魔法
あれから半年が経過した。
生後半年を過ぎた今、俺の視界は完全にクリアになり、身体の自由も少しずつ利くようになってきた。
寝返りを打ち、ずり這いを経て、ついに「ハイハイ」という移動手段を獲得したのだ。
自分の意思で好きな場所へ移動できるというのは、赤ん坊にとって革命的な出来事である。
俺は好奇心の赴くまま、グロウリー家の邸宅内を這い回って探索する日々を送っていた。地方の有力者の家なのか、邸宅は木造だがかなり広く、風通しが良い。
そんな俺のハイハイ探索には、常に巨大な影が寄り添っていた。
『グルル……ウォフ』
「あー、うー(わかってる、そんなに離れないよ)」
俺が廊下の隅っこに向かって這っていくと、先回りするように立ち塞がり、鼻先で優しく俺の体を押し戻してくる存在。 大型の狼ほどもある巨体と、銀色がかった美しい毛並みを持つペットのリルだ。リルから発せられる「光の糸」は、とても温かく、穏やかな群青色に見える。
以前、母が隣人のおばさんと立ち話をしているのを聞いたところによると、父・ガルドが冒険者時代、死にかけていたところを拾い、以来家族同然に暮らしているのだという。
近隣の住民からはその巨体ゆえに恐れられることもあるらしいが、俺にとってリルは、最高の遊び相手であり、絶対に俺を傷つけない頼もしい存在だった。
「うー、あー(よしよし、いい子だリル)」
俺が小さな手でリルの鼻面をぺちぺちと叩くと、リルは嬉しそうに目を細め、尻尾を床に打ち付けてバンバンと音を鳴らした。
◆
そんなある日の昼下がり。
母のセリアが俺を寝かしつけた後、急な来客があったらしく、慌てて部屋を出ていった。
俺はとっくに目を覚ましていたが、退屈しのぎに視界を漂う光の糸を眺めていた。
ふと横を見ると、ベッドの端に、分厚い革張りの本が置かれたままになっていることに気がついた。
母が添い寝をしながら読んでいたものだ。
以前、父との会話で「私と一緒に魔法の深淵を研究してもらう」と母が言っていたのを思い出す。
おそらく母は魔法の研究職に就いているのだろう。彼女は暇さえあればあのような難解そうな本を読んでいる。
(……チャンスかもしれない)
俺はもそもそと起き上がり、ハイハイでその本に近づいた。
表紙には、見慣れない幾何学的な文字が箔押しされている。
俺は小さな両手でなんとか本の表紙をめくった。
中は羊皮紙のような質感のページで、びっしりと文字が書き込まれ、ところどころに図形や魔法陣のような挿絵が添えられている。
(……読める)
俺は驚きと共にページを見つめた。 見たこともないはずの文字がすらすらと頭に入ってくるのだ。
前世の記憶は一切ないのに、言語や文字といった「知識」の概念だけは覚えているのか?
だが、文字の読み方や単語の意味はわかるものの、そこに書かれている内容はさっぱり理解できなかったのだ。
(…もっと初心者向けのものはないのか?)
俺はため息をつきつつ、母の置き忘れた専門書をパラパラと適当にめくっていった。
そして、俺はある重要な記述を見つけた。
それは、具体的にどうやって魔法を発動させるのか、そのメカニズムを図解したページだった。
高度な理論の合間に差し込まれた、基礎的な解説らしい。
そこには、大気や大地、生命に満ちるそのエネルギーの名称が記されていた。
(『——大気、大地、そして生命の源たるエネルギー。これを【マナ】と呼称する』か)
マナ…
もしかすると、あの光の奔流はただの光ではなく、マナなのか?
♦
本を読み進めるにつれ、この世界の魔法の仕組みが面白いほど理解できた。
一般的な人間は、大気中にあるマナを呼吸や皮膚から少しずつ取り込み、体内に魔力として蓄積する。この体内に蓄えられる魔力の総量は人によってそれぞれで、魔法を使う際は、その蓄えた魔力を一度「体内」で練り上る—―すなわち構造化し、明確なイメージと「詠唱(呪文)」によって指向性を与え、体外へ放出することで事象を起こすのだという。
(なるほど。マナはそうすぐに体内に取り込めるものではないから、使いすぎには注意が必要なのか。)
だが、マナはこんなにも視界を漂っている。
わざわざ時間をかけて体内に取り込み、自分の魔力として練り上げなくても、目の前にあるこの無数の糸を練り上げればしまえば、魔法は発動するのではないだろうか?
マナの糸を幾何学的に編み込むことで、体内で行うマナの練り上げと同じ事ができるのでは ?
そして、練り上げた外部マナの塊に対して、俺の内側から漏れ出るなマナを導線として繋ぎ、そこから『明確なイメージ』と『指向性』を直接流し込んでやれば魔法は完成するのではないのか。
料理に例えるなら、わざわざ材料を胃袋に入れてから念じて調理するのではなく、目の前のまな板で直接手を動かして調理してしまうようなものだ。
(こういった理屈っぽい考察の癖は、研究職である母親譲りなのかもしれないな)
確かな理論的裏付けを得たことで、俺の知的好奇心は爆発しそうになっていた。
◆
数日後のこと。
ついに待ちに待った、魔法を実践する絶好のチャンスが巡ってきた。
ぽかぽかと暖かい午後、俺は庭の芝生の上で、リルの柔らかい腹をクッションにして座っていた。
周囲には、いつも通り無数のマナの糸が漂っている。
俺は自身の小さな右手の人差し指を立て、目の前を漂う一本の「赤いマナの糸」に意識を集中した。
火属性を帯びたマナだ。
俺は指先を微かに動かし、俺自身の内側から少しだけ漏れ出ているマナを導線として赤い糸に絡ませた。すると赤いマナの糸を動かすことに成功した。
(触れた……! 本当に、大気中のマナを俺の意思で動かせるぞ……!)
とんでもない仮説が実証された瞬間、高揚感で小さな心臓が早鐘のように鳴り始める。
俺は興奮をなんとか押さえ込み、次のステップへと進んだ。
(まずは、糸を束ねて体外で練り上げる……)
赤い糸を、あやとりのように指先でくるくると編み込んでいく。
結び目を作り、密度を高めようとした、その時。
プツンッ。
あっけなく糸が解け、赤いマナは霧散してしまった。
(うーむ……結び目が甘かったか。構造が崩れればマナの練り上げは失敗するらしい)
気を取り直して、もう一度。今度は解けないように、マナの糸をきつく、強固に編み込んでいく。
「あー……(灯れ)」
バチッ!
今度は小さな火花が弾け、熱気が指先をかすめた。驚いて思わずマナを散らす。
どうやら密度を高めすぎたらしい。一歩間違えれば、自分の指先を火傷していただろう。
『ウォン?』
背もたれのリルが、焦げた匂いに鼻をひくつかせた。
(なるほど、力業で固めりゃいいってもんじゃない。構造の安定性とマナの密度のバランス、そして編み目の美しさが重要なんだな)
失敗はむしろ、俺の知的好奇心をさらに煽った。
三度目の正直。過剰な力を抜いて、繊細に、緻密に。
頭の中にある完璧な幾何学模様を、糸の結び目一つ一つで丁寧に構築していく。
(緩すぎず、きつすぎず、完璧な構造でマナを練り上げる……そしてそこに、俺の魔力で『燃焼』のイメージと指向性を流し込む)
寸分の狂いもない球体になるようにマナの糸を編み上げ、繋いだ導線から明確な意思を伝達し、最後の結び目を閉じた。
「あー……(灯れ)」
俺が小さく息を吐き出した瞬間。
ぽっ、と。
俺の小さな人差し指の先で、精緻に編み込まれた赤いマナの糸が実体化し、ピンポン玉ほどの大きさの、温かく可愛らしい炎の玉となって浮かび上がった。
「うー!(できた!)」
熱さはない。ただ、俺の意思に従ってチロチロと燃える小さな炎。
『ウォン』
背もたれになっていたリルが、鼻先を近づけて不思議そうにその炎の玉を嗅いだ。
俺は初めて自分の意思で魔法を成功させた喜びに浸っていた。
この世界で自分の力で何かを生み出した、初めての成功体験だった。
「あら、エドガー。リルと大人しく遊んで……」
その時、背後から母・セリアの穏やかな声が聞こえた。
振り返ると、洗濯物の籠を抱えた母が庭へ歩いてくるところだった。
(やばい、見られる!)
まだ赤ん坊の俺が魔法など使えれば、どう思われるかわからない。
俺は慌てて炎の玉を消そうと、編み込んだマナの糸を解こうとした。
しかし、初めて編み上げた完璧な構造は、焦れば焦るほど強固に結びついて上手く解けない。
母の視線が、指先に浮かぶ不自然な炎の玉へと向かいかけた――その瞬間。
パクッ。
『……モグモグ』
背もたれになっていたリルが突然首を伸ばし、俺の指先の炎の玉を一口で丸呑みにしてしまったのだ。
「あー……(えっ?)」
『ウォフ(ゲップ)』
リルは口の端から一瞬だけ小さな煙を吐き出すと、何事もなかったかのように俺の頭をペロリと舐めた。
「もう、エドガーったら。リルに変なもの食べさせないの」
母はくすくすと笑いながら、俺をそっと抱き上げた。
どうやら母には、リルがただの虫か何かをパクっと食べたようにしか見えなかったらしい。
ホッと息を撫で下ろす俺の隣で、リルは得意げに尻尾を振っていた。
その群青色のマナの波長からは、「お前の秘密は守ってやったぞ」という悪戯っぽい感情が伝わってくる。
こうして、俺の初めての魔法は、頼もしい魔獣の相棒との『二人の秘密』となったのだった。




