88話 夜景飛行 with デーモン
元の世界へ帰りたいのか、この世界へ残るのか――そんなことより、夫へ伝えなければいけないことがある。
「ドラグ様、私……」
きっとこの先揺らぐことのない想いを、いま、口にしなければ――。
『あーあ。悪魔の【誘惑】、解けちゃったかぁ』
ピンク色の霧が晴れかけた頭に、マイク越しのため息が響いた。
『まっ、軽めのヤツだったしねぇ』
悪魔の姿になったミレイユの膝に、ふん反り返るように腰かけたワチ。彼は、『廃ゲーマーならトーゼン分かるでしょ?』と挑発してきた。
悪魔のスキル【誘惑】。
群衆を襲っていた、あのピンクの泡に触れれば、抑圧していた欲望を引きずり出されてしまう。
たしか、人型種族にのみ有効だったはずだが。
ドラグはかかっていなかった、ということは――。
「迷いのある人間だけがかかる……とか?」
肩を支えてくれている夫の声に、顔を上げた。
「それ、ですわ……!」
元の世界へ帰りたいという思いを、【誘惑】の力で引き出した。
そうだとしたら――転生者だらけの都で勝負するなんて、不利すぎる。
『本番はこんなものじゃすまないよ』
本選では、圧倒的差で勝つ。
覚悟しておいて――そう宣言したワチを睨みつけると。苛立つほどに無邪気な笑顔が返ってきた。
『扉は、何を犠牲にしてでも開かせるからね』
“故郷”へ帰ること。
それが、この世界に転生した彼の願い。
「でも、都知事は貴方ではないのですよね?」
『まぁね。キミの知ってる人だけど』
「知り合いって……まさか」
“サキギリ”のファミリーネームで知り合いなんて、1人しか思いつかない。
しかし今は、何かを考えようとするだけで倒れそうだった。ドラグのおかげで【スキル:誘惑】が切れたとはいえ、まだ身体がだるい。
「エメル……いったん帰ろう」
無茶をした前科が何犯もあるせいか、有無を言わさず黒い腕に抱えられた。
『うん、そうした方がいいよ』
頷くワチは、彼を抱える悪魔に何か囁いている。
やがてワチを腕に乗せたミレイユは――こちらを無言で見つめながら、選挙カーの上で翼を広げた。
「……ミレイユ」
「…………っ」
彼女は応えない。
穴だらけの灰色の翼を羽ばたかせ、扉がある神域の方角へと消えていく。
「もう、君の実家には戻れないね」
「ええ……どこか宿を探しましょう」
まだ呆然とする群衆――同担女性たちをかき分け、ホテル街の方へ向かった。ドラグにしっかりと抱えられたまま。
「……ミレイユ、どうして」
ワチはともかく。ミレイユは、この世界の固有種だ。それに何より、エメルの乳母だったというのに――それとも本当の顔は、ワチに仕える神官だったのだろうか。
彼女が生まれた時から、ずっと――?
偽物の海辺が眺められる、ホテルの上階へ着いた後も。考えることを止められなかった。
私とミレイユの間に、特別な思い出があるわけではない。
ただ、不思議だったのだ。
なぜ、ワチに仕える神官が、エメルレッテの乳母をしていたのか。
なぜ、ワチは“扉を開くスキル持ち”を、私が知っていると思うのか。
「……っ」
だめだ。スキルを受けた後遺症か、頭がぼうっとする。
「ごめん。僕も少し寝ていいかな?」
「……もちろんですわ」
ドラグに抱えられるようにして、ようやく2人で寝られる大きさのベッド。
夫は慣れないことをして疲れたのか、早速うとうとしている。
「……“推し”の演技、お疲れ様」
正直、同担女性たちに嫉妬するくらいの尊さだった。あれこそ、擬人化した“理想のドラグ様”と言える。
でも――今目の前にある、幼い寝顔は私だけのもの。
「……って、違う違う!」
今は選挙のことだ。
神王陣営は、ミレイユによる“広範囲のチート能力”で民意を動かせる。本選でまた同じことをされたら、人族はみんなサキギリ家に投票するだろう。
出稼ぎや留学で都内にいる魔族は多いが、それでも数は到底及ばない。
票数差で、圧倒的に負ける可能性がある。
私の右目――【能力鑑定】を使って、解除スキル持ちを探すという手もあるが。
そんな稀少スキル持ちが、すぐに見つかるとは限らない。ましてや神官に対抗できるほど、広範囲な解除をできるはずがない。
「打つ手なし……か」
眠るドラグの邪魔にならないよう、静かにため息を吐いた、その時。
「……大丈夫、だよ」
くすんだ色の唇が、かすかに動いた。
「えっ、起きていらっしゃったのですか……!?」
「ちょっと休んだら……“彼ら”を、呼んでおく……から」
だから、選挙のことは心配ない――かすかな声が途切れ、夫は寝息を立てはじめた。
本当に限界みたいだ。
でも、「彼らを呼ぶ」って――?
首を傾げた、その時。
今度はコツコツ、とノック音が響いた。
「え……?」
窓の方からだ。
ここは10階。誰がベランダに居るというのか――。
ドラグからそっと離れ、おそるおそる窓へ近づくと。
「お嬢様」
ガラス越しに頭を下げたのは、ピンク肌に翼の生えた美女――悪魔化した状態のミレイユだった。
「……ミレイユ、どこへ行くのですか?」
突然、ホテルの窓辺へ現れた彼女は――「散歩に参りませんか?」と提案して以来、口を閉じたままだ。
竜化したドラグに乗るのとは、また違う安心感がある。人間女性より一回り大きい彼女に抱えられたまま、数日ぶりの夜景を見下ろした。
「お嬢様……いえ、匡花」
やはり、平坦な声。それでも、どこか気遣うような空白を感じた。
「我々神官は、存じております。あなたの中身について」
「……でも」
20年間お世話をしていた“お嬢様”とは違う、異世界の人間。それが今のエメルの中身だ。
それを知った乳母ミレイユは、寂しそうに見えたが――あれは演技だったのだろうか。
「グロウサリア家からの見合い話を受けた時。お嬢様の身体には、匡花の魂が入り込む予定だと存じておりました」
相変わらず濃淡のない声に、全身が震えた。
「待って……それじゃ私は!」
盛大な勘違いをしていたことになる。
“エメルレッテ”という人間の前世が、“匡花”なのだと思っていた。
時渡人の最初の言葉――「其方の魂をこの世界へ運んだ」を、私は「転生」と捉えたのだから。
「そうだよね?」と呟きつつ、暗いオレンジの瞳を見上げると。
「いいえ。あなたは魂だけの“転移者”です」
轟くような風の音が消えた。
転移者――その言葉だけが、真っ白な頭に残る。
「元の私の身体は、ほんとに生きてるってこと……?」
シオンにいた頃に見た、集中治療室の風景。
昏睡状態の匡花を囲み、「絶対に諦めない」と言っていた両親の涙が脳裏に浮かぶ。
「じゃあ、この時渡人っていうのは……?」
この身体に最初から存在した、もう一つの魂。
彼女こそが、この身体の本当の持ち主。
エメルレッテの魂なのか――?
「……時渡人。そうですか。シャーロットお嬢様はそう名乗られたのですね」
「シャーロット……?」
初めて聞く名前に、眉根を寄せると。
ミレイユは羊のような巻き角を赤く光らせ、ため息を吐いた。
「長く屋外にいては、お身体にさわりますね。元々虚弱であられますから」
「あ……」
そうだ。
最初の頃。エメルレッテが虚弱体質だと、ドラグは乳母から聞いたと言っていた。
「もし、よろしければ」
何もしないから、エメルレッテの実家へ戻っても構わないか――ミレイユの提案に、少し迷ったすえ頷いた。
いくら選挙で対立しているとはいえ、彼女が最初に見せた、“エメルレッテへの気遣い”が偽物だとは思えない。
半日ぶりに戻った実家のリビングは、誰もいなくても明かりがついていた。
こんな広い空間で、ミレイユはひとり、ここを守っていたのか――。
「どうぞ。お嬢様がたの大好きだったお茶です」
温かい紅茶、ハチミツ入りで甘い――ただ、頭を完全に緩めてはいられない。
「……こちらをご覧ください」
ミレイユが鋭い爪で広げたのは、革の表紙付きのアルバムだった。元の世界ではお馴染みの、現像された写真。そこに映るのは、笑顔で頬をくっつける少女がふたり。
エメルレッテと、それから――。
「待って……エメルレッテが、ふたり……!?」
思わずひっくり返しそうになったカップを押さえ、ミレイユをまっすぐ見ると。
彼女は「双子だったのです」と、静かに言った。
「こちらが姉君のシャーロット様、そしてこちらが、あなたの身体……妹君のエメルレッテ様」
瓜二つすぎて、見分けがつかない――。
いや。それより。
先ほどミレイユは、私の中のいる時渡人を“シャーロット”と呼んだ。
まだ事実を飲み込めないうちに、ミレイユは羊角を光らせる。
「“ある目的”のため、お嬢様がたは、匡花の魂を連れてくる計画を立てました」
「ある目的……?」
時渡人のシャーロット。
そして、この身体の持ち主エメルレッテ。
彼女たちの計画とは――。
「神王ワチの計画を阻止すること。つまり」
「異世界への扉、開きます」――アレを阻止するため。
ミレイユは変わらず、赤黒い唇で淡々と告げた。
「そんな……」
何も知らなかった。
いや、知らされていなかった。
ただ――私は、時渡人の思惑の断片を、たしかに聞いていた。
『其方は「真の役割」へ近づきつつあります――「ワチ」、この世界の神王と邂逅したのですから』
元の世界と意識が混線した時、彼女はそう言っていた。
そうだ。
私、聞いていたんだ――。
「この2人の目的は……ワチの計画を止めること」
そうだとしたら。まったく別人の魂が、ふたつもこの身体へ宿っていることになる。
そんな奇妙な状況を作り出した意図は、いったいなんなのか――異世界から私を連れてきて、いったい何をさせようというのか。
震える声で訊ねても。シーリングライトの光を浴びる悪魔は、答えなかった。
ただ、「その身体はエメルレッテのものに間違いない」とだけ口にする。
するとエメルレッテ自身の魂は、どこへ消えたというのか。
「……でも」
ひとつだけ、分かったことがある。
ワチが探しているのは、きっとこの時渡人なのだ。
どういうわけか、彼女が私と関係していると、ワチは最初から知っていた。だから東京タワーでのディナーの時、訊いたのだ――『キミと瓜二つの顔をした女性を知らないか』、と。
扉を開く最後の鍵。
それが、シャーロット――。
「……っ!」
「匡花……?」
いきなり、目の前が青く歪んだ。
冷たい空気の中を飛行することが多いせいだろうか――トウキョウトへ来た頃から、体調が悪くなることが多い。
「温かい紅茶を飲んでください。それから、ホットサンドを今――」
「それより何か……フルーツをお願いします」
ミレイユは一瞬動きを止めた。こちらに向き直った彼女は、「果実は身体を冷やします」と真顔で言う。
「でも、どうしてもフルーツが食べたくて」
こんな時に何を言っているのか、自分でもよく分からない。ただ、身体が欲している気がする――そう告げると。
「……承知しました。魔結晶リンゴを剥きましょう」
今夜は無理をさせた――ミレイユは私を毛布に包んだ後、キッチンへと消えていった。
それからの彼女は、無言だった。
山のようなウサギさんリンゴを頬張る私を見つめたまま、背筋を伸ばしてソファに腰かけている。
そして不思議なことに、リンゴを食べるほど、めまいは治っていく。
「……ミレイユ、ありがとうございます」
「いえ」
悪魔族の主要キャラの中に、彼女はいなかった。
ゲームとは似て非なる、この世界――神官の彼女の仕える神王ワチは、このシビュラに何の思い入れもないのだろうか。
だから、この世界を枯らすことになっても、元の世界への扉を開こうとしているのか――。
「食べ終わったのなら、車で送ります」
飛行は身体に障るから――そう言って、ミレイユは立ち上がった。
この車で観光しているときは、まさかミレイユの本性が悪魔だとは思いもしなかったが。
神官の彼女は、ワチが「扉の鍵」を探していると知っているはず。
その上で、私の中に時渡人がいることも知っているということは――。
「……あなたはどちらの味方なのですか?」
部屋のバルコニーまで送ってもらった後。
背を向けた彼女へ、いま最も大切な疑問を投げかけると。
「最初から、私はどちらの味方でもありません」
相変わらず淡々とした声を残し、彼女は虫食いのような翼を広げた。
月のない夜へ、悪魔が飛び去っていく。
「どっちでもない……か」
ただ、1ヶ月後の投票日。彼女はきっとワチの指示に従い、スキル【誘惑】を使うだろう。
役目は果たすが、余計なことは言わない――それが彼女なりの「中立」なのだ。
選挙まで、もう残り少ない日々。
【誘惑】への対策を立て、何としてでも「扉壊そうマニフェスト」の支持者を増やさなければ。
両手で頬を軽く叩き、少し速い胸に手を当てた。
「……聞いてる? あなたの目的とは関係ない。私は、私がそうしたいから」
大好きな幻想種たち。そして“人生の推し”が生きるこの世界を、何としてでも守ってみせる――。
次回:「あるのです! 自然に【誘惑】を防ぐ方法が」
エメルと夫竜の考えを合わせた、悪魔の“チートスキル”に対抗する手段とは……?
その一方。
「私とのデートに付き合ってくださいませんか?」
エメルの前に現れたのは、夫婦仲を乱す、あの神官。
ふたりきりの『雑司が谷霊園』で、彼が語る真実とは――。




