北方公路・2
「この辺は随分と涼しくなってんだなぁ」
ザックは大きく息を吸って、吐き出した。
イエーツとは大違いだ。向こうは夜になってもまだ蒸して、風が吹いても生温い。だというのにこの辺境はからりとして、昼でも日陰に入ればひやりと涼しい。帝都を発って8日目、辿り着いたトゥルネイ山地の麓では、もう秋の気配が漂っている。
大地に根を張るように広がった丘陵地帯のただ中で、ザックは「例の女」について考えていた。
(黒髪に銀の瞳。髪を切って逃げたから、男装している可能性がある。そして『あの事件』の被害者である可能性も高い──)
緩やかな登り坂を速歩で馬を進めて見上げれば、蒼く高い空が眼に眩しい。綿のように流れる雲は、前方の山々にぶつかりひしゃげ、渦を巻く。
その雲と同じように、耳にまとわりつく言葉。
「一度見たら忘れられないほどに、美しい、女……」
普段からあまり感情を露にすることのないあの天才に、あそこまで憎まれたうえで「美しい」とさえ言わせたのだ。相当な美貌に違いないだろうが──性格は悪そうだ。
(まあ、巧い具合に目の前に現れる、なんてこたぁねえだろうが)
国境前の最後の村が見えてきて、休憩と遅めの昼食に心惹かれるのか馬の速度が早くなった。
◇ ◇
薄暗い森の中に甲高い鳥の声が長く尾を引き響き渡った。間を置いて、遠くからそれに応える声も聞こえてくる。
そうやって鳥たちが鳴き交わすのを聴きながら、北方公路を歩く二人も色々な話をした。
「そもそも、何故サリフリに行くんだ?」
「向こうで少し、調べたいことがありまして。それからお会いしたい方がいるのです」
「調べもの? それなら帝都の方が良いんじゃないのか」
帝都イエーツの大図書館は、子供の小遣い程度の入館料を支払うだけで、身分や出身を問わず誰でも入ることができる。
そしてここには世界中のありとあらゆる文献が揃っているとも言われており、一般公開区域には学者も大勢うろついている。そのためローブを纏った者に尋ねれば、大抵のことはそれで解決してしまう。
それはそうなのですが、とカイルは首を傾けた。
「イエーツには遺跡が無いでしょう? わたしが調べたいものは、そこにあるものですから」
「……遺跡、ねぇ」
お手上げだった。ラウルも一般教養は身につけているが、専門分野になるとさっぱりわからない。遺跡で何を調べようとしているのか尋ねたところで恐らく欠片も理解できないだろう。
「──そういえば、この剣も遺跡からできているんですよ?」
その言葉になに、と腰の剣をみれば、カイルは自分の剣をすらりと引き抜くと鋼灰色に輝く刀身をまっすぐに掲げて見せた。
「これは、遺跡の外骨格を削りだしたものだそうです」
「ガイコッカク?」
「そう。遺跡の外側を覆う、一番固い部分です。これはどんな炎にも溶けることなく、そしてどんな金属でも貫くそうですよ?」
そんな恐ろしく固いものを、気が遠くなるほどの時間をかけて丁寧に研いだものが、この黒い剣なのだそうだ。
確かに普通の剣とは違っている。そう感じてはいたが、遺跡とは想像すらしなかった。
「俄には信じられんな……」
「では、試してみますか?」
言うなりカイルは道端から拳ほどの大きさの石を手に取ると、軽く上に放り投げて無造作にそれを──切った。
とっ、と音がして落ちたそれを拾ってみると、断面はつるりと滑らかだ。
「見て下さい。刃こぼれは全くありません」
「ああ……」
無邪気に笑って見せられた欠けのない刀身よりも、ラウルにとっては石を粘土のように切った、その技量こそが信じ難いことだった。
本当に何気ない動作で──それこそ額にかかった髪を払うように、カイルは剣を一閃した。剣に自信があるというのもあながち間違いではない。これは素人の剣ではない。
だが──「慣らし」もしていない剣でこれだけのことができる技を、この娘は一体どこで学んだというのだろう。
昨晩触れた手の平には、剣ダコはおろか、肉刺の一つもなかったのだ。
「それでも雑に扱うと少しずつ傷ついてしまうそうですから、欠けたりしないように大事に扱って下さいね?」
にこにこと上機嫌で微笑むカイルに、ラウルは曖昧に頷くことしかできなかった。
◇ ◇
「……え? 食いもんが無い?」
「そうなんだよ、ごめんなさいねぇ。料理はちょーっと切らしちゃっててね。パンとチーズぐらいならすぐ出せるんだけど。他のはまだ仕込み中でさ」
「あ、そーなんすか。じゃあ、それで」
帝国料理もこれでしばらくは食べ納め、ということで遅い昼を兼ねて村唯一の宿屋に寄ってみれば、この仕打ち。
頑張ったのに、報われない。食事だけがささやかな楽しみだったのに、と少々やるせない気持ちになったがまずは仕事優先だ。
夜にはご馳走が出せるけど、どうする? と聞かれたが、急ぐからと断った。
パンにチーズとハム、そして果物が少々。
晩飯にと包んでもらったのも、同じもの。
こんなことならブースでもっと、ちゃんとした食事を山ほど食べてくれば良かったと後悔したが、もはや後の祭りだ。
旨いがどこか味気ない──そんな食事をもそもそと食べ、こちらは満足げに鼻を鳴らす馬を引いて、ザックは雑貨屋へと向かって行った。
◇ ◇
樹々の隙間から漏れ来る光のモザイク模様の中で、徐々に長くなりゆく影を踏み、足下に注意を向けながらただひたすらに坂を登る。
秋も近くなったこの時期は、日が傾くと急激に気温も下がってくるがそれでも歩いて熱を持った身体には丁度良い塩梅だ。
「サリフリにいるのは、知り合いか?」
「いいえ。お会いしたことはありません。ただ助言を頂ければ、と思いまして」
「それは誰かと訊いても?」
急な登り坂にできた、古木の根が作った大きめの段差に足をかけたカイルにラウルは手を差し出した。素直に乗せられた手を握ってひょいと引けば、小さな身体はあっさりと乗り上げる。
「……背が高いって、便利ですね」
「大きすぎるのも問題だ。鴨居とは一生仲良くなれそうもない」
冗談めかしてそう言えば、それもそうですね、とカイルは笑い、そしてぽつりと呟いた。
「会いたいのはフート・セレネルという方で……アクサライの宮廷魔術師だそうです」
「──セレネル!? ……あの?」
踏み出しかけたラウルの足が止まった。確認するように腰を屈めて聞き直すと、黒い瞳がぱちりと瞬く。
「お知り合いですか?」
「知らないのか? 魔術『師』と呼ばれる魔術士は何人かいるが、その中でも特に高名な3人のうちの一人だ」
魔術を扱えるものは一様に「魔術士」を名乗ることができる。
だが魔術を使える者の絶対数がそもそも少ない上にその力はまちまちで、一言に「魔術士」といっても、個人の能力差は比べようもないほど激しい。そのため魔術士の中でもとりわけ力に長けた者を人々は「魔術師」と呼んでおり、中でもアクサライ王国のセレネル、アルトローラ帝国のラスン、テネルス王国のメリカントは、当代の3大魔術師と呼ばれていた。
「そうでしたか……そうすると、お会いするのは難しいのでしょうね」
「いや、俺の師がサリフリで『組合』の……」
そこまで口にして、ラウルはぎり、と歯を食いしばった。
まただ。また、この奇妙な「偶然」だ。背筋から首筋にかけて何かが撫でていったような、嫌な感触が肌を伝う。
突然黙り込んで眉根を寄せた背の高い護衛士を、心配そうに少女は覗き込んだ。
「どうか、しましたか……?」
「いや……なんでもない。俺の師が向こうにいるから、その伝手を頼ればあるいは、といったところか」
一度頭を振って歩き出せば、後方から感嘆の息が漏れ聞こえてきた。
「ラウルは凄いですねぇ」
「人ごとではないぞ。お前はこれから俺の弟子になるのだから」
「……弟子、ですか?」
怪訝そうに首を傾け見上げてくる少女を振り返るとラウルは口の端を引き上げた。
◇ ◇
「臨時休業」と殴り書きされた灰色の紙が扉に鋲で止められて、そよと風に揺れていた。
「……おい、なんだよ、こりゃ」
胃腸薬が底をついていることに気が付いたのは、3日ほど前だった。
アクサライでは食事に香辛料を多く使うので、念のため準備しておこうと思っていたのだがブースではつい買いそびれてしまったのだ。帝国内ではごくありふれたものだから、どこでも買えると高をくくっていたのが裏目に出てしまった。
村唯一の雑貨屋に向かってみれば、どういうわけか閉まっている。
しかも薄汚れた看板を見てみると、書かれていたのは……
「ガリプ武器店?」
雑貨屋、ではなかったのだろうか。
宿屋で訊いた場所は、ここで合っているはずだ。周りにもそれらしき店はない。諦めきれずに馬を連れて周辺をうろうろとしてみたが、やはり他に店はない。
おかしいおかしいと首をひねっていたところに、村人と思われる女性の二人組が歩いて来たので訊いてみた。
「ああ、親父さんとこね。確か昼前までは開いてたと思ったんだけど」
「そういや腰が抜けたと嫁さんが」
「そういや、そうだった! まったく、あの親父さんが腰を抜かすなんてねぇ」
「一体なにをしたもんだか」
「それがさあ……」
なんだか話が逸れてきたので、ザックは礼を言ってその場を辞した。
「はあ……辺境ってのはこれだから」
店主が急病では仕方がないとわかっていても、感情がどうにも納得できない。これまでの疲れがどっと押し寄せたような気がして道ばたの木陰に腰を下ろそうとしたが、なぜか愛馬には気力がみなぎっていた。
行くぞ行くぞと先を急かす元気一杯の馬に引きずられるようにして、不運の騎士・ザカライア・モーブレーはカユテの村を後にしたのだった。
◇ ◇
ブース地方のとある田舎貴族に、美しいと評判の娘がいた。
彼女は幼い頃から騎士に憧れ剣を習い、やがては都に上がって騎士になるのだと、そんな夢見る娘だった。
ところが年頃になると、待ち構えたように縁談が持ち込まれた。借金を抱えた親は乗り気だったが、誰が父親と同い年の男と結婚などできようか。だが娘の意思をまったく無視して話はどんどん進み、ある日突然、式は一週間後と告げられる。そのあまりにも急な話に娘は怒り、ついに家出してしまう。
意思のない人形のように生きることを強制されるならば、いっそ全てを捨てて別の国で新たな人間として思うままに生きたい──そう決心した娘は、たまたま出会った護衛士に強引に弟子入りを果たし、共に旅することになる。
「──というのはどうだ? 護衛士なら身分を問われないし、女もまあ、いないこともない。これならそれほど無理がないと思うが」
「凄い、ラウル! よく考えつきましたね」
頬を上気させ手を叩いて賞賛され、ラウルは少々気恥ずかしい思いで鼻の脇を掻いた。
「まあ……俺も似たようなものだったからな」
「ええと……ラウルも母上と同い年の女性から結婚を申し込まれたのですか?」
いかにも気の毒、といった哀れみの眼で見つめられ、慌てて力一杯否定する。
「違う! 強引に弟子入り、からだ。俺はサリフリの護衛士組合に所属しているからな。弟子を取るなら、そこに登録するのが自然だろう」
「ラウルは……アクサライ人には見えませんけど?」
日に焼けてはいるが、元々は白い肌にくすんだ金の髪、濃い翠の瞳は、どこからみてもアクサライ人ではない。心底不思議そうな顔をするカイルの頭に、ラウルは頬を緩めて手を乗せた。
「ああ、出身はニールだが……師がアクサライ人なんだ。籍を移しても良かったが、そのままになっているな」
国境の砦への最後の急な坂を登り切れば、残す道のりもあと少し。
きらきらと輝く光の欠片は随分と柔らかさを増して、今や後方から弱々しく降り注いでいる。
朱から淡い紫に染まった森の中で、フードの奥の闇色の瞳が真剣な色を宿すのが見て取れた。
「わかりました。わたしは貴方の弟子、ですね?」
「そうだ。このことは絶対に忘れるなよ? そして誰に訊かれても、本当のことを話してはいけない。今後どんなに親しくなった人間にも、だ」
「──はい。心して」