83話 新婚旅行(ガイド付き)
乳母であるミレイユ以外、リビングには誰もいないはずなのに――階段の手すりの隙間から、話し声の聞こえる方をそっと覗くと。
「……ええ、旦那さまもご一緒に」
誰か来ているのか――いや、声はミレイユのものしか聞こえない。電話のようなもので話しているみたいだ。
食事の時とはまるで違う、無機質な声だった。
「……いえ、それは分かりません。今のお嬢さまが、元の世界へ帰りたいと思っているのか」
元の世界――?
思わず漏れそうになった声を、必死に呑み込んだ。
ミレイユは、いったい誰と話しているのか――鼓動が速すぎて、全身が小刻みに揺れる。
そんな中、胸の中でうごめく小さな熱を感じた。
「この感じ……」
私の中に棲む、もう一つの魂。
私の魂をこの世界へ運んだという時渡人が、何かを言いかけたのだ。
「ねぇ、どうしたの……?」
リビングで何者かと話すミレイユに聞こえないよう、小声で問いかけるが――返事はない。
トロイカの地下牢で、アレスターに押し倒された時。それから、「ミレイユに会え」と言ってきた幽霊少女と、最初に接触した時。
あの時も、時渡人は何か言いたそうにしていた。
そういえば、最後に彼女を見たのはいつだったか。
「元の匡花」に戻る可能性と、「エメルレッテ」として今の世界を生きる未来、それを天秤にかけろ――そう言われたのは、私の意識が元の世界と混線した時。
もう、しばらく前のことだ。
黒いダリアの花束を携えた花嫁――彼女自身が何者なのか。
何のために私の魂をこの世界へ運んだのか。
彼女は、肝心なことは何も教えてくれない。
「……ずるいよ」
自分でも聞こえないほどの声で、呟いた瞬間。
「ミレイユ……?」
リビングのソファに、誰の姿もないことに気がついた。
いったい、どこへ行ったのだろうか。階段を駆け下り、キッチンの方へ向かおうとしたところ。
「お嬢さま?」
背後からの声に、肩が揺れた。
おそるおそる振り返れば――目の前にいたはずの彼女が、背後に立っている。
「え……」
喉に力が入らない。
「なぜ、ここに?」
電話で話していた時と同じ、無機質な声。
能面のような“無”に対し、瞬きもできないでいると。
「……もう〜、そんなところにいては風邪をひきまぁす!」
「え……?」
突然の豹変ぶりに、言葉が出ない。
ミレイユは、私が寝ぼけて部屋から出てきたと勘違いしているみたいだ。
気がつけば、見た目通り力持ちの彼女に抱えられていた。
「ミレイユ……私、もう子どもではありませんが」
「お嬢さまはおいくつになっても、私の大切な“お嬢さま”で〜す」
私を抱える腕は、最初のハグの時みたいに優しい。
さっき彼女を怖いと感じたのは、気のせいだったのだろうか――それでも、顔を上げることはできなかった。
見てはいけないものを見てしまう気がして。
部屋の前まで送ってくれたミレイユは、しっとりした笑顔で「おやすみなさい」と囁いた。
「……おやすみなさい」
ゲストルームに戻ると。
うとうとしていたドラグは、「どうだった?」とこちらに寄ってきた。
「結局、何も話せませんでした……でも」
『まだ分かりません。お嬢さまが、元の世界へ帰りたいのか』
あれは、誰と話していたのだろうか。
それだけではない。私がドラグを連れて来たことを、その誰かに報告しているみたいだった。
リビングで聴いたことを、夫にすべて話すと。
「だったら、まずは彼女を探ってみない……?」
「えっ、でも!」
何となく、彼女は鋭い気がする。
「大丈夫。建前を作っておけば」
「建前……?」
確信めいた黄金眼に、ただ頷くしかできなかった。
翌朝。
観葉植物の水遣りをしているミレイユに、ドラグは「お願いがある」と声をかけた。引きこもりだった頃からは、想像もできないような微笑みで。
「Oh! 『新婚旅行』ですか? でも〜」
トウキョウトの観光は、私にとって何の特別感もないのでは――そう心配するミレイユに、「私からもお願いします」と念を押した。
今の私に、20歳までエメルレッテとして生きてきた記憶はない。そう伝えると。
「やはり、そうでしたか……」
ジョウロに視線を落とした彼女は、静かに微笑んだ。
「……ミレイユ」
「さぁさ、観光の準備をしてきますよ!」
部屋に戻る彼女を見送った後。
控えめながらも、すっかり力加減を覚えた手が肩に触れた。
「大丈夫かな、彼女」
「……おそらく」
エメルレッテが生まれた時から、ずっと世話をしていたというミレイユ。
これまでの思い出が私の中から抜け落ちていると伝えるのは、あまりにも酷だっただろうか――でも、いつかは分かることだ。
「はぁはぁ……それでは、参りましょう!」
息を切らしながら戻ってきた彼女は、玄関前に巨大バスケットと水筒を並べはじめた。観光というより、ピクニックの準備みたいだが――演説の時に使っていた近未来カーのトランクに、荷物を軽々と積み込んでいる。
「ドラグ様」
「うん……」
ファンシーなお菓子を思わせる外見、「お嬢様」への愛情に満ちた笑顔。そこに疑うところなどないはずだった。
さっきの、エメルレッテとの思い出を惜しむような反応だって。
でも――昨晩の彼女が見せた、無機質な表情が忘れられない。
「さぁさ! トウキョウト観光といえば、アレは外せませんね〜?」
最初にミレイユが車を走らせたのは――「7」のロゴが目立つ、小さな平屋の前。
「ここってまさか……コンビニ!?」
「年中無休のありがた〜いお店ですよ!」
店に入ったミレイユは、さっそくカップ麺らしきものを大量に抱えている。
「そんなに買うのですか!?」
「私、これには目がなくて……あっ、お嬢さまも召し上がります?」
懐かしい――カップ麺の出来上がりを待ちながら、『幻想国家シビュラ』を進めていた日々。
仕事で辛いことがあった日も、画面の中の“推し”は待っていてくれた。
「……エメル」
同じ声。
でも、画面越しよりずっと近くて、確かな声色――顔を上げれば、夫にそっと手を引かれた。
「前の世界のこと、思い出してたの……?」
蛍光灯下でも映える黄金眼が、黒髪の隙間からのぞいている。
私の迷いを追及するかのように。
「あ……」
そうだ。
この場所は、何もかも同じではない。
隣にはドラグがいて、店の中には人間以外の種族がいて――ここは「東京都」ではなく、「トウキョウト」。
「そろそろ、次の場所へ参りましょう〜」
大量購入したカップ麺の袋を抱え、ミレイユは自動ドアをすり抜けていった。
「もうちょっと見たかったけど……僕たちも行こう」
品物や店員の制服にまで視線を配ったドラグは、私の手を引いて店を出ていった。
やはり、夫は不安なのだろう。
私が元の世界を懐かしむたび、視線が鋭く尖っていく気がする。
「次はぁ、トウキョウタワーでございまぁす」
「やっぱりあるのですか……!?」
エメルの実家からは見えなかったが、確かに存在しているとミレイユは言う。
やがて彼女が車を止めたのは、赤く光る電波塔の真下だった。
「さぁ、展望エリアへGOです!」
「えっ……待って! 今元の姿に……」
突然焦り出したドラグに、「人型種族以外は入場禁止です」と、ミレイユは笑う。
たしかに。展望デッキに竜が入ったら、床が歪むかもしれない。
「どうしたのです? ドラグ様」
「別に……」
顔が青い。しかもエレベーターに乗り込んでからというものの、尻尾を私の身体に巻きつけて離さない。
高所恐怖症――?
そんなわけないか。
トウキョウタワーのてっぺんよりも、ずっと高い場所を飛んでいる種族なのだから。
しかし、いざ展望エリアへ向かうと――ドラグの震えが目に見えてひどくなった。
「空なんていつも飛んでいますよね?」
「だっ、だって、この姿の時にこんな上までいったことないから……」
震えながら抱きついてくるドラグに、思わず笑いそうになった。
夫は本当に強くなったけれど、臆病なところは変わりない――それが愛しくて、ついガラスの床があるところまで連れて行きたくなる。
「あちらをご覧くださ〜い!」
絡みつく夫竜をくっつけたまま、ミレイユのもつ双眼鏡をのぞくと。
北方のブルームーン・トロイカにそびえる雪山が見えた。
「あれ? どうして……」
ここは「移動都市トウキョウト」の中――ドームに投影された、魔法の青空しか見えないはずなのに。
「都市が向かう方角に合わせて、外部のカメラ映像を天井に反映しているんです」
「そこまで……!?」
今更だが。中に居れば、この都市が動いている実感すらない。本当に不思議な場所――シビュラから浮いた、高度な技術を持っている。
やはりこの都市は、“転生者が造った異物の都”なのだ。
「あっ、アレは……」
大陸中央にあるはずの、建物から木まで白い都、「神域」が遠くに見えた。
あの場所はよく覚えている。
ゲームも古参になった頃の私は、上位100プレイヤーにしか与えられない“神王”の座を手にしていたのだから。
「でも、なんか違うような」
神王の住まいである神殿が見えないのだ。ビルよりも高くそびえ立つ、灰色の扉に遮られて。
「あれは……」
ミレイユの声が途切れた。
双眼鏡から顔を離せば――彼女は昨夜と同じ、“無”になっていた。
彼女は知っているのだろう。
天を貫くような扉が何か。トウキョウトで何が起こっているのか。
しかし――目尻を下げた彼女は、「新たな城壁を建築中です」と微笑むだけだった。
扉とは言わない。でも――間違いなくあれが、「扉、開きます」の公約に関係しているのだろう。
双眼鏡を支える彼女に向き直り、深く息を吸った。
いきなり本題へ踏み込むより、まずは彼女自身について知ろう。
「ミレイユは、どうして都知事の秘書を?」
自分の乳母だったのでは――そう、問いかけると。ミレイユは何度か目を瞬かせたあと、「元々サキギリ家に仕えるものですから」と答えた。
展望エリアに入った時よりも、落ち着いた調子で。
「あそこのお屋敷が見えますか?」
虹色の爪が指す先には、上空からでも分かる豪邸が建っている。
エメルの実家も大きいと思ったが、レベルが違う。上野公園のあった場所一帯が、サキギリ家の敷地になっていた。
トウキョウトを支配するサキギリ家。
神域にそびえる扉――その思惑の内側にいるはずのミレイユ。
彼女が核心を逸らすのは、私がもう“エメルではない”からだろうか。
「エメル……」
ドラグの冷たくも温かい手が、手のひらに触れた。
高所に連れてこられて、まだ震えているのに。
私のことを案じる視線と熱に、身体のこわばりが解けていく。
「お嬢様、そろそろ帰りましょう。旦那様が不憫です」
「……ええ」
これ以上は、ここでは聞けない。
それでも――。
トロイカの魔族の行方を確かめるため。
あの“扉”の正体を知るため。
彼女の、本当の顔に踏み込まなければ。
実家のゲストルームに着いても、夫の手が腕から離れない。
「あの、ドラグ様? もう地上へ降りたのですが」
意外にも、人型の時は高所恐怖症だと判明した夫竜。エレベーターから帰りの車まで、ずっと密着したままだ。
「……あ、ご、ごめん!」
まったく無意識だった――そんな声色と表情で手を離した夫に、目を瞬かせた。
そんなに不安なのだろうか。
転生者の私が、いつか姿を消すのではと。
「それで、ええと……なんだっけ?」
ベッドに腰を落とした夫は、出会った当初のように目を泳がせながら言った。
神域に建設中の“扉”。
エメルの両親と仕事仲間だったサキギリ家――。
新婚旅行と称した観光の最中、分かったことがいくつかある。
「とにかく、一度トロイカの方へ報告しておきましょう」
トロイカで消えた魔族のことは、まだ分かっていないが。ひとまず状況だけでも知らせておこう。
旅行鞄から、紫の結晶石――もとい中継器を取り出し、さっそくコールすることにした。
ブルームーン・トロイカで報告を待つ、領主の吸血鬼夫妻へ――しかし。
結晶石に語りかけるより早く、耳をつんざくようなチャイムが鳴り響いた。
「うっ……!」
「エメル、大丈夫……!?」
人族より聴覚が鈍い竜人は、耳すら塞いでいない。
『トウキョウトの皆さま、夜分遅くに失礼しまぁす』
この声――まさか、ミレイユだろうか。
「皆さま」ということは、都市全体に、この盛大なアナウンスが流れているのだろう。
『トウキョウトが、神域へ到着いたしました〜! ここで個人のお呼び出し』
エメルレッテ・グロウサリア――スピーカー越しのミレイユが口にしたのは、私の名前。
しかも。
神王ワチが、トウキョウタワーで私を待っているという。
「まさかっ……」
昨晩、ミレイユが通話していた相手――それは、ワチだったのだろうか?
次回:「これが『幻想国家シビュラ』のイベント・ランク1位常連の実力ってやつ?」
神王ワチの正体、そしてトウキョウトの真実が明かされる――“ランク上位者ディナー”開幕。
エメルに迫る、選択とは……。




