75話 鐘の音をもう一度
「かつて、トロイカは“無法地帯”であった」
“もてなし牢”のベッドに深く腰かけながら、リーザは呟いた。
この極寒の地は、数多の魔族が入り乱れる雪原だったと。
「ただ……この城の『鐘』が鳴り渡れば、皆が争いをやめていた。それだけの威厳が、古くから吸血鬼族にはあったのだ」
シオンを竜人族が治めているように、ここも長年吸血鬼族が治めている。しかし次第に、力による階級制度化が進み、その鐘も鳴らなくなったという。
力ある種を恐れ、誰も争わなくなってしまったから――。
「鐘……」
ゲームにはなかったものだ。
「下級種が、上級種に逆らうことがなくなった……だからこそ、差別化は進んでいったのであろうな」
もはや「畏怖」によってしか、吸血鬼はこの地を統治できなくなった――リーザは銀色のまつ毛を伏せ、ため息を吐き出した。
「……そうだったのですね」
トロイカが、魔族の支配する極寒の地ということだけは、ここを訪れる前から知っていた。
ゲームの新エリア解放MVで見たから――でも。
今のリーザは、領民と歩み寄りたいと思っている。
600年間無関心だった夫が、少しずつ彼女の方を向きはじめた。そんな些細なことが、彼女に大きな変化をもたらしたのだ。
「領民を守るためには、絶対的な支配と恐怖が必要……そう信じていた。だが」
私の話を聞いて、それにシオンの領民たちの様子を見て、リーザは考えが揺らいだという。
「妾も、他愛のない話がしたい。どうせ恐れられるならば、最初から、連中の想像通りの姿で振る舞おうなどと……」
愚かだった――とても長い間行ってきた自身の振る舞いを、彼女は震える声で非難した。
本当に。ノームもゴーレムも、そして吸血鬼でさえも、このシビュラに生きる種は純粋だ。
ここが本当に現実なのか――それを疑いたくなるほどに。
「そなたのおかげで目が覚めたのだ」
「リーザ……」
夫も領民も同じ。
まず自分が変わって、自ら歩み寄らなければ、何も変わることはない――リーザの言葉が、胸に沁みる。
「……リーザ。トロイカを領主家の“恐怖”ではなく、“信頼”で治める未来に興味はございませんか?」
上級種と下級種。長い歴史の中で、支配する者とされる者に分かれた意識――どうすれば、彼らは手を取り合えるのか。
今の話を聞いて、私の中で答えは出た。
「みんなが争いをやめた鐘……また、その鐘を鳴らすイベントをすれば良いのです!」
「いべんと……とな?」
首を傾げるリーザから、雪の降りしきる格子窓へ視線を移した。
街で目にした立派な「もみの木」。それに、飾りや鍛冶などを得意とする職人のドワーフたち――それらをフル活用できるイベントといえば。
「私がご提案するのは……その名も、『クリスマス』です!」
「……くりすます?」
画面越しのドラグ様に貢ぐため、社畜生活を送っていた時には縁のないイベントだったが――。
戦争が起こりそうで暗いトロイカの地(極寒)にクリスマスツリーとご馳走を用意して鐘を鳴らせば。きっと身分に関係なく、みんなが楽しめるイベントになる。
「待て、それはいったいどのような……」
「別名『恋人たちの聖なる夜』! つまり、夫婦仲を深めるまたとない機会でもあるのです」
目を瞬かせる吸血鬼美女の、鼻先まで迫る勢いで言い放つと。
「夫婦仲を深める……」
よし。
リーザはもう、ほとんど落ちかけている。
その証拠に、いつもクールな彼女の口角がピクピクともちあがっていた。
「もちろん私が企画させていただくからには、領主夫妻がくっつくようなイベント盛りだくさん! 鐘を鳴らす共同作業もお願いする予定でございます!!」
「くっつく……共同作業……」
まずい、押しすぎてリーザの頭がパンク寸前みたいだ。銀のサイドテールが宙に浮きはじめている。
一度深呼吸し、「どうか協力してほしい」と声をひそめた。
「それは……相談に乗ってもらっている以上、妾はそなたに協力したい。だが」
すでにリーザも分かっているようだ。
戦争寸前、張り詰めた空気のトロイカでイベントを企画するためには、最大の難関を突破しなければならないと。
「……任せてください」
ため息を呑み込み、不安げに瞳を揺らすリーザの手をとった。
小さくて雪のように白い、繊細な手――期待と不安に震える手を、そっと握りしめる。
トロイカの種族関係を良くしたいだけじゃない。
私はリーザに、友人に、幸せになってほしい――。
「エメル……」
「行きましょう、旦那様のところへ」
いざ、ブラッドの書斎へ――妻が同行している私に怖いものなんてない。
即席で用意した名刺を懐へ忍び込ませ、冷気を感じる扉を叩こうとしたところ。
「しっ……」
リーザに肩を掴まれ、ノックが空を切った。
無言で扉を指差す彼女を横目に、耳を澄ませると――聞き覚えのある声がする。
「……兄上はなぜ、戻られたのですか?」
あの不機嫌そうな低音はブラッド。
「そろそろ、お主の顔を拝んでやろうと思うてな」
おどけた低音はアレスター。
最初にブラッドと顔を合わせた時、アレスターは無視されていたみたいだったが。ようやく話せるようになったらしい。
でも――なんだか不穏だ。「そうでしたか」と震える声で呟いたブラッドが、殺気をこぼしている。扉越しでも冷気を感じるほどに。
「兄上が出て行かれたせいで、クラウディウス家の面目は丸潰れです。それに……同胞たちは、私を領主と認めず出て行ったものもいる」
そして彼自身、今でもトロイカを治める力があるのは兄だと思っている――ブラッドは、威圧と苛立ち混じりの声を上げた。
「……これは」
ブラッドはドラグと似ている。
夫も父親が亡くなり、シオン領領主を5年前に継いだ時。グロウサリア家にいた竜人たちは、みんな出て行ってしまったと聞いた。そして同胞たちは、ロードンのいる分家のノクサリアへ鞍替えしたのだ。
優秀な兄の影を残したまま、それでも周りに認められようと、600年を必死に生きてきたブラッド――ただの冷酷な吸血鬼ではない。
アレスターから聞いた通り、ブラッドは冷徹にならざるを得ない環境に置かれているのだろう。
「もしかして……」
妻のリーザに関心がなかったのではなく、構う余裕がなかったのでは――。
それに今は、謎の領民誘拐事件で気を揉んで、心の余裕を失っているはずだ。
そんなことが頭をよぎった瞬間。
城が震えるほどの魔力が、身体を刺すように通り抜けていった。
「……っ!」
リーザの広げた髪の毛が庇ってくれなければ、身体がバラバラになっていたかもしれない。
「なにが『グロウサリア家執事』だ……なにが大切な弟だ……! 突然消えたと思ったら現れて! 俺がどんな思いでこの城の主人になったのか、分かりもしないくせに!!」
ブラッドの幼くなっていく口調が、胸に突き刺さる。
まずい――これは兄弟喧嘩(物理)勃発寸前だ。
部屋の床から、赤い液体が漏れ出ている。
「ひっ! あれ血……?」
見えないところで何が行われているのか――。
振り返った先のリーザに、口を塞がれた。
「これは人の身に毒だ。とく妾の近くに寄れ」
「んむむ……」
白いコウモリに化けたリーザが、翼で私の身体を包み込んでくれた。
瞬間――。
「……嫁御か?」
部屋の中から、アレスターの落ち着いた声が響く。
押し寄せた波が一瞬で引くように、ブラッドの殺気がおさまっていった。
「はぁ……っ」
解放された胸が膨らんでいく。
ブラッドの圧だけで死ぬかと思った。
「……ブラッド、良いな?」
扉の隙間から顔を覗かせたのは、いつもより少し眉を下げたアレスター。私たちに、中へ入るよう促した。
正直、入りたくないけど――入るしかない。
リーザは俯いたまま、私より先に部屋へ踏み入った。
「義兄殿、立ち聞きするつもりは……」
「気にせんでも良い」
私たちの気配は最初から分かっていた。
特に、私に残る噛み跡が気配を知らせてくれる――そう言って、アレスターは寂しそうに微笑んだ。
「……そうですか」
ついこの間、押し倒されたことを思い出しそうになった。
今はそんなことより、息を切らしたブラッドだ。
「アレスター、領主様とは……」
どうするつもりなのか――。
問いかける前に、彼はそっと微笑んだ。
そして私たちの横を通り過ぎながら、リーザにも微笑む。
「あやつを頼む」、と。
「アレスターどこへ……!」
「なに、ワシも頭を冷やしてくるだけじゃ」
書斎の扉が軋む音を立て、閉じたあと。
部屋の中には、重苦しい沈黙と魔力の残滓が残った。
床には赤黒い液体が流れたまま――窓の前で俯くブラッドの足元から発生した跡がある。
このままじゃ、近づいて良いのかどうかもわからない――リーザも、ブラッドの横顔を見つめているだけ。
私の心音と呼吸音だけが聞こえる、冷え切った部屋。
ここで何か発言できるとしたら、それはリーザだけだ。
「……ちょっとリーザ、そういえば」
リーザの袖を引いて、少し屈んでもらうと。
「昨夜の訪問は、どれくらいいたのですか?」
ブラッドがリーザの部屋を訪ねた時の様子を、こっそり訊ねた。
「……四半刻もないが」
リーザは「なぜ今そんなことを」と言いたげな顔をしながらも、答えてくれた。
しかもその間、ブラッドはただリーザを横目で見て、何か喋りたそうにしていただけだという。
でも――ブラッドがリーザに何かを言いたそうにしていた事実だけで十分だ。
再び深呼吸し、目を開いた。
針で刺せば割れそうな横顔のブラッドに、まずは話を聞ける状態になってもらわなければ。
「リーザ、ちょっとお付き合いをお願いします」
「……なんだ?」
戸惑うリーザのひんやりとした両手をすくい、自分の頬に当てさせた。
よし、準備完了。
「きゃっ!? リーザ、そんないけません! いくら旦那様に構っていただけないからといって、私なんか……」
リーザが私に迫っている――ように見せかけただけだが、ブラッドはどう反応するだろうか。
チラッと横目でブラッドを見れば、「見たいけど見たくない」と言いたげな目がこちらに向いていた。
よし、いける――。
「え、エメル、なんだこれは……」
「ああっ、いけませんわ! 婦人同士、いえ、既婚者同士でこんなっ」
ポンコツ演技の茶番に対して、ようやくブラッドの声が漏れた。「……何をしているのですか」と。
しかも、私を弱々しく睨みつけている。
食いついた――それに、潰されそうだった空気が和らいだ。
そして、もう一押しというところで。
「グロウサリア夫人……近い」
ブラッドがこちらに向けて指を振れば、見えない何かに押されるように、リーザから腕が離れてしまった。
「今の、魔法……?」
そこまでして、リーザから引き離したということは。
この吸血鬼――600年間妻に触れもしなかったくせに、立派に嫉妬しているみたいだ。
「あら? まさか旦那様、妬いて……」
「黙れ」
即否定。しかも声が弱々しい。
なんか、全然怖くない――。
張り詰めていた空気がさらに緩んでいくのを感じ、思わず口角が上がった。
ブラッドの動揺が目に出ているおかげで、とても分かりやすい。
よし、今だ――。
ブラッドの気が緩んでいる間に、彼がリーザをどう思っているのか、少しずつ誘導して引き出そう。
ブラッドの泳いだ目を見つめながら、次の言葉をかけようとしていると。
「その……ブラッド。き、聞きたいことがあるのだが」
隣のリーザが一歩、ブラッドに近づいた。
「リーザ……!」
彼女が、自ら歩み寄ったことに胸が熱くなる。
一方ブラッドは、目を合わせないまま「なんですか」と吐き出した。
「先日の夜参ったのは、何か話があったからではないのか?」
リーザの真っ直ぐな目に対し、ブラッドは「はい」と小さくこぼした。
相変わらず視線を逸らしたまま。
でも。ブラッドがリーザに声をかけられてから、部屋の中の温度が少し上がった気がする。
嬉しい――彼が胸に秘めた思いが、七曜の魔法がかかった右目越しに伝わる気がした。
これ、いける――。
ブラッドの様子を見る限り、絶望的だと思われた状況は一気にひっくり返りそうな予感がする。
この地の種族たちを和解させる『クリスマス・トロイカ作戦』も、すべてはこの吸血鬼夫婦の“ラブラブ度”次第。
鐘がなる日も、そう遠くない――。
次回:『クリスマス・トロイカ作戦』――本格始動!
“再興専門家”エメルレッテ・グロウサリアのはったりが、吸血鬼夫妻を巻き込んでいく。
「これは“遊び”ではありません! 戦のための“準備”です」




