エピローグ・1
がくり、と頭が落ちかけて、老人ははっと眼を覚ました。椅子に座ったまま、ついうたた寝をしてしまったようだ。
寝ている間にもしやと期待を込めて寝台を窺うが、何も変化は見られなかった。今度は少し不安になって、ぴくりとも動かない青白い顔に、そっと耳を近づけた。
頬にかすかな息が当たり、ほんのわずか髭が揺れる。
──生きている。
ほう、と安堵の息を漏らし、老人はまた古い椅子に腰掛ける。
ここ数日、暇さえあればこうして寝台の前で過ごすのが老人の日課になっていた。
星から転がり落ちてきたのは美しい少女だった。
「少女」というのは適当でないかもしれない。細くて軽いが身長はそれなりにあったし、女性らしく丸みを帯びた体つきもしていた。
だが長い睫毛の影を頬に落とし、こんこんと眠り続けるその姿は「女性」というよりも「少女」といったほうがしっくりくる。
びしょ濡れの泥まみれになりながら池から引き上げて、4日経つ。
少女は未だ、一度も眼を覚ましていなかった。
◇ ◇
濡れた綿を少女の唇にそっと当てる。
ひび割れかさついた唇が、水を含んでその一瞬だけ艶を増した。
意識がない身体にせめて水分だけでも摂らせようとこのような方法を試したが、はたしてこれだけで良いものか、老人には判断がつかなかった。
(他人に関わるつもりはなかったが……)
突如として現れたこの少女が何者なのか、わからない。けれども未来のある命がむざむざと散りゆくのを許すことは、どうしてもできなかった。
だがここは人里離れた森の奥深く、老人は独りで暮らしており「人」の世界からは隔絶している。一番近い村までも、獣道をかき分け歩いて半日ほど。膝の悪い老人には、少女を運ぶことはおろか助けを呼ぶことすら無理だった。
掛布の中から少女の腕を取り、巻かれた布をそっと外して様子を見る。
(なんと、惨い……)
少女は深い傷を負っていた。
濡れたように美しい黒髪は無惨にも肩の上で刈り取られ、ざんばらになっている。
そのうえ釘を打たれたかのような無数の傷が、膝から下、肘から先に点々と穿たれていた。今でこそ薄く皮が張り、ほのかに肉の色を透かしているだけだが、助けた当初はいつ血が吹き出すかと冷や冷やしたものだ。
怪我は治りかけている。しかしまだ鮮やかに残るその痕跡が、いっそう痛々しく感じられた。
そしてもうひとつ、少女の左腕には不自然な傷があった。
肘の少し先を何かが貫通したようで、同じ痕が内側に抜けている。血は止まっているが傷口は黒く変色し、周辺がうっすらと赤味を帯びていた。だがそこに熱はなく、腫れてもいない。化膿しているようでもなく、ただ墨を落としたかのように、黒く染まっていた。
老人は深く嘆息した。
こんな傷は見たことがなかった。どうすることもできず、消毒だけしてもう一度布を巻く。他の傷も同じように処置をして、元の椅子に座り直した。
そして何度も呼びかける。
「戻っておいで」
くたりと力の抜けた白い手を握り、老人は静かに少女を誘う。
「戻っておいで。──嬢ちゃんの世界は、こちら側だ」
少女は人形のように眠るのみ。
ただ、そこに苦悩の表情が見られないことが、老人の唯一の慰めとなっていた。
◇ ◇
また不意に、老人はぽかりと目が覚めた。
目の前にあるのは、闇。
時刻は夜半を過ぎて、どれだけ経っただろう。室内のどこもかしこも闇に沈み、目蓋を開けても閉じても何も見えないことに変わりはなかった。
なぜ目が覚めたのかと首をひねりながらも、ここ最近の習慣に従い寝台の方に顔を向け、老人は危うく声を上げかけた。
少女が眼を開けていた。
瞬きもせず、ぼんやりと焦点の合わない瞳がじっと天井を見つめている。
色は銀。
闇に慣れた老人の眼には、それは淡く浮き上がっているようにも見えた。
(魔術士──なのか?)
闇の中で瞳が淡く光を放つ、これは魔術士の特性だ。
老人も久しぶりに目にしたが、この光景は確かに奇怪と言えた。
魔術士は数が少なく、彼らに対する理解は低い。ゆえに暗闇で光る眼は恐れられ、忌避された。神の使いとして崇められる一方で、彼らは災いを呼ぶ者として殺されることもあるという。
この少女も「そう」だったのだろうか。
そう考えればあの星も、手足の傷も納得できる。
(人間というのは……どこまで愚かなのか)
他人と異なる世界で生き、眼に見えぬ力を行使する「魔術士」は確かに特異といえる。だがそれは、彼らを傷つける言い訳にはなるまい。宮廷に入り保護を得る代わりに国に尽くすか、そうでなければ日陰者としてひっそりと隠れて暮らすか。そんな二択しか得られない時代はじきに終わると、そう信じていた。そして老人がまだ人の世にいた頃、魔術士たちは少しずつ、人の世に受け入れられていたように思う。
いつかは、と期待し裏切られて10年。まだ不幸な子供が生まれているのだろうか。
少女の頬にそっと手を当て、老人は銀の瞳を覗き込んだ。
淡く光る瞳の中に意思は欠片も見出せない。だがそれでも少女は眼を開けてくれた。そこに回復の兆しが感じられて、じわりと胸が暖かくなってくる。
老人は少女の目蓋に手を乗せ囁いた。
「……まだ起きるには早い。もう少しだけ、休むといい」
嗄れた低い声に従うように、銀の瞳は閉じられた。
胸が上下し、密やかな寝息が聞こえてくる。
もう眠れまい、そう思ったが、深く規則正しい呼吸に誘われ老人はいつの間にか寝入ってしまっていた。
◇ ◇
今度は鳥の声に起こされた。
窓から漏れる光から、とうに陽が昇ったことが知れる。思いもかけず深く眠っていたようで、己のその神経にいささか呆れてしまう。
少女は、と窺うが、こちらもまだ眠っているようだ。昨日までと違って呼気は安定し、顔にも赤味が差してきた。
まだ眼も開けていないのに。そう自分を戒めたのだがどうしても頬が緩んでしまう。「緩む」というよりは「引きつる」とした方が正確だろうか。この地に移り住んでから、老人は笑った記憶がない。そもそも人と会話をすること自体まれであったので、「笑う」ことをすっかり忘れてしまっていた。
たった今気がついたその事実に愕然としたが、それでも目尻に皺を寄せ、眼を糸のように細めがなら老人はゆっくりと少女の髪を梳く。
「もう一度、その綺麗な瞳を見せておくれ」
そう囁くと、少女の口元が微笑んでいるような気がしてくるから不思議だ。身体の奥深くでは、暖かく小さな火が灯ったような気さえする。
どことなくくすぐったいその感触に目を細めると、少女がいつ目覚めても良いように、と老人は準備に取りかかった。
汲みたての水で作った白湯、薄めた果実水、重湯、野菜を柔らかく煮込んだスープ。
小さなテーブルの上は、これだけでもういっぱいになった。流石にスープはやり過ぎか、と思ったものの、とてもじっとなどしていられなかったのだ。
老人は腕を組んでそれらを見下ろし、自嘲する。
他人とかかわり合いになりたくないとあれほど強く願っていたのに、こうしてせっせと少女の世話をする。まだ自分には人を思いやる感情が残っていたのかと、少々不思議な気分になった。
けれどこれも悪くない。
少女が目を覚ます前に、もう少し自然に笑えるようにしなければ。
強ばった頬を揉みほぐしながら少女の方に顔を向けて、老人の心臓は危うく止まりかけた。
夜の闇を写し取ったような瞳と、ぴたりと視線が重なったのだ。
お互い目を丸くして、どれだけ見つめ合っただろうか。
口を開いた少女が不意に咳き込んだ。老人は慌てて小さな身体を起こして背中を撫でる。
少女の身体は力が入らないようで、支えていなければ起きていられなかった。抱き込むようにして老人は胸にもたれさせ、すっかり冷めてしまった白湯を与えた。丸々4日も寝ていたのだからと、時間をかけてゆっくり飲ませ、落ち着いた頃合いを見計らってまた横にする。
もの言いたげな少女にまだ喋らないようにと言い含め、老人はこれまでのことを説明してやった。
星から転がり出てきたこと、池に落ちたこと、そして怪我のこと。
大きな黒い瞳を瞬かせ、ときおり小さく頷きながら少女はじっと話を聞いていた。そして話が終わると、ゆっくりと口を開こうとする。
また咳き込むのでは、と心配した老人にわずかに微笑んで、少女は掠れた声を絞り出した。
「あ、りがとう……ござい……ます」
そう言って弱々しく微笑むと、少女はまたすぐに眠ってしまった。
ほんの一言、会話とも云えないような言葉を交わしただけだ。しかしそれは老人に、驚くべき変化をもたらしたのだった。