帝国の騎士・4
護衛士が、無言で肉の刺さった串を炙っている。
その後ろでは手布を顔に当てた少女が座り込み、ひっくひっくとべそをかいていた。
一方騎士は炭になった串を手に取って、矯めつ眇めつ眺めていた。
「元」が本物であるから当然とはいえ、ふっくらとした形をそのまま残して炭となった肉は、炭になっても旨そうだ。衣に混ぜられた香辛料のざらざらとした質感、鳥皮がめくれて丸まったさまはおろか、肉の繊維の一本一本までが精密に再現されており、焦げて黒く縮んだ肉とは明らかに違っている。
「……これも一種の『才能』ってヤツだよなぁ」
ついそんな声が漏れてしまったら、冷たい眼で護衛士に睨まれた。
少女の方も、またじわりと目に涙を溜めて、今にも溢れそうになっている。
「いや、すまん! ……もう泣くなよ、な、な?」
そんなつもりでは無かったのだと両手を合わせて何度も頭を下げながら、ザックは荷物に入れてきたあるモノを思い出した。
子供に効くのは古今東西やはりこれ、といそいそ荷を手繰り寄せ、中から拳ほどの紙の包みを取り出して、少女の前にそっと差し出す。
「な? これをやるから、もう泣くんじゃねぇぞ?」
膝の前に置かれた包みに眼を落とし、カイルはひとつ瞬くと、不思議そうにザックを見上げた。
瞬いた拍子に涙がほろりと零れたが、それが最後の一粒だった。今はただ男の意思を計りかねているだけのようだ。
「騎士さま……?」
両手で握りしめた手布を口に当て、眼の周りと鼻の頭を赤く染めて首をかしげるその仕草は、少女をひどく幼く見せる。
つい先ほどはもっと大人びて見えたのに、同じ台詞でもこうも印象が違ってくるものかとザックは可笑しくなってきた。
◇ ◇
「騎士さま……」
衝動に突き動かされるように引き寄せた身体は暖かく、そして柔らかかった。
切なく揺れる黒い瞳が徐々に大きくなり、やがて視界一杯に広がった夜の闇は一度ぱちりと瞬いた。
重そうな睫毛だ、と感心して見ていたら、闇はまたぱちりと瞬き訴えた。
「騎士さま……お肉を、裏返してもいいでしょうか?」
「……にく……?」
「はい。良い匂いがしてきました」
唐突に肉、と言われ、少女の頬に添えられた手のひらがぴくりと動く。
先ほどから囲炉裏でぱちぱちと音がするのは、肉から落ちた脂が跳ねているせいか。
今更ながらに己の格好に気が付いて、いささか居たたまれない気持ちになった。中腰になって少女を腕の中に囲い込むなど、これではまるで無抵抗な小動物に襲いかかる、熊そのものではないか。
ザックはゆっくりと背中に回した腕を外す。取り繕うような笑みを張り付かせて少女と目線を合わせれば、煌めく黒い瞳の奥できゅうと切なく腹が鳴った。
(そういや、腹が減ったって……なんだかなぁ)
これまでの疲れがどっと押し寄せてきたような気がして、ザックは目の前の黒髪を無造作にかき回すと囲炉裏の方に目を向けた。
「……確かに腹ぁ、減ったよなー……」
「はい……とても」
頭を鳥の巣のようにされて、一瞬ぽかんとしたカイルだったが至極真面目な顔で頷いた。
己の身に何が起きようとしていたか、全くわかっていないその様子にザックはほっと胸を撫で下ろしたが、少々残念な気がしないでもない。
「脂、浮いてるなー」
「では、裏返してもいいですか?」
「おうよ、やってくれ」
逸る気持ちが抑えきれないのか、乱された髪をまともに整えもせずカイルは両手をぎゅ、と握りしめ、いそいそと囲炉裏の前に座り直した。
「……それでは」
ひとつ宣言して、そろそろと右手を串に伸ばす。そして白い指が串を握り込んだ瞬間、それは起きた。
ぱふん
気の抜けた音と共に白い蒸気が上がり、一瞬のうちに串は食物とは別の物体に変化した。カイルは呆然と、右手に持ったモノを見つめている。
「……えぇ? ……どう、して……?」
それは、細部まで実に良く再現された、肉の形をした炭だった。
カイルは右手の「炭」と網に乗った肉を何度か交互に見比べた。そして眼にぐっと力を入れ、新たな串を返そうと、今度は左手を素早く繰り出した。
ぽふん
手が触れた瞬間、またしても軽やかな音と共に蒸気が上がり、少女の手にはやはり精巧な炭が残った。
「おい……?」
かつては肉だった炭を両手に持ったきり動かなくなった少女を訝しみ、膝をついて顔を覗き込んだところでザックはぎょっと身を引いた。
大きな黒い瞳から、大粒の涙が溢れ出ていた。
頬をつたった涙はぱたぱたと音を立てて膝に落ちてゆく。後から後から湧き出る涙は、少女の下衣に大きな染みを作りながら広がった。
「……っく」
「おい、ここで泣くのかよ……?」
マズい。
これは非常に宜しくない。
いくら兵が足止めをしていると言っても限度があるというものだ。もうそろそろ、あの護衛士が戻ってきてしまう。戻ってきて、この泣き顔など見たらいったいどうなる?
ザックの背中を、ひやりとした汗が伝い落ちた。
──ここはなんとしてでも泣き止ませなければ。
「おい、泣くなよ。……な、な?」
入り口の方で音がしたのは、少女を慰めようと手を伸ばしたその時だった。
ひいっ、と咄嗟に声をあげなかったその時の自分を褒めてやりたい。だがその一瞬の隙をついて、カイルは串を囲炉裏に投げ出すと、護衛士の胸に飛び込んで行ったのだ。
たかが串2本のことで、あやうく殺し合いになるところだった。そうならなかったのは、ひとえに運が良かっただけ。あの殺気は本物だったし、もし大事になっていれば、お互い無事では済まなかっただろう。
(このおっさん、中々やりやがるしな)
伊達に護衛士などしていない、ということか。
今も熱心に肉を炙っているように見えるが、意識はずっとこちらに向けたまま、何かあれば直ぐに動けるようにとずっと気を張っている。それすら注意深く窺わなければわからなかっただろう。
(……こーいう子供を持つと、大変だねぇ、『おとーさん』は)
「物」が突然変化する──このような奇妙な事例を、ザックは良く知っていた。
それは年若い上司であるハーシュ・ラスンが満足に言葉も喋れないような幼児であったころ、度々見かけた光景だった。
幼児の興味を引くもの──やはり菓子が多かった──を持たせて火のそばに連れて行けばそれは一瞬で見事な炭になり、また水の近くに歩み寄れば、湿気るを通り越してどろどろに溶け落ちた。菓子を手にして上機嫌だったハーシュは突然の出来事に当然のように大泣きし、それと知っていて連れ回したザックはこっぴどく叱られたものだ。だがその頃はザック自身もじゅうぶんに子供であったため、懲りずに様々なものをハーシュに与えては、主に炭を作って喜んでいた。
後にハーシュはこの現象について、自分の扱える魔力を制御できなかったせいだと言っていたが、カイルのこれも、同じことではないだろうか。
(才能はあるんだろうよ。だが、使い方がわからんってとこか?)
やはりこの少女は「例の女」でないのだろうか。あるいは本物だったとして、偶然「転送陣」を起動したか──
取りあえず、今回は報告だけに止めておこう。目的地は同じなのだ。ハーシュの意見を聞いてからでも遅くない。
そうと決めたザックは、にか、と笑って紙の包みを指差した。
「まあ、開けてみろよ」
「はい……」
両手で持った手布をきちんと仕舞い、少女は丁寧に紙の包みを開けて、眼を丸く見開いた。
赤、緑、紫、橙、黄……包まれていたのは、色とりどりの丸い飴だったのだ。
「……これ」
「どうだ、美味そうだろう? 都でも評判の店で買ってきたんだ」
「でも、騎士さまの分は……?」
「俺は大人だからな。別に無くても平気だ」
「わたしも、大人ですよ?」
「嘘をつけ!」
小さな額を指で小突けば少女は口を尖らせた。だが直ぐに口元は笑みを浮かべ、眩しいものを見るように、眼を細めて手元を覗く。
「本当に、良いのですか?」
「ああ、漢に二言は無い! ちなみにな、葡萄味は紫だ」
「ありがとうございます……!」
萎れていた花が生き返ったように、少女は華やいで礼を言った。
それは胸がじわりと暖かくなるような、そんな満面の笑みだった。
◇ ◇
──親しみを込めて「おじさん」と呼んでやれ。その方が親父も喜ぶ。
カユテ村の武器屋を出る時に、確かにそう知恵をつけた。
それがどうやらカイルの中では「『おじさん』と呼べば相手は喜ぶ」と変換されたらしい。
今もそうだ。
感謝の気持ちに加えて相手を喜ばそうと、ただそれだけの純粋な気持ちで悪気など全くないはずだった。
飴を貰って途端に機嫌を直したカイルは、最大限の感謝を込めて騎士に向かってこうのたまったのだ。
「ありがとうございます、おじさん!」
その言葉に、ザックは笑顔を張り付かせたまま、ぴしりと見事に固まった。
「……カイル、そういうときは『お兄さん』だ」
「そうですか? ……だってお髭が」
凍ったように動かなくなった騎士を心底不思議そうに眺めつつ、少女は冷静に指摘した。
ラウルは炙った肉を皿に盛り、カイルに向かって座り直した。こういう時にはきちんと教えておかないといけない。確かに武器屋の親父は髭を生やしていたが、それが「おじさん」と「お兄さん」の違いではないのだ。
「若くても、髭は生える」
「ええ? でも、ラウルは……」
「俺はそれほど濃くないし、色が目立たないだけだ」
「オレ、まだぎりぎり20代なのに……そっちの方がおっさんだろうがよ!」
自分はまだ若い、とわめく騎士に、カイルは更に追い打ちをかけた。
「違います。ラウルは『お兄さん』です!」
「……ひっでえ……」
「……カイル、それ以上言ってくれるな……」
「俺、おれ……もう、立ち直れないかも……」
「なんと言ったら良いか……重ね重ね申し訳ない」
騎士はその体躯に似合わないほどに盛大に拗ね、カイルに背中を見せて小さくなった。
ラウルは最大限の努力をしたが、「おじさん」と「お兄さん」の違いを教えるのは、中々に骨が折れる作業だった。