夢の道・3
ふわり、と身体が宙に浮き、天地の感覚が曖昧になる。眼を閉じそのまま身を任せていると、指の先から解けていくような、そんな感触が身体中に広がった。意識は身体の枠を越え、どこまでも、どこまでも広がって、やがて白い世界に辿り着く。
見渡す限りの、優しい白。
柔らかな光の満ちたその世界に、ザックはひとり漂っていた。
ふわふわゆらゆらと揺蕩う白一色の世界の向こうに、虹色の雲が見えてくる。
(ハーシュ……?)
そうだ、あれはハーシュだ。年下の上司で、幼い頃からの、親友。
意識を向けると虹はどんどん大きくなり、やがて中に人影が見えてきた。
まっすぐな灰白の髪、文官の長衣を纏ったすらりとした立ち姿。秀麗な顔には薄い水色の瞳、薄い唇。
赤、青、緑、黄、桃、橙、紫……虹、と思ったのは色とりどりの雲のような塊で、ハーシュの周りをゆらりゆらりと、軽いステップを踏むようにして踊っている。
これが、魔術士の見る世界。
「力持たぬ者」が決して知ることのない、力に満ちあふれた、極彩色の世界だ。
いわゆる「魔力」を持つものは、程度の差こそあれ、この色とりどりの世界の中で生きている。そしてこの雲の量と色の濃度は、魔術士──「力持つ者」の力量に比例すると云われていた。そのためハーシュのように強い魔力を持つものは、常にけばけばしい色のついた霧の中で生きていくようなもので、それは日常生活を酷く困難にするものだった。
視力が悪いわけでもないのに目の前の物が見えない。これはどれほど不便なことだろうか。彼の場合はその力が強過ぎたため、比較的早い段階で魔術士としての教育を受けることができた。だがそれでも一般人と同じように生活するために、随分と苦労していたように思う。
さらにはその強大な魔力、天才的な頭脳、そして端正な容姿ゆえ、ハーシュは幼い頃から大人たちの思惑に翻弄されてきた。一時はかなり深刻な人間不信に陥ったものだが、今はこうして立ち直り、国の要職に就くまでに成長した。
なにを為しても「彼は天才だから」と、そう評されることが多いが、ハーシュ・ラスンは決してそれだけの人間ではない。生まれ持った能力に見合った努力を惜しまない人物だと、ザックは良く知っていた。
「ハーシュ!」
ザックが大きく手を振って呼びかけると、水色の瞳がわずかに細められた。「変わりありませんか」と、目元がそう言っている。応えるように、ザックはもう一度、両手を広げて大きく振った。
それを見たハーシュの顎が、わずかに引かれた。これは満足している表情だ。だが疲れているのだろうか、彼の眼の下には隈らしきものも見える。まだ若いからといってあいつは良く無茶をするから、後できっちり釘を刺そう。
「ハーシュ、ハーーーシュ!」
口に手を当てなおも呼びかけると、彼の人はわずかに笑みを浮かべ、両手をほんの少し広げてみせた。動きに合わせて、足首まで覆う白い長衣がふわりと揺れる。衣が揺れるのに呼応するように、虹色の雲もふわりふわりと楽しげに、弧を描いて動き出す。
雲を蹴散らし文字通りハーシュの前に飛び降りて、ザックはまず、極めて重大で重要な案件について相談することにした。
「ハーシュ! なあ、俺の給料って、どーなってんの!?」
「開口一番、なんですか」
水色の瞳が片方だけ歪み、こめかみがひくりと動いた。雲の動きがぴたりと止まり、そっと二人から距離を置く。
「毎年、契約書にサインするんだろ!?」
「……してるじゃあないですか」
ハーシュはこめかみを指で押さえて低く呻いた。
いまさら何を言っているのだ、この男は。
ただでさえ頭の痛くなる案件をいくつも抱えているというのに、夢の中でも頭痛がするとはいったいなんの冗談だ。
そんなハーシュの苦悩も知らず、ザックは呆けたように口を開けた。
「うっそ……」
「こんなことで嘘を言ってどうします。この間城に来た時に、きちんと署名したでしょう」
「……え? なに、あれって、契約書だったの?」
「……内容を知らずにサインしていたと?」
「あ、いや……細かい字がびっしり詰まってたから、ついテキトーに」
ちっ、と美しい顔に似合わない舌打ち音がした。
こめかみを押さえながら、ハーシュは剣呑な目つきでザックをにらむ。
あれがそうだったんだ、と栗色の頭をかき回すザックに、ハーシュは「はああ」と殊更に大きな息を吐きだした。がくりと肩を落として両手を投げ出し、ぐじぐじと陰気臭い愚痴まで吐き始める。すると虹色の雲さえ、くすんだ色になって足下近くでわだかまった。
「長期出張中だからと契約遅延の理由書まで書いて、ただでさえ少ない予算をこれ以上減らされないようにと財務官とやり合って。さらにはモーゼルから届いた意味不明な請求書の稟議を通すのに、どれだけ苦労したと思っているのでしょうかね、私の騎士は。こんなことなら年俸の桁をひとつと云わず、ふたつほど減らしておけば良かったですよ」
どうやらハーシュは宰相補佐兼宮廷魔術師という仕事だけでなく、ザックの雑多な事務仕事まで引き受けていたらしい。
「──それで? わざわざこのために私を呼んだのですか?」
冷ややかな視線に晒されて、ザックは慌てて否定した。
「いやいやいや、ちゃんと仕事してるから!」
「とてもそうは見えませんが?」
こちらは寝る暇もないほど忙しいのですがね? こうして繋がっているということは、貴方はもう寝ているわけですね? 羨ましい限りですね、と止まらない愚痴を遮るために、ザックはまず結論を言った。
「見つけたかもしれん」
「……何をです?」
「『例の女』」
「──!!」
滅多に感情を露にすることのない水色の瞳が見開かれ、ハーシュは言葉を失った。
「そんな、まさか──」
「俺もまさかと思ったさ。だけどな、そいつは男装した黒髪短髪の女で、『カイル』と名乗ってやたらと魔術に詳しかった。目の色は黒だったが、これは大したこっちゃねぇだろう? おまけに顔もめちゃくちゃ可愛いし、黙ってりゃ、すんごい美少女……こんなの他にいると思うか?」
「確かに条件は合いますね……けれど」
ハーシュは首をひねった。
「可愛い」や「黙っていれば」というのは、なんだろうか。
確かにあの「女」は例えようもなく、美しかった。だが少なくとも「可愛い」と表現されるものではなかったはずで、一言で云うと「性悪」が一番合っているはずだ。
それはザックも感じていたようで、栗色の頭をなで回しながら困ったように眉を下げた。
「お前が言っていたのと、イメージがイマイチ違うんだよな、チビは。金にがめついし、凄え量食うし……」
ふわふわと目の前に漂ってきた黄色の雲を、ザックは片手で払って肩をすくめてみせた。ハーシュは少し考える素振りを見せたが、すぐに宰相補佐兼宮廷魔術師の顔になって頷いた。
「詳しく聞かせて貰いましょうか」
◇ ◇
「阿呆ですか」
話を聞くなり、ハーシュは言った。
「……なんだよ、いきなり」
「阿呆だから、阿呆と言ったのです。それとも、馬鹿と言った方が良かったですか?」
「だから、なんでそーなる!」
はああ、とまた大きく息を吐いて、年若い宰相補佐兼宮廷魔術師は、呆れたようにザックを見つめた。
「『必ず行くから待っていろ』──これは、どう考えても我々に対する宣言ではないですか」
「──へ?」
「ザカライア、子供の使いではないのですから……もう少し、頭を使ってください。──貴方は、便利な伝言係にされたのですよ」
「えぇえ!?」
これは吃驚だ。あのチビが、そんなに器用だとは思ってもみなかった。
顎を落として眼を剥いたザックに、ハーシュの溜息が重なった。
記憶の中の「女」は美しく、性悪で、ずば抜けた頭脳を持っていた。なのに己の信頼する騎士の話から窺えるのは、亡くなった兄に心酔する少し変わった美しい少女の姿だけで。
「女」と「少女」、二人の姿は重なるようで重ならない。その隔たりに、二人はほとほと困り果てた。
「実際に会ってみれば早いのですが……」
「じゃあ……やっぱり拘束しとく?」
「……いえ、限りなく黒に近いのですが……確定はできません。やめておきましょう」
非常に重要な案件なので慎重に進めたい。そう言うハーシュがいつになく弱気な気がして、それが少し不思議だった。
「状況証拠的には十分じゃねーの?」
「その状況が問題なんですよ」
この白い世界の果てを見極めようとするかのように、水色の瞳がわずかに細められた。ほっそりとした顎が心持ち上を向き、薄いが形の良い唇が開かれると、溜息のように言葉が零れる。
「あれから12日、ですか。……瀕死の人間がいたとして、動けるようになるまでどのぐらいかかるでしょうね?」
「程度によるだろうがな、まあ、起き上がるのに少なくとも10日はかかるんじゃねぇの?」
頭の後ろで手を組んで、ザックは並び立つハーシュと同じ方向を見渡した。この夢の世界はどこまでも白く、そして優しい。二人だけの世界には色付きの雲がときおり視界を横切るだけで、他には何も見えなかった。
「我々が見つけたとき、あの女は瀕死と言って良い状態でした。どれだけの血を流したのか見当もつきませんが……手足には無数の刺傷、体温も低く脈も微弱で。医師と魔術師が必死になって治療して、やっと生命を繋いでいる状態で……」
ザックは瞠目し、隣の男を注視した。わずかに低い位置にある水色の瞳には、女を気遣う様子がありありと浮かんでいる。どういうことだ、と問うような視線に気が付くと、その端正な眉は困ったように歪められた。
「まる2日、生死の境を彷徨っていましたよ。それが、眼を覚ましたと聞いて様子を見に行ってみれば……っ!」
一瞬にして、水色の瞳が紅く染まった。ぶわり、と雲が膨れ上がり、ザックの視界を賑々しい色で覆ってしまう。両の拳を握りしめ、唇を歪めて震わせながら、ハーシュは憎々しげに吐き捨てた。
「……あんな屈辱は……初めてですっ!」
いったい何をされたのか、宰相補佐兼宮廷魔術師の顔をすっかり脱ぎ捨てただの「若造」に成り下がり、聞くに堪えない言葉でハーシュは「女」を罵った。
非常に珍しいことではあるが、女を「性悪」と称したのは、この男の私怨であるらしい。
栗色の頭を掻きながら、ザックはげっそりと肩を落とした。
「落ち着けよ」
夢の中であるというのにどこか寒々とした気配を感じ、ザックは宥めるように、若造の肩を軽く叩いた。
はっと我に返ると眉間を押さえ、ハーシュは何度か深呼吸をしてから力を込めて眼を閉じた。ゆっくりと開いた眼の色は元の水色に戻り、そこには憂いの影が滲んでいる。
「──で、どうでした? その『カイル』の様子は」
「すっげぇ元気。健康そのものって感じだぜ?」
「……そうですか」
ほっと、胸が撫で下ろされた。
その安堵の息は、何に対するものだろう。少女が「女」でないことか、それとも「女」が無事だったことに対するものか。それを示せばこの年下の上司はきっと怒るだろうから、ザックは笑いをこらえながらも黙って見守った。
そんな不穏な空気を感じ取ったのか、ふと、ハーシュが顔を挙げて呟いた。
「……瞳の色は、どうでした?」
「黒」
あまりにもあっさりとした返答に、秀麗な顔がしかめられる。
「暗闇で確認しましたか?」
「……いや、寝る前に覗いてやろうとしたんだが、おとーさんが眼を光らせててなー」
できなかった、と頭を掻いたザックに、落胆したように首が振られた。
「肝心なことでしょうに」
「それよりもだな。もっと大切なことがある──チビは、似てるんだ」
給料に気をとられてつい忘れていたが、こちらの方がよほど極めて重大で重要な案件だ。
「……誰に?」
「おまえ、顔を見たんだよな。思い出してみろ。その『女』、誰かに似てると思わねぇ?」
ハーシュは腕を組むと形の良い眉をひそめて俯いた。
漆黒の髪、青白い肌、痩けた頬。優雅な弧を描く眉の形、長い睫毛、閉じられた瞳。すらりと伸びた鼻梁、色をなくした唇の形──
その顔の輪郭、目鼻の位置は、確かにどこかで視たような気がする。それもつい最近、城内で。
──あの場所は、どこだった?
「──ぁ、あ……まさか──」
水色の瞳が、愕然と見開かれた。
予想外の顔が、脳裏に浮かびあがった。
だがそんなことは有り得ない。絶対に。その可能性はないはずだ。
けれどもあまりに似過ぎている。
──何度否定しても、二人の顔は重なって離れない。
まさか、あの女は。
だがなぜ、今になって。
なぜ、この時期に。
この想像が現実のものだとして、少女は一体何をする気なのだ。
「……行き先は、サリフリだと言っていましたね?」
厳しい顔で、ハーシュは問うた。
そこに個人の感情は、一切みられない。
冷酷で厳格な宰相補佐兼宮廷魔術師がいるだけだ。
身を引き締めて、ザックも応えた。
「ああ、確かだ」
「では泳がせて、彼女が何をするつもりなのか確認してください」
「わかった。俺は先に行ってていいんだな?」
「ええ、護衛士がついているのなら安全です。責任を持って送り届けてくれるでしょう。貴方はまず、サリフリへ。予定通りに『魔術陣』について調べてください。そしてもし──」
もし、と続けた言葉に、二人は顔を見合わせ頷いた。
そろそろ戻る、と言ったザックに気をつけて、とハーシュは別れの言葉を述べる。
「こちらは今、眼が回るほどに忙しいのです。だからこれ以降は、連絡は取れないと思ってください」
「ああ、おまえもちゃんと寝とけよ?」
わかっていますよ、と口癖のような言葉を吐いて、ハーシュはうっすらと微笑んだ。
「彼女が、我々の敵にならないことを願っています」
「……ああ、そうだな」
ザックも軽く手を挙げ別れを告げた。
天地の境が曖昧になり、虹色の雲に覆われたハーシュの姿がどんどん小さくなってゆく。
ひとつ息を吐いてザックはゆっくりと眼を閉じた。
意識が闇に覆われる寸前に、先ほどの言葉を繰り返す。
──もしその「為すべきこと」が帝国に仇なすものだとしたら、全力で叩き潰す。今度こそ、遠慮なく。