4話 領主妻の手腕
「私の故郷には『契約婚』というジャンル……じゃなくて文化がありまして」
夫婦のスキンシップはとらず、対外的な役割のみを果たす。また本当に愛する人が見つかったら離縁する――そう説明すると、ドラグは金色の瞳を丸くしたまま固まった。
「……仮面夫婦ってこと?」
「はい。元々愛のない結婚ならば、お互いに無理をする必要はないかと」
政略結婚という状況の中、心を寄せようとしてくれているドラグに対して、最低な提案をしていることは分かっている。しかし望まない関係を無理に発展させたところで、どちらも幸せにはなれない。
静けさに耐えきれず、「ドラグ様」と口を開きかけた、その時。
「君がそれで良いなら、僕は構わない」
最初に出会った時のように、再び視線が遠くへ行ってしまった。沈んだ横顔に胸が締め付けられるが、自分から言い出したことだ。
「今度こそ、仲良くできたらなって思ったんだけど……」
「今度こそ?」
妙な言い回しに訊き返すと、ドラグは「別に!」と突然声量を上げた。
「それで、対外的な役割って?」
『この地を救うのです』――時渡人の言葉はつまり、「夫と協力して領地経営をしろ」ということだろう。元より『シビュラ』は、お気に入りの領主キャラを選び、プレイヤーが支援する形になっている。しかし「領主のお手伝いをさせてください」とは、いきなり言えない。
本当は今すぐ視察に出て領地の現状を把握したいところだが、まずは狭い範囲で信頼ポイントを貯めてからだ。
「お屋敷でただ贅沢をして暮らすなんて、私にはもったいないです。訪問者の接待などは、私に任せていただけませんか?」
お飾りの妻ではなく、まずは「領主の妻」として役に立つということをアピールしなければ。それからじわじわと領地運営に関わろう。そうして、あわよくば彼から領主の座をもらい、『シビュラ』の元神王の知識を活かし、いずれはこのシビュラのトップに――と野望を膨らませていると。
ドラグは視線を合わせないどころか、かすかに身体を震わせはじめた。
「ど、どうなさいました?」
「いや、何でも」
その滝のような汗は、何でもないようには見えない。アレスターを呼ぼう、と立ち上がると。
「待って、本当に何でもないんだ!」
芯のある低音が耳に刺さり、思わず肩を揺らした――こんなに大きな声も出るのか。
「お、驚かせてごめん。とにかくウチに客は来ないし……こんな僕のところに来てくれただけでありがたいんだから、君は働かなくていいんだよ」
自分だけで領地の運営は上手くいっているから、手出しするなということか。「何もするな」と言われるのは、これまでの残業生活より辛い。
「……分かりました。では、これから良き『契約夫婦』として、よろしくお願いいたします」
ここは逆らっても仕方ない。折を見て、元神王の力を発揮させてもらうとしよう。
「私は部屋に戻りますね」
「もう? よ、良かったらホットミルクでも飲んでいかない?」
意外だ。歩み寄ろうとしてくれている彼に、契約婚を提案した時点で嫌われたと思ったのだが。
「……では、せっかくですから」
どうせ当分はお世話になるのだから、もっと彼を知っておくとしよう。
ドラグは席を外すと、2人分のホットミルクを領主自ら運んできてくれた。
「熱っ、火加減間違えたか……そっちは平気?」
「はい、ちょうど良いです」
ほんのり甘いミルクの味は、記憶の中と変わらない。斜め隣のソファに膝をそろえて掛けているドラグは、まだミルクを冷ましている。
「でも、どうしてホットミルクを?」
「……君が部屋に来た時、涙の跡が見えて」
これまた意外だった。俯いたり壁の方を向いたり、あまりこちらを見ていないように思えたのに。
「ドラグ様こそ、お優しい方ですね」
「えっ、べ、別に!」
推しと同じ名前の彼は、最初に私を「優しい」と言ったが。本当に優しいのは彼の方だ。
「……実は少し、ホームシックになっていて」
元の世界の自室と同じ、とまでは言わないが、この空間は居心地がよかった。「転生」に「シビュラと似た世界」と乱れた頭の中が一時停止して、ひと息つけるほどに――彼と夫婦ではなく、人としてうまくやっていけそうだ。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい、ドラグ様」
カーテン越しの窓が薄明るくなってきた頃。糖分ゼロの別れを終え、穏やかな気持ちで夫の部屋を出た瞬間。
「ちょいと待たれい!」
天井からぶら下がった黒い影に、自分でも驚くような悲鳴をあげてしまった。ドアが勢いよく開き、ドラグが飛び出してくる。
「急に金切り声を出すから驚いたぞ」
「あ、アレスター……?」
ドラグの背後から首を出すと、軽やかに床へ着地した少年と目が合った。
「いったい、いつからここに……?」
「そりゃ、お主を主人の部屋へ送ってからずっとじゃが」
まずい。一晩中待機されていたことにもドン引きだが、契約婚の話を聞かれていたとしたら。
「アレスター……僕らが決めたことに、口を出さないでほしいんだけど」
どうやら彼は、誰に対してもあの鬱々とした態度というわけではないらしい。初めて聞くハッキリとした物言いに、つい横顔を見つめてしまった。
「お主らがどのような関係を取ろうと、ワシは構わんぞ? 離縁さえしなければな」
この吸血鬼、やはり盗み聞きしていた。
「しかし主人よ、肝心なことを話しとらんじゃろう」
ドラグを見上げると、あからさまに視線を逸らされた。政略結婚以上に、この夫婦にはまだ何かあるというのか。
「……君の気を煩わせることじゃないから」
明らかに目が泳いでいる。
「じゃが、例の問題はいずれ分かること。やはり打ち明けた方が――」
「しっ! ごめん、本当に何でもないんだ」
そのセリフを聞くのは、ついさっきからもう二度目だが。結局そのまま部屋へ帰されてしまった。
「問題って、家の? それとも領かな」
もしくはドラグ本人の問題か。アレスターは「肝心なこと」と言っていたが。
「ドラグが超絶ネクラなのは、全然隠してなかったし……」
政略結婚初日で信頼されていないのは当然だが、秘密にされると余計に知りたくなる。
やはり家にお金がないのか――いや、しかしキャビネットの上で光り輝く結婚記念品は、明らかに高価なものだ。
ベッドに寝転がりながら悶々としていると、いつの間にか瞼が重くなってきた。もう明け方だが、この後仕事に出るわけでもない。少しウトウトしよう――と完全に瞼を閉じた直後、外から声が聞こえてきた。
「……お客さん?」
そっと部屋を出て、正面階段の踊り場から玄関を覗いたところ。耳が長く尖り、背中に半透明の羽が生えた青年が仁王立ちしていた。
エルフ族の長の弟――ナノだ。
「うわ……2.5次元俳優か?」
とっさに呟くと。珊瑚色の長髪の隙間から覗く、静かな瞳に射抜かれた。
彼がこちらへ何かを言いかけた瞬間。アレスターに叩き起こされたらしいドラグが、彼の前におずおずと現れる。
「こんな明け方に用とは……」
「仮にも領主だろ! 領内の問題くらい把握しておいたらどうだ?」
何とか聞き取れるドラグの声に対し、ナノは鈴の音のような声を張り上げた。どうやら彼は、ゴーレム族が森を切り拓いているのを止めてほしいらしい。
「で、でも、彼らは自分たちの森から資材を採ってるって聞いた……」
「どこの森か、ではなく、シオンの緑が削られていることが問題だ!」
ナノはゲームの中でも厄介な存在だった。開発の比率が環境保全を超えると、こうして反対運動を始めるのだ。
ゲームだと、ドラグ様に任せておけば追い返してくれるのだが――この世界の彼はというと、勢いで言い負かされている。その背後では、笑顔のアレスターが見守っていた。助ける気はないらしい。
「はぁ……よしっ。『領主夫人』が使えるってところ、見せつけますか」
明らかに不機嫌なナノと怯えているドラグの間に割って入ると。
「え、き、君部屋で寝てたんじゃ……」
黄金の瞳を丸くするドラグに微笑み、息の荒いナノへ向き直った。
「関係ないのは引っ込め!」
「関係なくありません! 私、領主の妻ですから」
そう、ただのお飾りではない――今こそドラグに証明する時だ。こちらを見下ろすナノの冷たい瞳を見つめ、軽く震える唇を開いた。
「シオンの緑を削るなとおっしゃいますけれど。ゴーレム族の森林開発は無闇なものなのですか?」
ゴーレム族の開発は必要最低限ということは分かっている。彼らも本来、エルフ族と同じで森を愛し育てる種族だ。「それは……」と言い淀むナノに、すかさず追撃をお見舞いする。
「開発にストップをかけるのではなく、同時に森を育てるのはいかがでしょう?」
『冷静に提案』、これがナノへの対処の最適解――のはずが。
「森を育てるとは具体的にどうする?」
「えっ……?」
まさか、具体案を求めてくるなんて。
「それは……」
一瞬、頭が真っ白になった。予想外など現実の仕事では日常茶飯事――茶色のシミがついたウェディングドレスがフラッシュバックする。
あの時は数人のおかげで冷静になれたが、今は――。
「……大丈夫だよ」
突然耳元に響いた低音に、ふと顔を上げると。かすかに揺れている金色の瞳と視線がぶつかった。
「ここまで、ありがとう……でも僕が領主なんだから、最後にはちゃんと彼に帰ってもらうよ」
「ドラグ様……」
そうか。この世界でも私は、ひとりで戦うわけではない――ドラグの言葉に、締め付けられていた頭が安らいだ。
どうすれば、開発と並行して森を守れるのか。
厳しい表情のナノに向き合いつつも、冷静に『シビュラ』のことを思い出していると――ふと頭に、「植林のプロ」のことが浮かんできた。
「ノーム族……そう、能力は森を育てること! 彼らを雇えば、開発とほぼ同じスピードで森を回復できるはずです」
領主家には、領内の環境を整えるための支援金が国から支給されているはずだ。公費で雇うことも可能なはず――。
「えっ、それはマズ……」
「はい?」
一瞬声を上げたドラグは、すぐに「何でもない」と俯いた。怪しい――が、今はナノが先だ。
具体的な約束までしたのだ。寝不足でイライラする頭を無にして、「お帰りください」と微笑みかけると。
「駄目だ。ノームの件が確定するまで帰らない」
「……は?」
ついうっかり素が出てしまった――現実のナノ、しつこすぎる。
「……あの、ちょっとお耳を」
こうなれば、奥の手を使うしかない。
「なんだ」、と顔をしかめるナノの袖を軽く引き、つま先立ちになって耳元に唇を寄せた。
「ここへ苦情を言いにいらっしゃったこと、貴方の最愛のお姉さんはご存じなの?」
姉。その言葉を聞いた瞬間、ナノの耳がピクリと動いた。
「なっ、姉さんに告げ口する気か!? いや、そもそもなぜお前が姉さんのことを!」
「それは……お姉さん有名ですから」
自分たちの問題は自分たちで解決したいエルフの長が、シスコン属性のある彼の愛する姉――「バレる前に早くお帰りなさい」、と囁くと。ナノは顔を真っ赤にして踵を返した。
「す、すごいよ……キミ、いろんな種族の能力とか事情に詳しいんだ? どこでそんな知識を……」
「それは! シオン領主に嫁ぐのですから、少し勉強したのです」
言えない。『シビュラ』の古参プレイヤーならば常識とは、決して。
「でも、良かったですわね。分かっていただけて」
開発と環境保護のジレンマは、ゲームにも存在する。どこかの種族ばかりに肩入れすると、領主が危ない目に遭うのだ――それでゲームオーバーになる初心者も少なくない。
「う、うん……良かったけど、でも」
何を言い淀んでいるのか。相変わらず壁を見つめるドラグの前に回り込み、エメルレッテ渾身の笑顔を浮かべた。
「いかがでしょう? 訪問客の対応は、私にお任せくださいませんか?」
先ほどの一件で、元神王の有用性を証明できたはずが。ドラグは首を縦に振らない。
「こんなの、滅多にないことなんだ……」
「左様。主人はもう5年も――」
「アレスター!」
やはり何かを隠している。しかし夫は、「家でゆっくりしてて」と繰り返すばかりだった。
「……怪しい」
部屋へ戻った後には、すっかり目が冴えていた。休むことよりも、今はドラグたちが隠していることが気になって仕方ない。
「あっ、そうだ」
クローゼットを開くと、エメルレッテの物であろうツバ広の帽子、白い長手袋を見つけた。
これだけあれば、外出準備は完璧だ。
ドラグが何かを隠しているというのならば、実際にこの目で見てみよう――現実世界の『幻想国家シビュラ』を。
次回:リアルな異世界探索へGO