銀の瞳に絡めとられ、ただ声もなくその瞳に魅入っていた。

 涙を浮かべ、静かに密やかに、銀の少女は言葉を紡ぐ。


「この子が為そうとしていること。それは本来ならば、わたくしがすべきことなのです。……全ての咎は、わたくしに。けれど、わたくしは……扉を開く代償として、差し出してしまいました。わたくしの時間はもう、残されていないのです」


 やがて銀の瞳から涙が溢れ、頬を伝い雫となって零れ落ちた。


「今のわたくしは、ただ記憶を持つだけの愚かな子供。遥か彼方の思い出だけをよすがにして、荒ぶる海を漂う小さな木の葉。賢き方、どうかわたくしを導いてください。どうか……」


 こぼれた涙を拭いもせず、銀の少女はただひたすらに祈りを捧げる。


「本質は、変わりません。この子は、わたくし。何も知らなかった頃の、わたくしです。……どうか、どうかお願いです」


 この子を導いて──

 その言葉を残し、銀の瞳は消えていった。

 淡い輝きは徐々に薄れ、瞳は色を取り戻し、やがて漆黒に置き換わる。

 闇色の瞳がやがて目蓋の向こうに隠れた時、老人はがくりと膝をついていた。

 どうしようもなく身体が震えて止まらない。なんとか震えを押さえ込もうと、老人は両腕を身体に回して蹲った。

 怖かった。すべてお見通しだと、そう言われた気がした。

 けれど首をもたげるいびつな想いを、どうしても押さえきれない。

 どうすれば、どうすれば、と呟きながら、やがて老人の視界も深い闇に沈んでいった。



 ◇  ◇



 どさり、となにかが落ちて、ごつん、とぶつかる鈍い音がした。

 小さなうめき声と、なにかを引き摺るような、衣擦れ。


(──ああ、これは痛い)


 うっすらと目を開けて、老人は目の前の床に積もった埃を眺めていた。

 そういえば、しばらく掃除をしていない。

 少女の具合が良いようなら、今日は外に連れて行こう。そしてその間に掃除を……


「おじいさまっ!」


 切羽詰まったその声に、老人は咄嗟に跳ね起きた。

 寝台のすぐ下で、少女がもがきながら手を伸ばしていた。

 まだ力が入らないだろう手足を全部使って、少女は必死に老人の元へ這い寄ろうとしていた。


「おじいさま……っ」


 慌てて胸の中に抱き寄せると、少女は大粒の涙をあふれさせた。


「行かないで……あの人のところに行っては嫌!」


 老人の胸で少女は叫ぶ。


「あの人は、狡い! 自ら望んで差し出したのに、今を無くしたくないと足掻いて! わたしはただ『知って』いるだけなのに。あの人は生きている兄と会って、話して、触れているのに!」


 そのうえおじいさままで連れて行こうとした、そう言って、少女は大声で泣いた。

 その嘆きは深かった。

 兄に死なれ、ずっと一緒だったという「サラ」とも引き離された。自分はなにも持っていないのに、あの人が全部持っていったと泣きわめく。

 涙を隠そうともせずしゃくり上げるその姿は、幼い子供そのものだった。


(──確かに、子供だ)


 どこにも行かない、大丈夫だと少女を抱きしめ宥めながら、老人はあのときの言葉を噛み締めた。

 どこか後ろめたい欲望が、また大きくなってくる。

 この少女が「子供」というなら……

 それならば。

 子供には、庇護が必要だ。

 しかもこの少女は襲われたという。

 危険に満ちた下界になど、帰せるものか。

 だが、ここなら安全だ。こんな場所に少女がいると、いったい誰が思うだろう。


 偶然飛び込んできた、傷ついた可愛い小鳥。

 今は手放せない。手放したくない。

 ──わかっているのだ。

 少女はまだ若い。

 いずれ巣立ってゆくだろう。

 だがそれまでの間、怪我が治るまでで良い。この飛べない老鳥の翼の中で、羽を休めてくれないだろうか。


「もう泣くのは終わりだ。ほら、こんなに目を赤くしてしまって」


 埃の積もった床を這ったため、少女も汚れてしまっていた。特に顔など涙の跡が埃でまだらになって、無惨なことになっている。折角の美しい顔が、これでは台無しだ。それに前髪を掻き上げれば額が赤く腫れていて、これもまた痛そうだった。

 老人はまだ動けない少女を横抱きにして、膝の上に乗せた。


「嬢ちゃんが泣くと、儂も悲しくなってしまう。……儂を泣かせたいか?」


 んん? と顔を覗き込めば、少女はいいえ、と首を振った。


「おじいさまが悲しむのは嫌です。……もう、泣きません」

「それがいい。本当に悲しいときは、泣くもんだ。でも悲しいのが流れていったら、笑っておいで」


 抱きしめた少女の身体は暖かく、そして柔らかかった。

 失った大切なものが不意に戻ってきたような、そんな気がしてならなかった。

 大切な大切な、宝物。

 今度こそ失うまい。


「さ、そのおでこと目を冷やしておきなさい。今朝はなにか口にできそうか? 重湯を少し、試してみるか?」


 少女を椅子に座らせて、水を含ませた布を額に当てる。

 目覚めてから一晩で、少女は見違えるように元気になった。

 軽いものなら手に持つことができるし、身体を起こして息を荒げることもない。

 この分ならすぐに歩けるようになるだろう。

 歩けるようになったなら、この森を案内しよう。間近で観るトゥルネイ山は雄大で、夕日を浴びて輝くさまは、涙が出るほど美しい。鳥も人を怖がらないから、手ずから餌を与えることができる。

 きっと少女は喜ぶだろう。

 その笑顔を想うだけで、心が踊る。


 小さな器にいれた重湯と匙を、少女に渡す。

 老人の分は、茹でた芋と具のたっぷり入ったスープだ。

 見惚れるような優雅な仕草で重湯を平らげ、じっと老人を見つめると、()()も食べたいと少女は強請(ねだ)った。

 急に食べては身体に障る。

 そう言って老人は断った。

 だが目の縁を赤く染め、黒い瞳を潤ませての「お願い」に負け、老人は自分のスープを手渡してしまったのだった。

 結局老人の心配は杞憂に終わったが、そうとわかるまでは生きた心地がしなかった。かつては「鬼」と呼ばれた自分に、こんなにも甘い部分があったとは驚きだ。

 身体にまだ暖かい血が通っていたことが嬉しかった。

 少女が元気になれば、これからますます楽しくなるだろう。





 眠る少女を見つめながら、老人は想いを馳せる。

 次に武器屋が訪ねてきたら、女物の服を一揃い注文しよう。

 あの小さな足に合う靴も必要だ。

 どれも大急ぎで作らせなければ。この辺境でどれだけのものが揃うかわからないが、なるべく可愛らしいものを。レース、リボン、他になにがある?

 そうだ、帽子が欲しい。手袋と、耳当て、襟巻きも。これから日に日に寒くなる。この場所には雪こそあまり降らないが、冬はとても冷え込むのだから。

 小屋にもうひとつ部屋を作ろう。年頃の女の子がこんな爺と常に一緒では、息が詰まってしまう。寝台、机、椅子、棚。はたして少女が好むような物が作れるだろうか──


 老人は、強く目を閉じ拳を握りしめた。

 わかっている。

 自分が何をしているのか、老人は十分に理解していた。

 これは代償だ。

 あのとき亡くした孫娘を、いまこの少女に重ねているだけだ。

 少女がいるのはほんのつかの間。

 怪我が癒えればすぐ飛び去ってしまう、少女は自由な小鳥。

 だがそれでも構わなかった。

 ほんのいっとき、幸せな夢が見たい。

「これから」を思って弾む心を、老人は押さえることができなかった。



 

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