36話 大喰らいたちの来訪
シオンの森に、地を踏み鳴らす重厚な足音が響いている。
「はぁ、はぁ……」
「……エメル、大丈夫?」
「行きますわよ!」、などといつもの調子で言ったものの。平和な世界でのうのうとゲームをして暮らしていた私にとって、戦いなんて画面の中だけの出来事だ。
今から戦地へ向かうと考えるだけで、肺と心臓が痛くなる。
「エメル、僕が守るから……絶対に傷つけさせない、から」
「ドラグ様……」
抱えて走ってくれている夫にしがみつき、力強い鼓動に耳を当てた。
私はずるい。
無条件に愛してくれる彼を拒みながら、自分が不安になると、こうして彼に寄りかかるのだ――。
「……大丈夫。私は領主代理……なんだから」
夫に聞こえないよう呟き、胸元で輝く極光石のブローチに手を触れた。
「近いぞ! 構えろよ、シオン領領主」
少しも恐れた様子のないジュードが吼える。幾重にも重なる足音と、金属の擦れる激しい音が近づいてくる。やがて、いつかキノコ採集で訪れた湿地に出ると。
「これは……!」
鉛色の空の下、鋼鉄の矢と攻撃魔法が飛びかっていた。あらゆる武器を構えたオークの大群と、魔法を惜しみなく発動するエルフ族が衝突している。
「退きなさい、オークども! この森は我らの聖地です!」
緑の巨大な魔法陣を展開しているのは、エルフ族の長ミス・グラニー。そして彼女の弟、ナノは即座に弓を引き絞った。
「皆の者、長に続け! 我らの手で蛮族を追い払うのだ!」
初めて目にする彼らの戦う姿に、身体の奥底から震えが湧き上がる。戦いを止めに来たのに、声が出ない――固まっている間にも、ためらいなく戦禍の中へ飛び込んだのは、彼らと同じオーク族のジュードだった。
「止まれ、同胞たちよ! なにゆえシオンに攻め入るのか、このジュードに話したまえ!」
ジュードの叫びにもかかわらず、すでに両族の緊張は限界に達しているようだ。オーク族の先頭に立つ巨大な戦士が、大斧を振り上げ、まっすぐに突撃してくる。
「ジュード様……!」
しかし心配するまでもなかったようだ。ジュードは片手で斧をいなし、反撃の態勢に入った。
「領主代理! 情けないことだが、同胞はスイッチが入っている。一度力づくで大人しくさせん限り止まらないぞ!」
戦闘民族である彼らは、『狂化モード』に入ると話し合いに応じなくなってしまう――動けなくするしかない、ということか。
「エメル様! 遅くなったな」
「サツキさんたち……!」
これでギルド所属の傭兵部隊は揃った。
「遠慮なくやっちゃってください!」と号令をかければ、サツキたちノーム傭兵5姉妹は、研ぎ澄まされたナイフを構える。
「クッ……数が多すぎる。おい、シオン領領主! 貴様竜人なのだろう、手を貸せ!」
ジュードの呼び声に、ドラグは身体をこわばらせた。
「ちょっと待ってください! 夫は非戦闘要員で――」
「ううん、行ってくるよ……」
ドラグは私を地面にそっと下ろすと、武器の交わる音が響く戦場に向き合った。
「でも……」
気弱で優しい彼のことだ。戦いどころか、ケンカなどしたことがないのではないか――憂う言葉に対し、夫は目を伏せ、首を左右に振った。
「だ、大丈夫だよ。頑丈だけが取り柄なんだし、とりあえずそれぞれの長と話し合いに行って――」
言い終わらないうちに、巨大な斧がドラグの背後に振りかざされた。
「ドラグ様!」
一瞬。時間も心臓も、何もかもが止まった気がした。
倒れていく夫を前に、冷たく暗い波が全身をさらっていく――。
「痛った……」
「へっ……?」
かすかな声に、意識が引き戻された。
斧を背中に受けたはずのドラグが、頭を小突かれた程度の調子で起き上がったのだ。
「あ……ごめん、びっくりさせて。ほら、僕って鈍臭いから……」
何もなかったかのように笑っている。「頑丈が取り柄」というのは本当らしい。
それにしても。鈍臭い人が落ちる寸前の皿を受け止めたり、監査官の放った矢を素手で掴むことができるのだろうか――これまでの出来事を振り返ると、「実は強いのでは?」という疑問が拭えない。
「どけ、邪魔だ!」
「ゔっ……!」
ジュードの尻に勢いよく弾き飛ばされたドラグは、オークとエルフが揉み合う中心地へ転がってしまった。
「なっ……ドラグ様!」
すぐさま駆け寄ろうとしたが、護衛のノーム姉妹に足を掴まれる。
そうだった――私が行ったところで、足手纏いになるのがオチだ。
「あれ? でも……」
地面に転がるドラグを見て、オークたちは首を傾げている。エルフたちも手を止め、一時的ながら戦いが収まっていた。
「なんだぁ、この黒いヤツ」
「これは……はぁ。我らが聖域に一切関係のないものだ」
弓に矢をつがえたナノの言葉に、今は反論のしようがない。彼が自分たちの住む土地の領主だと、敵の前でも認めたくないのだろう。
「……ドラグ様」
助けに向かいたいが、中心地以外の争いはまだ止んでいない。戦場を走り回るジュードの力を持ってしても、百を超えるオークとエルフたちを大人しくさせるには手が足りないようだ。
「どうしよう……」
この大規模な争いを止めるには、もっと大きな力がなければ――祈るように空を見上げた瞬間。晴天を裂くような咆哮が響き渡った。
太陽を背に降り立ったのは、黄金に輝く巨大なドラゴン。本来の姿に戻ったロードンだ。
『テメーらオレの土地で暴れくさりやがって! エルフどもも問答無用、全員まとめて焦げになっちまえ!』
ロードンの金色の瞳が、地上で争うオークたちを捉えると。咆哮とともに、黄金に輝く炎が吐き出された。バチバチと激しい音を立てる炎が、オークたちの武器を次々と炭に変えていく。
「あつっ……!」
エルフともども、という言葉は脅しではなかったようで、敵味方関係なしに地上へ炎を吹きつけている――サツキたちに守られていなかったら、今頃丸焦げになっていたところだ。
「おい偽領主! 戦うしか脳がないなら、もう少しマシな方法でやれよ!」
水魔法で炎を相殺し、一族を守っているナノの言葉に、ロードンは『うっせぇ』と声を轟かせる。
『お前ら全員沈んどけ!』
炎とともに舞い上がるロードンの巨体が、戦場をあっという間に制圧してしまった。
「……すごい」
『本家の腰抜けが引きこもっていた5年間、誰がシオンを守っていたかご存知?』――ゲルダのあの言葉は、紛れもない真実。
やがて元の人型に戻ったロードンが、その場に座り込んだまま動けないドラグの前へと降り立った。
せっかく自信を取り戻しつつあった彼に、今トラウマその1が近づくのはまずい――2人のそばに駆け寄った瞬間。
「テメェにシオンは守れない」
苛立ち混じりの言葉に、ぴたりと足が止まった。
俯いたままのドラグは、肩を震わせている。
「結局最高の雌も、テメェを見限ってオレを選んだ。テメェが弱ぇせいで」
最高の雌――ロードンにとっての、ゲルダのことか。
鋭い言葉に、ドラグの肩の震えが止まった。
「僕が……弱かった、せい?」
違う。
きっと以前ならば、何も考えずにそう断言して、2人の間に割り込んでいただろう。しかし今は、そんなことはできない。
彼らの因縁は、私がこの世界に転生する前の出来事だ――部外者が何を言ったところで、彼らの心には響かないだろう。
「いいかぁ雑魚ども、よく聞け!シオンを守ったのはこの俺……新領主ロードン様だ!」
そう高らかに叫ぶと。再びドラゴンに変身したロードンは力強く翼を広げ、シオンの空を一周してから去っていった。
「……僕が、弱いから」
静寂の訪れた湿地に、ドラグの声が響いた。
彼は膝の上で拳を握り締め、鋭い牙で唇を噛みしめている。
「ドラグ様、大丈夫ですか?」
倒れたオークたちを避けながら、そっと近づくと。ドラグは俯いたまま、何かを呟いた。
「……力が欲しい」
「え?」
「弱いままじゃ、やっぱりダメだったんだ……このままだと奪われる……領も、君も」
この人、闇堕ちする前の定番セリフを吐いている――そばに寄ってきていたジュードにも、今のは聞こえていたはずだが。彼は何も言わずにドラグを見守っている。
「あの」
脱力した彼の前に膝をつき、草を掴んで震えている手に触れた。
「ドラグ様は、そのままでいてください」
戦いに秀でたロードンがいなければ、この領が攻め込まれた時、打つ手がないのは確かだ。ギルドを創設して冒険者を募ったところで、物理最強のドラゴンを超える種は結局いない。
それでも、力だけが領主に必要な素質というわけではない。
「貴方の機転や優しさに、私はこれまで救われてきました。それは戦う力よりもずっと大切なことだと、私は思うのです」
「……たい、せつ?」
ドラグは顔を上げずに呟いた。
「……っ!」
触れることすら躊躇っていた彼の手が、痛いほどに私の腕を握っている。まるで、決して離さないというかのように。
「ロードンの言う通りだ。どんなに君を支えたところで……君とこの領を守れないなら、意味がない」
「そんな、意味がないなんて!」
鋭い痛みに、腕を振り払いたくなる。唇を噛み、必死に耐えていると。
「弱いから……僕は君の夫になったけれど、君を惹きつける魅力のない男だから……だから拒むのか?」
揺れつつも鋭い視線に、これまでの行いが脳裏を過った。
私の気持ちが曖昧なままだから。それを言い訳に、ずっと触れ合うことを拒んできた――そのツケが、とうとう回ってきたのだ。
「それは……」
腕の痛みを受け入れ、見つからない言葉の先を絞り出そうとした、その時。
背後で、ガタリと音がした。大斧を燃やされ、倒れていたはずの巨大オークが、こちらをじっと見つめている。
「……さっきの話、聞かせてもらった。アンタら領主家の方々だか?」
彼はオーク族の長、ディズロム――狂化モードが解けたのだろうか。ゲームではゲリラ部隊を率い、領を荒らしに来る悪者だったが。
「ええ」と答えれば、彼はぬかるんだ地面に三つ指をつき、深々と頭を下げた。
「オラたち、シオンさ移住したくって来たんだ! 領主さま、許可しちゃくれねぇか?」
「えっ……移住、ですか?」
私だけではない。その懇願に対し、ジュードもエルフたちも、みんな目を丸くしている。
「き、貴様! そんなことを言っても信じないぞ!」
いつもの調子に戻ったナノは、ディズロムを鋭い目つきで見下ろした。
エルフたちは再び矢を構え始めている。それに対し、ディズロムは警戒する様子もなく両手を上げた。
ゲームではプレイヤー側の敵だったとはいえ、今の彼は悪いオークには見えない――降参のポーズをとる彼の目は、誠実そのものだ。
「ナノ。もしかすると、これは労働力確保のチャンスかもしれませんわ」
「はぁ? 領主代理は目を開けたまま寝るのか?」
相変わらずの態度に、ムッとして言い返そうとしたが。ナノはこちらを相手にもせず、ふんぞり返って前に出た。そしてディズロムを指差すとともに、厳しい声で言い放つ。
「こいつらはかつてシオンの森を滅ぼした張本人だ!」
「えっ……?」
ナノの言葉を、誰も否定しない。俯いたままのドラグも、ディズロム自身でさえも。
「彼らが森を滅ぼしたって、どういうことですの!?」
ナノは怒りの呼吸を抑えきれていない。そんな彼の肩を後ろへ引き戻し、珊瑚色の長髪をなびかせ進み出たのは――。
「わ、私が説明します……!」
泥にまみれても美しいエルフ族の長。ゴーレム族シカクの彼女、ミス・グラニーだった。
次回:エルフ族とオーク族の因縁。そして、夫竜の些細な変化の行方は…?




