帝国の騎士・1
大きな荷物と毛布を板間に放り投げ、無精髭をまだらに生やした熊のような男は仰向けにごろりと転がった。
「あー、つっかれた!」
「「…………」」
「…………」
足だけを土間に置いて両手を大きく広げ、板間で大の字になった男はぎょろりと視線だけを先客の二人に向ける。
「……あのさ、なんか言ってよ。俺、馬鹿みてぇじゃね?」
「こ、こんばんは……?」
「こんばんは」
「…………」
「「…………」」
「っかーー! これだから田舎者は!」
両手で栗色の頭をかき回し、男はよっと声を出して起き上がった。
毛を逆立てた仔猫そのままに、びくりと身をすくませたカイルがラウルの背に隠れてそっと顔をのぞかせる。
「取って食ったりしねぇって」
にか、と目元に皺を寄せて笑った男は長靴を脱いで剣を外し、ラウルの正面に胡座をかくと片手をひょいと軽く上げた。
「ザックです。一晩よろしく!」
(……何者だ?)
生成りのシャツに色あせた緑の胴衣、濃い茶の上着に下履き──剣を佩いていることを除けばごく普通の「どこにでもいそうな男」である。だが身のこなしに隙が無いうえ、ザックと名乗ったこの男はそれとなく二人の様子を伺っていた。
カイルを狙っているならばこちらも対処しなければならないが、国境砦の中ではできることは限られてくる。
(よりにもよって、こんなところで──)
下手を打ちたくないのだが、はたしてこの子はそれを理解しているだろうか。
余計なことは口にしてくれるな、と祈るような気持ちでラウルは姿勢を正して座り直した。
「私はラウル、護衛士で……こっちが弟子の」
「カイル、といいます」
胡座をかいて座っているラウルの背中で膝立ちになり、その肩に両手を添えカイルはぴょこりと頭を下げた。
「……ぶふっ!」
その様子を見るなり男はおかしそうに吹き出した。
「りょ、猟犬の後ろにくっついてる仔猫……っ」
兵士たちの例え通りだ。
砦の門が閉まる時刻ぎりぎりに駆け込んだのでさんざん文句を言われたが、火急の用だと騎士証を見せて無理矢理押し通った。
その際に子供がいるから静かにしろだの怯えさせるな脅かすなと注文をつけられたので、興味を引かれてこちらにきてみれば思いもかけない「掘り出し物」がいるではないか。
いかにも有り合わせの古着といった丈の合わない襤褸を纏っているが、この辺境には似つかわしくない艶やかな黒髪の、輝くばかりに美しい──たぶん、きっと、ほぼ……女、というよりは、少女。
なるほどこれはハーシュが「一度見たら忘れられない」と口にするのも良くわかる、類い稀な美貌だ。
まだ「例の女」と確定したわけではないが、ザックが小屋の扉を開けたとき顔を隠そうとでもいうのだろうか、この暖かい室内で外套を手にして固まっていた。後ろ暗いことがある証拠だ。
聞いた通りの美貌に短い黒髪、男装──こんな「偶然」がどこにある?
(──しかも『カイル』だと!)
こみあげてくる笑いが止まらない。
瞳の色は違うがそんなもの、魔術でいくらでも変えられる。
厄介なのは、また「転送陣」とやらで逃げられることだが、その前に薬で眠らせてしまえば問題ない。
護衛士がいたのは意外だったが、それも砦内でならどうとでもなることだ。
(ついでと思っていたが、のこのこ向こうから出てきてくれるとは!)
少なくともこの場で下手な動きは取れないだろう。
ころりと手のひらに転がり落ちてきた幸運と、なにも知らずに小動物のように首を傾げる女……というよりむしろ少女の様子に、ザックの笑いはますます止まらなくなった。
笑い転げる男を見て苦々しい顔をしたラウルとは対照的に、興味津々といったふうに男を眺めていたカイルはひとつ頷くと、また茶を入れ始めた。
悪趣味な茶器をひとつ加え、3人分の茶を用意してそれぞれに配る。
「あの、騎士さま……お茶をどうぞ」
器に手を伸ばした男二人の動きがぴたりと止まる。
だがそれも一瞬のことで、一人は素知らぬ顔で茶を啜り、もう一人は大仰に手を叩いた。
「お、おおー? 気が利くな、坊主!」
音を立てて茶を啜ったが、男は動揺を完璧には隠し切れていなかった。
(──やはり、騎士か)
「こりゃ、うめぇ!」
茶葉はなんだとか、どうやって淹れたのだとか、ザックと名乗った男は、言い逃れるかのようにカイルに尋ねている。
(一体、なにを探っている?)
ラウルのその冷ややかな視線に誤摩化せないと踏んだのか、ちらりと視線をよこすと男はあっさり騎士であることを肯定した。
「それにしても、よく俺が騎士だってわかったな?」
「その剣の紋章が……葡萄の葉が太陽を守っていますよね」
にこ、と微笑んでカイルが示したのはザックの剣だ。
剣の柄頭に彫られている太陽の紋章が、葡萄の葉で縁取られている。
これはアルトローラ帝国皇祖の「葡萄の蔓で覆われし、光輝く卵から生じた」という伝説に由来するもので、皇家に忠誠を捧げた騎士が好んで用いる意匠だった。
誰が最初に考えたものか、皇家を守る葡萄の葉たらんという本人の決意を表したもので、公に認められたものではない。また、それを言いふらすような者もいないため、この意匠の意味を知るということは身近にそういった騎士がいることをも示していた。
ザックの瞳に再び探るような光が宿る。が、口調はあくまで軽かった。
「お? 詳しいな。誰に訊いた?」
「葡萄は美味しいですから!」
「……は?」
にこにこと満面の笑みを浮かべ、両手を合わせて少女は力一杯宣言した。
「赤い葡萄も美味しいのですが、わたしは、緑色のほうが好きなのです」
「──要するに、腹が減ったということだな?」
「……へ?」
「凄い! ラウル、良くわかりましたね」
手を叩いてカイルが喜び、ラウルは渋面のままゆっくりとうなずき返す。
そこではザックの理解できない会話が勝手に進められていた。
「そろそろ食事にしよう」
「俺……ぜんっぜん意味わかんねぇ……」
「それが普通だ。……俺もわからん」
「えー、あんた今、普通に会話して」
「……勘だ」
高度な暗号かとも思ったが、どうやらそうでもないらしい。
理解できないのも当然、と睨むような顔で慰められても、ザックはちっとも嬉しくなかった。