白の宮の紅い瞳・1
綿をちぎったような雲が次々に、駆け足で太陽の前を横切ってゆく。その度に陽の光が遮られ、輝かしい世界をほんの一時、影の中に落とし込む。秋がすぐそこに迫っているとはいえまだまだ陽は強い。流れる影は外で働く人々に、ほんのわずかな休息を与えていた。
舗装のされていない土の道を大小二つの影が東に向かって歩いていた。
帝国の東部辺境、カユテ村の丁度中ほどにさしかかった時、小さな影がくるりと回って振り返る。
身体に少し大きめの剣を佩き、膝下までの外套をまとい、頭はフードに覆われている。胸には大きな荷物を抱え、後ろ向きになりながらも危なげない足取りで、隣の大きな影を見上げていた。
小さな影は、良いことを思いついたと言わんばかりに身体を弾ませ、ラウル聞いて、と話しかけた。
「わたし、やっぱり手紙を書こうと思います。……武器屋のご主人に、お願いすれば良いでしょうか?」
「……手紙?」
「あの方に……ちゃんとラウルに出会えましたって、報告したいのです」
はにかんだような声音からは、同時に浮き立つような気配も感じられる。初めての経験に心も身体も弾んでいるようだ。嬉しくてたまらない、といった様子のカイルにラウルの頬も自然と緩む。
「それは、その剣の?」
「ええ。たくさん心配していただいたので……」
「それがいい。きっとランドル師も喜ぶ」
出発が思ったよりも遅れてしまったが、手紙を書く時間が取れないほどでもない。武器屋の親父には文句を言われるかもしれないがそれだけのことだ。なにも問題は無いだろう。
「だが、その後は少し急ぐぞ。大丈夫か?」
「もちろん!」
確認すれば元気な返事が返ってくる。目を細めてラウルが頷くと、今度は踊るようにカイルはまたくるりと回って歩き出した。
◇ ◇
この大陸は、中央部を南北に貫くトゥルネイ山地によって東西に分けられている。
そして大陸の中で大国と呼ばれるのは3つ。
「世界の中心」とも謳われ大陸一の歴史と伝統を誇る、大陸西部のアルトローラ帝国。大陸東部の「草原と遺跡の国」、アクサライ王国。そして大陸南部の商業国家、テネルス王国。この三国はトゥルネイ山で国境を接し、この数百年、穏やかな関係を築きあげていた。
三大国のひとつ、アルトローラ帝国の首都はイエーツ。大陸最大の湖、内海とも呼ばれるヴェッツィ湖に面した巨大な都市である。
帝都イエーツには皇帝が住まうため、当然ながら城がある。名をカーフレイ城と言い、街ひとつそのまま納めたかのように広大であった。
そしてこの城には色を冠した四つの宮がある。
そのひとつ、政務を行うこの「白の宮」は、宮殿内でも最も広大な面積を占めていた。名前が示すそのままに白で統一されたこの建物は、何事にも大陸一を誇る帝国に相応しい威厳を放っていた。
知らぬものが足を踏み入れれば、その偉容にまず言葉を無くす。
高い天井には細やかな模様が隙間なく彫られ、白い石の床には傷もなく、染みのひとつも見当たらない。壁にもまた、ところどころに玉で彫られた花々が飾られ──これだけのものを整えるのに一体どれほどの時間と労力が費やされたのかと、考えれば気が遠くなるほどだ。
そんな中を、いかにも見窄らしい格好をした男が歩いていた。
埃にまみれ、見た目よりも機能を重視した服をまとうその男は宮殿内の雰囲気に臆することなくずかずかと歩を進め、ある扉の前で足を止めた。
扉の両脇に立つ騎士が、男を認めて扉を開く。
「ザカライア・モーブレー、入ります」
落ち着いた低い声で男は名乗った。
栗色の、やや癖のある短髪に濡れた土色の瞳と無精髭、加えて厚い胸板に太い手足とくれば、茶色い熊を容易く連想させられる。だが人に威圧感を与えないのは、その人好きのする顔故のことだろう。くるくると表情豊かによく動く瞳は笑うと目元に皺を刻み、だが視線は油断なく辺りを見回して、物腰にも隙がない。
今も招き入れられた室内をざっと見渡してから部屋の主の元にゆっくりと歩み寄った。
正式な騎士の礼をとり、重厚な執務机の向こうに座る若い男に頭を下げる。
「身なりも整えず、このような格好で罷り越しましたこと、誠に恐縮の至り」
「ああ……呼びつけたのはこちらです。楽になさい」
「あ、そう? それじゃ、遠慮なく」
若い男が応接用の長椅子を指し示すと、ザカライアと名乗った男はそこにどっかと腰を下ろした。
ついでに「喉乾いてんだよね。なんか冷たいの、ちょーだい」と注文までつける。部屋に居た従僕は素知らぬ顔で一礼すると、飲み物を用意するため出て行った。
そんな男の態度はいつものこと、というように、上司であろう若い男の方は気に留める素振りもない。
テーブルの反対側に座って男に従僕の持ってきた冷えた果実水を勧めると、世間話でもするような軽い口調で話しかけた。
「ところでザック。モーゼルはどうでした?」
「あー……恐らく『シロ』だろ」
「おや、そうですか」
「確かになー、怪しいっちゃ怪しいが、 ありゃあ仕事に入れ込み過ぎて、周りが見えなくなってるだけっつうか」
がしがしと頭を掻いて果実水をがぶりと飲み、ザックは「おお、そうだ」と手を叩いた。
「ハーシュも似たようなとこあっただろ? ほら、昔……」
「ザカライア?」
言い難い本名でわざわざ呼ばれた上に、ふふ、と微笑まれて、ザカライア──ザックは目を逸らして黙り込んだ。
この年下の上司、ハーシュ・ラスンはまだ23という若さにも関わらず、宰相補佐という要職に就いている。しかも100年に一度と言われるほどの天才で、宮廷魔術師でもあった。さらに灰白のまっすぐな長髪に薄い水色の瞳、整った顔立ち、と天が二物も三物も与えた恵まれた男だ。残念なのは表情の動きが乏しいため、初対面の人間には爬虫類のような印象を与えてしまうことだろう。
今も口元は僅かに弧を描いているが視線は底冷えするほどに冷たく、元々の顔が美しいだけにより一層迫力が増している。
「モーゼルの件は、もう良いでしょう。それよりも」
手を上げて人払いをするとハーシュは席を立ち、執務机から一枚の紙を取り上げた。
す、と差し出されたのは厚手の上質な紙で、滑らかなその表面には流麗な筆跡で文字が記されていた。そして最後に、ザックの目の前の宰相補佐兼宮廷魔術師の署名がなされている。
「……なに、これ?」
「見てわかりませんか? 命令書です」
「命令書って……『速やかに任務を全うせよ』って何の任務だよ。任務は終わったんじゃねえの?」
「新たな任務ですよ。決まっているでしょう?」
長椅子に戻ったハーシュは今度こそ本当に心から微笑んだ、ように見えた。
「……俺、たった今帰ってきたばっかりなんだけど?」
「知ってますよ。モーゼルから呼び戻したのは私です」
「荷も解いてないし、風呂にも入ってない。……髭だって剃ってないし」
「丁度良いじゃないですか。そのまま行きなさい」
「おい待てよ! 理由ぐらい、言え」
ザックはこの宰相補佐兼宮廷魔術師とは付き合いが長い。幼い頃から一緒に学んで気心も知れているせいか、含むことなくつき合える数少ない「友人」だ。だが「騎士」という道を選んだにもかかわらず、このハーシュという男は権力を笠に着て、ザックを自分の手駒として遠慮なくこき使っている。表向きは「宰相補佐兼宮廷魔術師専属騎士」という訳のわからない肩書きを貰っているが、要は私的な雑用係だ。「騎士なら体力が有り余っているでしょう?」と大陸中を駆けずり回され、そのうえ凡人には理解できないことを調べさせられている。今回のように明らかに重要な案件の調査、というのは極めて稀だった。
特定の若い女性ばかりが煙のように姿を消す──この事件について調べていたはずなのに、モーゼル公の職人魂に触れただけで終わってしまった。なんともお粗末な顛末だ。
だがしかし、全く成果がなかった訳でもない。それを突然切り上げて、別の任務というならばそれ相応の理由があるはずだ。
だというのにこの宰相補佐兼宮廷魔術師殿はそれをたった一言で片付けた。
「事は急を要します」
「理由になってねぇだろ!」
あー、と両手で頭を掻き回せば、まったく仕方ないですね、と呟いてハーシュは優雅に無駄に長い手と足を組んだ。
「私が最近『陣』の研究をしていたことは知っていますね?」
「ああ、図形や文様で魔術を使うってヤツだろ?」
「……そう。まだ火を熾したり、冷やしたり、といった簡単な術しか使えませんが。そら、貴方が今使っているグラスにも刻まれていますよ」
示されたのは、グラスの底だった。ただの装飾かと思ったが、どうやらこれが「陣」というものらしい。
「これで冷やしていた訳か。へぇ、便利だな」
「使いこなせれば、ですね。……これがなかなかに難しい」
「お前がそんなこと言うなんてなぁ」
一見すると単純な図形の組み合わせに見えるが、なんでも冷やす加減や効果の持続を設定するのが面倒なのだそうだ。もっとも、一度設定すれば壊れるまで使えるということではあるので、一長一短といったところか。
難しいというのは、その「陣」が同じでも、使う人間によって効果が全く異なるということらしい。
「俺に魔術の説明をされてもなー。よく使ってる『呪文』とはどう違うのさ?」
「そうですね……一番のメリットは、いちいち『呪文』を唱えなくても、あらかじめ『陣』を描いておけば瞬時に術が発動する、ということでしょうか」
「……それって、『魔石』とどう違うわけ?」
「『魔石』よりも応用が利きます。条件付けをしてやれば、自動的に術を発動させることもできそうですよ?」
にい、と形の良い唇が引き上げられ、薄い水色の瞳が怪しい光を放ちはじめた。
「最近は『物質の移動』についても研究してまして」
「……」
「『陣』を用いて人や物を遠く離れた場所に一瞬で移動させる──理論上は、可能です」
「おい、ちょっと待て。それって……」
ごくり、と喉が鳴った。
何かが繋がろうとしている。まさか、それは──
「それを実証しようとしていたわけですが、まだ完成にはほど遠かった『陣』を、起動して使った者がいましてね」
今やハーシュの瞳は禍々しい紅に輝き、そしてザックの背筋は凍ったように冷えていった。