出立・1
燃え立つような朝焼けに、トゥルネイ山の威容が影となって浮かび上がる。木々の向こうに迫る山肌は朱に染まり、だがみるみるうちに白い靄に隠れていった。
夜にはあれほど盛んに鳴いていた虫の音も今は足下からちらほらと聞こえるだけで、朝を喜ぶ鳥の声に取って代わられている。
夜明け前に眼を覚ましたラウルは、鍛錬のために森に来ていた。
部屋ではカイルがまだぐっすりと眠っていて起こすのは忍びなかったし、この早朝ではまだ武器屋は開いていない。
新しい剣に早く慣れるため、と理由をつけて宿を出たのは、陽が昇るまでの時間をじっと待つことが出来なかったラウルの弱気だろうか。
ポケッキョッキョッキョキョ……
ケキョケキョケキョケキョ……
森の中に、甲高く鋭い鳥の声が響き渡った。
辺りに立ちこめていた霧も薄まり、空もだいぶ明るくなっている。トゥルネイ山地の西側に位置するこの村は山の影に入ってしまうために日の出が遅い。だから村人たちは、毎日この鳥の声で朝を知るのだ。
ラウルも鳥の声にはっとして、夢中で振るっていた剣を止めた。
いささか呆然として手にした黒剣に目を向ける。
確かに長さが足りないことは否めないが、それを補って余りあるほどの素晴らしい剣だった。今朝初めて手にしたばかりだというのにあっという間に手に馴染み、これまでの剣と同様に、己の意思を正確に伝えることができるようになった。
高い金を払っただけの価値はある。
そう認めざるを得ない出来に満足して、ラウルは剣を腰に納めた。顔を挙げ、空の色を確認してから村に向かって歩き出す。
この時間なら、もうあの子も起きているだろう。宿に着くまでにあの頑固者を納得させるだけの理由を考えなければ。
これが目下のところ、一番頭の痛い問題だった。
◇ ◇
「まだ起きてこない?」
「そうなんだよ。どうしたんだろうねぇ」
お腹を壊したりしていないだろうかと、女将が心配そうに階上を見やる。
すでに宿泊客のほとんどが出発し、食堂は人もまばらになっていた。宿の朝は忙しい。あの子は大丈夫だろうかと気にしながらも仕事に追われ、気がついたらこんな時間になっていたのだ。
「今朝方まで変わったところは無かったが……」
「まだ寝てるのかね?」
「今日中に国境まで行っておきたい。……様子を見てくる。悪いが、食事の用意を頼む」
部屋の鍵を受け取り階段を登ろうとして、ラウルは思い出したように付け加えた。
「それと、鶏唐揚げをあるだけ出してくれ」
「……起きているか?」
よもや着替え中ということもあるまいが、念のためにとラウルは手の甲で扉を軽く叩き、拳一つ分ほど開けてから声をかけた。
「ラウル……?」
「入っても?」
「……どうぞ」
朝日の満ちた部屋の中で、カイルはすっかり身支度を整え窓際に佇んでいた。顔を扉の方に向け、長身の男を認めて花が綻ぶように微笑みかけてくる。
夕べのことなどすっかり忘れたように、雛が親鴨を追うように、とてとてと、それでも優雅に寄ってきた。
「おはようございます」
顔色も悪くなく、しっかりとした声にラウルは胸を撫で下ろした。どうやら食べ過ぎて腹が痛んだわけではなさそうだ。
「何をしていた?」
「トゥルネイ山を、見ていました。陽が昇る時って、山の色がどんどん変わっていくんですね。雲も凄い勢いで流れていって、空の色がとても……綺麗」
カイルはまた眩しそうに眼を細め、首を巡らせ窓越しに空を見上げた。
どうやらラウルが出て行って間もなく目が覚めたようだ。それからずっとこうして空を見ていたのだろうか。
「起きてたんなら降りてこい。女将が心配している」
「すみません」
「……謝るな」
「すみません……ここから出ていいものか、わからなくて……」
また一つ謝ると、ぽつりと言葉が零れ落ちた。
なぜ、と開きかけた口を遮るように、カイルはぱっと振り向き身体ごと斜めにして、ラウルを下から覗き込んだ。
「貴方こそ、どこに行っていたのですか?」
「……森へな。剣を慣らしに行っていた」
「えぇ? ……どうして誘ってくれないのです? わたしだってまだ慣らしてないのに、ラウルばかり、ずるい」
「ずるくない。お前はぐっすり寝ていたろうが」
「……起こしてくれれば良かったのに」
口をとがらせ恨めしげな目で見つめられて、ラウルは大きく肩を落とした。微睡んでいたところを無理矢理に起こされて、恨めしいのはこちらの方だ。それでも寝ている子供のすることをいちいち気にしていたら切りがない。どうせ覚えてもいないのだ。指摘するだけ無駄というもの。
ちょうど胸の当たりにある小さな頭に手を乗せて、ラウルは少女を促した。
「さて、行くぞ」
「……どこへ?」
「腹が減ってるだろう? まずは、食事だ」
きょとんと見上げてくる顔に、口の端を引き上げてみせる。案の定カイルは眼を輝かせ、はいと元気に返事をした。
昨夜と同じ席に座った二人の前に、今朝も豪華な食事が並ぶ。
パンに色とりどりのジャムと数種類の白チーズ、ヨーグルトに果物、卵とトマトのスープ、腸詰め、サラダ……そしてカナト。
この時点でも、この子を引き止める未だ有効な手だてを見いだせないまま、ラウルは考えながら食事をした。一方カイルといえば朝から旺盛な食欲を見せ、女将を大層喜ばせている。
子供には食べたいだけ食べさせようと、そう思っていた。だがしかし積み上がった皿を前にして、ラウルは流石に口を出さずにはおれなかった。
「おい、程々にしておけ。……動けなくなる」
「山登りするのですから、たくさん食べておかないと」
そうは言ったものの、カイルは少し考えるような素振りを見せ、果実水を飲むとフォークを置いた。
「でも、ラウルの言う事ももっともですね。腹八分目にしておきます」
「……八分目、ね……」
皿の山を見ただけで腹が膨れてしまったラウルは早々に食事を切り上げ紅茶を飲んでいた。カナトを含め、残った料理のいくつかは、夜用にと包んでもらうことにする。
食べきれないことを悔やむように見ていたカイルは、また夜も食べられると喜んだ。
可愛らしい小鳥のさえずりに、甲高い鳥の声が混じる。
食堂の窓からは目映い陽の光が降り注ぎ、床とテーブルに斜めの格子模様を作っている。その輪郭は時にすう、と薄れ、また元に戻り、これを幾度も繰り返していた。
不意に、鳥の羽ばたく音がした。同時に嗄れた高い声が長く響き、山の方へと消えてゆく。
それが合図となってしまった。
「……もう、お別れですね」
食後の紅茶を口にして、カイルは満足げに目を細めていた。鳥の声が消えた後、ふと思い出したようにそう呟くと、ぎこちなく微笑みラウルに向かって頭を下げる。
「わたしはそろそろ行きます。……お世話になりました」
「──待て!」
席を立とうとしたカイルだが、強い言葉にびくりと首を竦ませた。
咄嗟に上げた右手を握りしめ、ラウルは痛ましげに眉をひそめる。
「──いや、すまない。……もう乱暴はしないから、少し話を聞いてくれないか……?」
ことさら落ち着いた声音で語りかければ、闇色の瞳を揺らしてカイルは再び座り直した。一度ラウルをじっと見つめた後は視線を逸らし、固く口元を引き結ぶ。話を聞くだけ、決心は変わらないと暗にそう言っていた。
「……実は昨晩、依頼を受けた」
静かに告げると、膝に置かれた白い指がぴくりと動く。身を固くしてわずかに俯いた胸元に、依頼主からだ、そう前置きして厚手の紙をそっと差し出す。見覚えのある紙に美しい顔が怪訝そうにしかめられた。
「読んでみろ」
恐る恐るそれを手に取ったカイルは、折られた紙を開いて息を呑む。漆黒の髪がさらりと頬を滑り落ちた。唇が戦慄き、なぜ、と言葉が零れ落ちる。
理解できないというように、何度も何度も文字を追っていた顔が、やがてくしゃりと歪められた。そのまま手紙をそっと畳み、慈しむように胸に当てる。
「どうして──どうしてあの方には、全部わかってしまうのでしょうね……」
カイルは俯き声を震わせた。そして唇を噛み締めながら、溜め込んでいたものを少しずつ、少しずつ吐き出してゆく。
「わたし……本当は、不安でした。ひとりで、ちゃんと行けるのか……って。でもサリフリには、どうしても行かなければならなくて。だから、あの方の剣を持つ貴方が一緒だったらって……そう願わずにはいられなかった。でも──」
──このような状況下では、どういった行動が正解なのだろうか──?
ラウルの両手が宙を彷徨う。
小さく震える少女を慰めたいと思うのだが、どうして良いのかわからない。これが男なら如何様にもできるのだが、少女と知ってしまったら、途端に混乱してしまう。
新しい紅茶をポットに入れて持ってきた女将が、その姿を見るなりラウルの後ろに回って足を蹴った。素人ながら、なかなかに鋭い蹴りだ。
女将は鼻息を荒げて朴念仁の護衛士を睨みつけた。ふんと鼻を鳴らしてカウンターにポットをそっと置き、手を伸ばして震える子供を抱きしめる。身体の強ばりが完全に解けるまで、女将は十分に時間をかけて背中を撫でさすった。それから膝をつくと白い頬に手を当て目線を合わせ、カイルににこりと微笑みかける。
「ね、どうしてこの人と一緒に行くのが嫌なんだい?」
「……怖いのです。一緒にいてラウルに何かあったらって。それにわたしは何も返せない。だから、これ以上甘える訳には……」
「何言ってるのさ、そんなこと気にすることないんだよ。好きでやってることなんだからね。この人にとってはね、坊やが泣いたり怪我したりすることの方が、よっぽど辛いのさ」
勝手に気持ちを代弁されたラウルの眉間に皺が寄る。これで安々と説得されるようなら、誰も苦労はしないのだ。
慈愛の込められた眼でカイルに微笑みかけながら、女将はゆっくりと言い聞かせる。
「……それにこの護衛士はね、腕は立つし大陸中を回っていろんなところに行っているから、連れているとそりゃあ便利なんだよ? 美味しいものも色々知っているしね」
「…………」
闇色の瞳が揺れている。あれほど頑にラウルを拒んだというのに「美味しいもの」の効果は絶大だった。ラウルはぎり、と歯を食いしばる。やはり小動物には餌付けなのか。
涙をこらえるように、潤んだ黒い瞳が一度伏せられた。少しすると、視線が女将からラウルに移される。
「……ラウルは、お兄さんでしょう?」
「ああ、そうだな」
「お兄さんに何かあったら、弟妹が悲しみます。だから……危険なことに、巻き込みたくないのです」
「でもね。護衛士ってのは、坊やについていなかったら安全ってわけでもないんだよ?」
「それは……そうかもしれませんが」
戸惑うカイルに女将が優しく微笑みかけた。流石「母親」だけのことはある。子供の扱いが、断然巧い。
「聞いたよ? 坊や、剣には自信があるんだって?」
「はい。それなりに扱えます」
「だったらこの人を連れて行って、守ってやってくれないかね」
おい、と声を出しそうになったラウルを、女将は視線だけで鋭く制した。
「ね、あんたもそう思うよね!」
振り向きざま、今度は後ろ蹴りが飛んだ。辺境の宿屋においておくには勿体ないほどの、良い蹴りだ。
向こう脛に決まった蹴りに流石にラウルの顔も歪む。
「あ、ああ。そうだな……──っつ!」
それきり黙り込んだラウルのつま先に、踵落しが決まる。何をする、と顔をあげた先では女将が壮絶な笑みを浮かべていた。
まるで熱のない炎を纏っているかのようなその姿に、背中が震えるような恐怖を覚えた。ちりちりと毛が逆立って、悪寒が首筋を這い登る。
逆らってはいけない──雄の本能が、激しくそう告げていた。
「……お、俺のことを、守ってくれないかなあぁー」
ラウルの引きつった顔と声に気付いているのかいないのか──恐らく全く気付いていないだろうカイルは、神妙な顔をして頷いた。
「確かに一人なら、わたしが守ってあげられます。ラウル……ついてきて頂いても良いですか?」
からららん
軽快なカウベルの音と共に閉じた扉の向こうから、宿屋一家の笑い転げる声が聞こえてくる。
憮然としたラウルを余所に、大量の料理を抱えたカイルの足取りは、いたく軽いものだった。