82話 『エメル』の記録
初めて会うはずなのに、『エメルレッテ』の乳母の胸は心地良い。
寒冷地の飛行で弱った身体が、少しずつ癒えていく気がした。
「貴女は……?」
涙のにじむ目をこすり、静かに問いかけると。
「No、お嬢さま! このミレイユをお忘れですか〜?」
赤ちゃんの時からお世話していたのに――眉を下げる女性を前にして、目を見開いた。
ミレイユ。
トロイカの地下牢に棲む幽霊少女が、「訪ねなよ」と言っていた人。
エメルレッテの乳母だったのか。
包帯で顔を隠していた少女が、なぜ私の素性を知っていたのか気になるけれど――今はミレイユが何者かを確かめなければ。
「角がご立派なそちらは、グロウサリア卿ですね〜」
「……お久しぶりです、ミレイユさん」
彼女の勢いに押され気味の夫は、私の耳元に口を寄せた。
「彼女のこと、すっかり忘れてたよ……」
選挙カーの上で演説していたのが、エメルの乳母だとは気づかなかった――夫の言葉に、「仕方ない」と囁き返した。
まさか乳母がそんなことをしているとは、夢にも思わないだろう。
「どうぞ中へ〜、もちろん泊まっていきますね?」
「はい、お世話になります」
頭を下げると、また「他人行儀ですね!」と言われてしまった。
そうか。彼女とエメルは親子みたいな関係――もっと、親しさを演じないと。
「さぁさ、こちらへ!」
高級旅館のような、ガラス張りの玄関を通り抜けると。観葉植物の並ぶ、吹き抜けのリビングへ通された。
エメルレッテの実家、広い――ドラグが「ご令嬢」と言っていたのは本当らしい。
フロア中央のソファに腰かければ、体格のわりに足取りの軽いミレイユが、紅茶のセットを運んできてくれた。
「いかがです〜、グロウサリア卿? お嬢さまのご両親は亡くなられていますが、彼女には都知事の“サキギリ家”がついております」
幼いころから、不自由ない暮らしが保障されていた――ミレイユは誇らしげに胸を張っているが。
今、サキギリ家と言っただろうか。
「待って! ではイオと私って……」
「Oh! 坊ちゃんとは、もう外の世界でお会いになられたのですか?」
「坊ちゃん……?」
目を丸くするドラグに、ミレイユは紅茶カップを差し出しながら答えた。
イオ・サキギリはエメルレッテの幼なじみだと。
「でも、彼はそんなこと一言も……」
とっさにドラグの方を見て、「聞いていたのか」と訊ねたが。彼は慌てて首を横に振った。
「……そう、ですわよね」
イオと顔を合わせた時のドラグの反応は、そんな感じではなかった。
「坊ちゃんが正体を明かさなかったのは、記憶を取り戻したお嬢様が混乱しないようにですよ〜」
“転生者”としての記憶。
何気なく発したミレイユの言葉に、頭が真っ白になった。
「転生者って……?」
夫の声が、少し遠くに聞こえる。
私が前世の記憶を持ち、エメルレッテとして振る舞っていたことは、最大の秘密だった――混乱を招くと思ったから。
「そんな……」
だから、記憶を取り戻した結婚式翌日。私は涙を拭って誓ったのだ。この世界では、エメルレッテとして振る舞うと。
それなのに――こんな簡単に、ネタバラシをされてしまうなんて。
「……そうなんですか。人族にとって、前世の記憶がよみがえるのは当たり前の現象なんですね」
「え……?」
ドラグの声に、遠のいていた意識が引き戻された。
今、当たり前と言ったのだろうか――。
顔を上げた先で、ミレイユと夫はのんびりカップを傾けている。
「Yes! でもお嬢さまは記憶の回帰が遅かったので、きっと混乱されたことでしょうね〜」
これは、どういうことなのか――。
私という例があるのだから、この世界に転生者が存在することは分かっていたとして。
「人族には当たり前の現象」ということは――「人族は“みんな転生者”」ということなのか?
震える声で問いかけたところ。
「Yes!」と、ミレイユは声を高くした。
「そんな、ことって……」
カップを持つ手が、小刻みに震える。
自分が特別なのだと思っていた。
どうしてこの世界には、ゲームにはいなかった“人間”がいるのか――最初は不思議に思ったが。
「君は、いつ前世の記憶を取り戻したの?」
そんな簡単に問われても、言葉が出てこない。
これまで私は、ドラグを騙し続けてきたのだ。
彼だけではない。当家の執事アレスターも、シオンのみんなも。
「エメル、どうした――」
「どうしてそんなに普通なのですか……!?」
“エメルレッテ”だと思っていた人の中身が違ったら、気持ち悪いとか、怖いとか思わないのだろうか。
「……っ」
ダメだ。
自分から訊ねたのに、顔を逸らしてしまった。
寒気がして、唇が勝手に震えてしまう。
「……っ、すみませんミレイユ」
少し、ドラグと二人きりにしてもらえないか。
震える声で、そう言うと。
ミレイユは何度か瞬きをした後、「中庭の散歩へいってらっしゃ〜い」と、どこか寂しげな微笑みともに送り出してくれた。
実家の中庭は、海外のリゾートホテルみたいに豪華だ――でも、今は観察する気になれない。
「……エメル、本当にどうしたの?」
まだ具合が優れないのか――尻尾を下げたままの夫を目にすれば、罪悪感がより募る。
ドラグと「本当の夫婦になる」と決めた時から、隠し通すつもりでいたのに。
「私、ずっとドラグ様に嘘をついていたのですよ?」
「え……?」
「ドラグ様が縁を結びたいと思われた“エメルレッテ”と、今の私は違うのです」
目を逸らしながら告白した。
結婚式の翌日に、前世の記憶を取り戻したのだと。
「アレスターには最初、『人が変わったようだ』と言われました。ですから極力、“お嬢さま”として振る舞うよう努力していたのですが……」
記憶を取り戻すまでのエメルレッテは、おしとやかなお嬢様だったかもしれないのに。
ドラグをはじめ、シオンのみんなが私を受け入れてくれるから、隠していた匡花が少しずつ出てきて――今やエメルレッテの原型などない。
「……そもそも私、“前のエメル”の記憶がないんです」
だから、今の私の中身は完全なる“匡花”。
シオンの黒竜をリリース直後から推し続けて4年、廃ゲーマーと化した元くたびれOLだ。
そこまで言い終えて、ついに手の震えが抑えられなくなった。
ドラグの視線を感じる。それでも、向かい合う勇気が出ない。
騙していたこともそうだが、最初ドラグを見て「推しモドキ」とガッカリしたことなど、懺悔することはいくらでもある。
「それじゃあ……エメルがよく言ってた“オシ”って、別世界の僕ってこと?」
力なく頷けば、笑い声が返ってきた。
「どうして笑うのですか!?」
「だって、別の世界にも僕がいるなんて……おかしくて」
微笑むドラグと、視線がぶつかった。
瞬間、彼は「やっとこっちを見た」と囁く。
できるだけ距離を置いていたはずなのに。いつの間にか、震える指先に彼の指が触れていた。
「あ……」
手のひらに絡む指が優しい。
涙のにじむ目が溶けそうになる。
「ずっと前に君が言ってたこと……今、ようやく分かったよ」
オークたちの移住騒ぎの頃。
ドラグの求愛から逃げまくる私に、彼が諦めかけたことがあった。
あの時私は、彼に向き合おうとして――。
『貴方の見ている「私」と「本当の私」は違くて』
たしか、そう言った気がする。
ドラグが見ているのは「エメルレッテ」、私が見て欲しかったのは「匡花」――あの時は本当のことを話せなくて、辛かった。
「それが何――」
すべて言い終える前に、視界が真っ暗になった。
この甘い匂い――世界一安心する腕の中へ、閉じ込められたのだ。
暴れ回るような鼓動につられて、自分の心拍まで上がっていく。
「その後、僕が言ったことは覚えてない?」
「え……?」
パッとは思いつかない。
正直に話す前に、背中へ回る腕の力が強くなった。
「どんな君でも、僕はこうしたいかな……って」
「あっ……」
あの時の気持ちに変わりはない――。
耳元の囁きに、全身が震えた。
「……ドラグ」
かすかに熱を放つ耳元に唇を寄せ、「ほんと?」と囁き返すと。
黒い翼が、私の全身を包むように密着してきた。
「本当だよ。初めて結ばれた時、僕の心は君に捧げたんだ……だから」
君も、どこにも行かないって約束して――。
ドラグの震える声に、言葉を返すことはできなかった。
本当に、この人は優しすぎる。
どんな時だって――私の誰にも言えない不安を、その熱と言葉で解いてくれる。
「……エメル」
私を抱く腕が、痛いほどに力を増した。
でも――彼が欲しい言葉を、私はまだ口にできない。
「何があっても、絶対に帰らない」とは、言えないのだ。
元の世界の私の身体は、おそらくまだ生きている。もしかすると、「元の世界へ戻る」という選択があるのかもしれない。
それでも。
今は、夫を安心させたい。
広い背中へ手を回せば、私を包んでくれている腕の力も強くなった。
「それだと足りない……もっと。もっと強く」
抱きしめて――。
縋るような低音に、胸が震えた。
それでも――私はまだ、完全には選べない。
「エメル……」
弱々しい鳴き声に応えるように、せめて翼に触れる指へ力を入れると。
「……っ!?」
呪いを受けた傷があるはずの、翼の付け根――その表面に、ぬるっとした何かを感じた。
まさか――。
心臓が軋む音を立てる中。
おそるおそる、手を見ると。
「熱っ……!」
「エメル、どうしたの?」
右目が焼けるように熱くなった直後。
勝手に発動した【能力鑑定】が映し出したスキルは――。
【異形の翼EX・レベル36】
「これは……っ」
ダイアログが表示されただけではない。泥の残滓のようなものが、実際に手にまとわりついている。
それに――以前見た時より、確実にレベルが上がっている。
「エメル、その右目……何を見たの? まさか、僕の……」
ドラグの瞳の揺らぎが、大きくなっていく。
彼は最近、呪いの制御ができるようになりつつあったはずだ。それでも今、無意識のうちに泥を流しているということは――。
なんだか、嫌な予感がする。
「ドラグ様、私は……」
「お嬢さま〜!」
ミレイユの「お夕飯ですよ〜」の声に遮られたのは、さらに塗り重ねようとした嘘だった。
「決してどこにも行かない」――ドラグを安心させるための言葉は、手についた呪いの残滓とともに消えてしまった。
「はぁ……ミレイユさんは料理上手だね」
日本風の料理が、よほど気に入ったのか。
すっかり元の調子に戻ったドラグは、ゲストルームに入るなり頬を緩ませた。
「はい、とっても美味しかったですね! ドラグ様と同じくらい」
「えっ……それは褒めすぎだよ」
「いえいえ、ご謙遜なさらないで」
私は今、ふつうに話せているだろうか――。
ドラグの呪いの泥。
転生者であることの告白。
色々ありすぎて、まだ心の整理がついていない。
心がシビュラ並みに広い“人生の推し”は、「どんな私でも受け入れる」と言ってくれたが――。
私自身がまだ、迷っている。
「すっかり和んじゃったけど、アレについて確かめないとね」
「え……ええ、もちろん!」
そうだ、今はやらなければいけないことがある。
ブルームーン・トロイカの魔族誘拐事件――人族の仕業と疑う領主・ブラッドへ報告するためにも、昼間ミレイユが演説していた内容について、詳しく聞かなければ。
「では予定通り、ひとりでミレイユと話をしてきます」
「本当にひとりで大丈夫……?」
「はい、ドラグ様は休んでいてください」
乳母とふたりで話してみたい――そうお願いすると。夫は、一瞬何かを言いかけた口を閉じた。
本当は違う。
呪いの泥を滲ませていた夫に、これ以上負担をかけたくないだけ。
もしミレイユの口から、またとんでもない事実が出てきたら――ドラグに何かあるかと思うと、怖い。
「大丈夫です。ただ話をするだけですから」
ドアの前までついてくる夫を部屋に押し込め、リビングへ続く階段を降りていくと。
「あれ……?」
下から、誰かの話し声が聞こえる。
この家には、私たち夫婦とミレイユ以外、誰もいないはずなのに――。
次回:誰もいないはずのリビングで、ミレイユが会話する相手とは――?
また、夫竜の意外な弱点が明らかに!
「空なんていつも飛んでいますよね?」
「だっ、だって、この姿の時にこんな上までいったことないから……」




