プロローグ
とろりと冷たい闇の中、小さな蛍火がすいと目の前を横切った。
──おじいしゃま
舌足らずのあどけない高い声。
ああ、これは。
遥か昔に失われた、誰より愛しい宝物。こんな真っ暗な寂しい場所に、ずっとひとりでいたのだろうか。
(おお、こちらにおいで。そこは寒い)
呼びかければ光は戸惑うように漂った。しかしすぐに、まっすぐこちらに向かって飛んでくる。
そして差し出した手に触れようとしたその瞬間、蛍火は滲むように消え失せた。
不意にぽかりと目蓋が開いて、老人は目が覚めた。
室内はまだ夜中と言っていいほどに暗く、しんとして物音ひとつない。
(ゆめ……?)
懐かしくも切ない夢を見た気がする。
意識が浮上したと同時に淡く消えてしまったが、なぜかひどく悲しかった。
胸に痛みを感じて瞬くと、こめかみを冷たい水が伝って落ちる。
(涙?……なぜ)
不可解なそれを手のひらでぐいと拭い、もう一度目蓋を閉じる。
起床にはまだ早い、そう思ったのだが眠気はとうに出払ってしまったようで、じっと待っても一向に戻る気配はみられなかった。
仕方なくそのまま眼を開けていると、じわじわと見慣れた天井がわずかな濃淡で浮き上がるように見えてくる。上から下へと視線だけを動かして、梁を数えて眠気に帰宅を呼びかけようとしてみたが、ひとつふたつと数えたところで続きが見えなくなってしまった。
これはもう起きるしかないかと身を起こし、そして老人は右膝の違和感に気がついた。
(目が覚めたのは、これのせいか……)
意識しだすと途端に存在を主張する、この厄介な膝。
顔をしかめながらもそろそろと寝台を抜け出して、底のすり減った革靴を引っ掛け3歩移動し分厚いカーテンをぞろりと開ける。
空は多少明るくなっているかもしれないが、生憎森の奥深くにあるこの小屋にその光はまだまだ遠い。ガラス一面を覆った結露を拳で拭って見てみたが、かすかに濁った窓の向こうもまだ暗い闇の中に沈んでいた。
昨日の朝から一日中降り続いた雨はもう止んだようだがそのぶん今朝は湿気が酷く、肌寒いこの室内でも息苦しさが感じられる。夏の終わり、雨期の到来を告げるこの雨は、山中では下界ほどの気温を伴わないせいか代わりに湿気が身体の奥までじわりと染み入ってくるようだ。
それが、こうして古傷の存在を思い出させる。
身を返してしくしく痛む膝をさすりつつ、窓から数歩の距離にある暖炉の前で膝を立てて腰を下ろし、老人は火を入れた。
若い頃とは違い、火を熾すことは随分と楽になった。暖炉の脇に積んである薪を数本中に放り込み、目の前に転がっている「点火筒」のバネを引き、薪に当てて筒の突起を押すだけだ。これだけで、あっさりと小さな火が立ち上る。
魔術とは、便利なものだ。
だが老人はその便利さに、どこか違和感を覚えてしまう。知人には考え過ぎだと言われたが、これはどうしてもぬぐい去ることができなかった。
新しいものを柔軟に受け入れることができない、これこそが「年をとった」ということだろうか。
そんなことを考えながら老人は白くなった顎髭をゆっくりとしごき、薪にまとわりついた火がじわりと大きくなっていくのを黙って見ていた。
老人は、独りだった。
丸太を組み合わせて造った頑丈だけが取り柄のこの小屋に、たった一人で住んでいる。
小屋の周りは深い森。一番近い村までも、獣道をかき分け歩いて半日ほど。あえて人の手の入っていない、山の中腹のこの場所を選んで移り住んだのが10年ほど前のこと。村に住む武器屋の親父は「いい加減にしとけ」と何度も忠告してきたが、老人にここを出るつもりはさらさら無かった。
──もう、「人」の世界には戻りたくない。
ただそれだけの想いで仕事も家族も友人も、全てを捨ててここに来たのだ。今更戻れるはずもない。
かつて鍛えた筋肉はまだまだ太く張っているし、水を運んでも腰が痛むことはない。ただ右膝だけが、時折針を刺したように痛んで動かなくなる。不具合といえばそれだけだ。
食って寝て、それができなくなったら一人で死ぬ。
鳥も鼠も小屋を訪れる動物たちは皆、そうやって生きている。そこに人間が一人加わることに、どんな不都合があるだろう。
そう言ってやると武器屋の親父は「勝手にしやがれ!」と帰って行ったが、それでも月に一度は訪ねてくる。頼んだ覚えのない酒や煙草、薬、日用品にはては調味料まで携えて。そしてその代わりというように、暇に飽かせて鍛え上げた剣を二つ三つと持ち出していく。
「剣なんて見たくもねぇんじゃねぇのか?」と訊かれたが、嫌っていてもそれしか知らないのだから仕方がない。他の趣味を探すには年を取りすぎていたのだ。
火はだいぶ大きくなり、暖かな光がぼんやりと、室内の輪郭を浮かび上がらせてきた。
暖炉の前にはすり切れた毛織物が敷かれ、そのそばには一人掛けの大きいが粗末な椅子と、小さなテーブルがあった。そして暖炉に向かって左手には寝台と棚があり、その反対側に小さな調理場がある。そして調理場の側にある入り口から寝台までは、10歩も歩かず届いてしまう。ここはたったそれだけの、本当に小さな小屋だった。
老人はまた何度か髭をしごくとテーブルに手を伸ばし、パイプと煙草入れを取って膝に乗せた。慣れた手つきでパイプに煙草を詰め、残りをまたテーブルへと戻す。次いで裂いた紙をひねってこよりを作るとそこに暖炉の火を移し、さらにその火をパイプに移した。それからも二度三度とこよりから火を入れて、ゆっくりと煙草をくゆらせる。これがこの老人の、毎朝の儀式だ。
バネと魔石をつかった「点火筒」なるものが発明されて随分経つが、未だにパイプに使えるものはない。火花を散らして火を熾すのではなく、少しの間消えないでいてくれる、小さな炎が欲しいと老人は思っているのだが。
この山奥に閉じ籠りきりの身には、下界でその願いが叶ったのかは知る由もなかった。
老人が居を構えたこの場所は、アルトローラ帝国の東の辺境、大陸の中央にそびえ立つトゥルネイ山の西側の中腹にあった。そして小屋のすぐ東側に高く切り立った崖があるせいか、朝は多少遅くなる。
だが山の影に入っていても鳥たちは夜明けをちゃんと知っているようで、毎朝律儀にけたたましく鳴いてくれる。それを合図に老人は起き出して、パイプに火を入れるのだ。
今朝は膝の痛みに起こされたが、それでも日課は変わらない。またいつものようにのんびりと池で釣りでもして過ごすか、気が向けば崖のきわに建てた鍛冶場で剣を鍛え、数日寝食を忘れるか、といったところだ。
綿の大分固くなった椅子に深く座り、老人はぼんやりとパイプをくゆらせた。目蓋を閉じて、暖炉の熱を頬に感じながらじっと耳を澄ませていると、いつしか鳥の声が聞こえてくる。一旦森が眼を覚ますとそのざわめきは波紋が広がるように、素早く確実に広がってゆく。昨日の雨で思うように食べられなかったせいなのか、今朝の鳥はヤケに賑々しく鳴いていた。
──ふと、鳥の声が変わった。
ギャアギャアと、何かをしきりに警戒している。
蛇でもいたのだろう、そう思って老人は、ゆっくりとパイプをくわえた口を閉じ、そろそろと息を吸い込んだ。消えかけていた煙草に微かな赤い点が灯り、細く柔らかな煙が立ち上る。これでまだしばらくは楽しめると老人は眼を細め、また背もたれに身体を預けた。
だが、警戒音は森全体に広がっていった。訝しむ老人の耳には小鳥から大型の鳥まで、いや、鳥はおろか動物までの、非常事態を告げる様々な音が飛び込んできた。
小屋の窓も入り口も閉じたままであったから、正確なところはわからない。だがそれでも森全体が張りつめているようだった。それぞれの生き物がそれぞれの方法で警戒を発し、それがしばらく続いたかと思うと不意におさまり──そして、辺りから一切の音が消えた。
風の音も葉擦れも鳥の羽ばたきも止み、耳が痛くなるほどの静寂の中で聞こえるのは暖炉で薪が爆ぜる小さな音と老人の微かな息だけだ。
こんなことはこの場に移り住んでから、初めてのことだった。
「良くないこと」が起こる時には、動物達は真っ先に逃げる。だがこれは違う。ただただじっと身を潜め、まるで「何か」を待っているようだ。
それが一体なんなのか、老人はひどく気になった。
老人はパイプをテーブルの皿の上に置き、ぎい、と床をきしませ立ち上がった。そして床を鳴らして数歩の場所にある、立て付けの悪い扉を開ける。その際に結構な音がしたのだが、動物達はそれに驚いて飛び出したりはしなかった。外に出れば肌をぴりぴりと焼くような緊張感で満ちており、それがますます不思議になって老人は一歩足を踏み出した。
空は明るくなってきたようだが巨木の影になった小屋の周辺はまだ薄暗く、濃い霧がかかっている。身体の周りにねっとりとまとわりつく霧をかき分けながら、老人は木製の階段を下りて顔をあげた。そのまま辺りをぐるりと見渡すが、藍色の濃淡だけでは何が起きているのか全くわからない。
視界の利かない森の中は慣れていても危険だ。小屋の中で動物達のようにじっと息を潜めていようか、そう思ったがどうにも胸がざわめいた。濡れた葉で滑らないよう注意しながらもう少し、と外に踏み出してみると、今度は視界の隅になにやら光るものが見えた気がした。
東の崖、鍛冶場のすぐそばに湧水の池があるが、そちらの方だ。
ぱきり、と枝を踏みしめながら、老人はゆっくりと坂を下る。鍛冶場の前を通って注意深く池の畔に立つころには、その光の全貌が姿を現した。
「蚊柱……? じゃ、ねぇな」
池の左手にある崖の中腹、水底から伸びる大きな岩の上方の、茶色い地肌が見えている辺りにそれはあった。
光の柱だ。
まだここに陽の光は届いていない。しかも濃い霧の向こうにあるというのに、なぜかその光は滲むことなく、はっきりと姿を捉えることができた。池を挟んで見上げる岩の上で、きらきら輝く小さな粒子が不規則に動きながら柱の形を成している。光の粒子は踊るように宙を舞っていたが、やがて渦を巻き、集まってひとつの星になると瞬き始めた。
強く、弱く、脈打つようにゆっくりと明滅を繰り返しながら、星は輝きを増してゆく。
やがてその星はひときわ強く輝くと、身震いするように蠢いた。
眩しさのあまり、かざした手の後ろから様子を伺う老人の前で星からなにかが零れ出る。最初に丸いモノが見え、次いで平たく細長いモノが繋がって出てきた。細長いモノは途中から二つに分かれて細くなり、これはまるで──
「人、か……?」
星からずるり、と頭から吐き出された人間は、崖の上を転がりながら滑り落ちた。と同時に星はまた粒子に戻って散ってゆく。
息を潜め、じっと様子をうかがっていた森が、ほっと息をついたような気配がした。
風がそよぎ、梢はざわめき、鳥が謳う。
あれほど濃かった霧も、いつの間にか薄くなっていた。
星から出て来た人間は、岩の上で斜めに生えた細い木の根元に胸の辺りでひっかかっていた。
濡れた土の上を転がったせいで泥と落ち葉にまみれていたが、寝間着のような服の下から白い足が覗いている。だがその人間は意識がないようで、身体はだらりとしたままだ。
霧が晴れてわかってきたが、その人間の身体は小さく細く、どうも子供のようだった。
(さて、どうしたものか……)
人と関わりたくないと思っていても、これは見過ごせなかった。助けなければ、そう思ったが方法が見つからない。
子供が引っかかっている岩は、丁度池から生えている。池は深いところでも老人の胸までしかないが、下から登ろうにも滑らかな岩肌には足場になるようなものがない。そして岩の周りは急な崖になっており、ここを伝うにも僅かに生えた草木ではとても老人を支えきれまい。更に濡れた足場と痛んだ右膝を抱えていては、子供のそばに辿り着くことさえできないだろう。残るは上から、となるが崖は高く、果てが見えなかった。
どうする、と顔をしかめた老人の耳に、みし、という小さな音が飛び込んできた。あ、と思う間もなく子供の身体が傾ぎ、たわんだ枝が軽快な音を立てて折れ飛んだ。支えを失った身体はそのまま岩を滑り、水音を立てて池に落ちる。
水飛沫が止んだ後には何事もなかったかのように、もとの穏やかな水面が顔を出し──
「こりゃいかん!」
老人は膝の痛みもすっかり忘れ、慌てて池に飛び込んだ。