98話 エメルレッテと匡花
アレスターの冷たい手が、心臓の上に触れたまま――それでも“彼女”は応える気がないらしい。
「シト……まだ出てくる気はないようじゃな」
神官である彼は、やはり“祈り女”の双子を知っていたのだ。
でも、それだけではないような――。
ついに反応がないと分かると、アレスターは私の身体から離れ、バルコニーの柱に背をもたれた。
「すまぬな、勝手に触れて。お主にはドラグというものがあろうに」
「え……」
やはり、アレスターは分かっている。
しかし――。
グロウサリア家の屋敷、それからクラウディウス家の地下牢で、ふと感じたことがある。彼の視線と牙が、私に執着を向けている気配を。
「もしかして……」
あれは、私への視線ではない。
エメルレッテ、もといエテ――この身体の持ち主へ向けられていたのではないか。
「“エメルレッテ”を、愛していたのでは?」
「……っ」
赤い瞳が不安げに揺れる。
まもなく、アレスターは笑いだした。
「“愛”、か」
ただ、いつもとは違う。なんだか力がこもっていないみたいだ。
やがて、ため息と共に笑い声が消えた。
「少し、じいとの散歩に付き合ってはくれぬか?」
「……ええ」
暖かい毛皮のコートに包まれ、初代ドラグの部屋を出ると。
『シビュラ万博』で賑わう庭の反対側――神殿の裏に広がる月明かりの庭で、アレスターは足を止めた。
雪をかぶった緑の生垣が、すべて同じ形に整えられている。中央で光る小さな池は、青白く光る鏡で囲まれていた。
「ここは400年前、ワシがエテに思いを告げた場所じゃ」
「そうですか……って、え!?」
油断していた。
まさかアレスターが、そんな思い切ったことをしていたなんて。
どう返したら良いものか――元の世界で「恋愛喪女」だった私には、荷が重すぎる。
「ええと。“推し”とかではなく、恋愛的なアレで好きだったということ……でしょうか?」
アレスターはシオン領で、セイレーン族の歌姫を熱狂的に推していたはず。
しかし、「推し=恋愛対象ではない」ということは、私が一番よく分かっている。
「左様。ワシはあの者の血を、常に求めておった」
まさか、予想が当たってしまうなんて――気まず過ぎる。親の、昔の恋人について聞いた気分だ。
「あの夜も、この池を囲む鏡が月明かりを反射しておった」
鏡には、何かを諦めたようなアレスター、そして私が映っていた。
「でも、この身体は本来の“エメルレッテ”ではないはずでは?」
400年以上も前ならば、アレスターが出会ったのも、この身体ではないはず。
「分かっておる。それでも、その身体には彼女の痕跡が残っておったからのう」
鏡越しのアレスターの目には、暗い色がにじんでいた。
初代ドラグの部屋で話していた時とは、少し違う。血のように赤い瞳は、真っ直ぐに私を捉えている。
「それでは、貴方はずっと、私の中にエテを見て……」
「いや。ワシはお主自身のことも、見ておったつもりじゃ」
「え……?」
元のエメルレッテを知っている――だからこそ、匡花との違いは明白だった。
彼は笑いながら、「最初の日」について話しはじめた。
「異世界で目覚め、動揺しているかと思いきや!」
窓の外を飛ぶドラグの姿に涙したかと思えば、ドラグの気弱な本性を知って「推しモドキじゃん」と落胆。初夜を回避するため、己を殴り始める始末。
「はは……」
逃れようのないアレスターの指摘に、いっそ笑いが込み上げてきた。
「じゃが。お主はそれでもドラグを見限ることなく……愛し、ともに歩んできた。まっすぐな人間だと思ったものじゃ」
一番そばで見ていてくれた、彼の言葉。
すっと、胸の奥に溶けていく。
「……アレスター」
紘也に私を監視するよう命を受けながらも、私自身の歩みを見守ってくれていた。
「ですが……神王の側についたのは、なぜですか?」
「いんや? ワシは最初から、双子に協力するつもりじゃった」
「え……?」
紘也が元の世界へ帰ると決めたことを知った双子は、彼をこの地に止めるため、己の身をも厭わない作戦を決行すると決めた――「お主も過去の『えいが』とやらを見たのじゃろう?」と、アレスターは眉を下げた。
「それを聞いて、覚悟を決めたのじゃ」
仕える紘也ではなく、愛したエテに協力する。
そして、匡花をこの世界へ呼び出す計画に加わったという。
彼らしくない、ゆったりと落ち着いた語りに、少しずつ胸が冷えていった。
「その計画について……私はなにも知らなかったのです」
紘也を止めるため、魂をこの世界へ運ばれたというのに。
彼の存在どころか、連れてきた双子本人の情報すら与えられなかった。
「ああ、そうじゃな。お主には悪かったと思っておるが……」
まず、謝罪すべきは自分ではない――アレスターはそう言って、光る池に背を向けた。
「お主に、謝りたいという者が居る」
「え……?」
これ以上は、その人の口から。
アレスターは「ワシの部屋へゆくぞ」と、私の腕を引いた。
神域に来てから、神官の部屋へ入るのは3つめになるだろうか。
何百年もグロウサリア家に仕えていたアレスターの私室は、必要最小限の部屋だった。
唯一の家具とも言える鉄製のチェストの上には、薄緑色の瞳をもつビスクドールがお座りしている。
「すまぬな。月明かり以外、イスすらないところで」
「いえ、それより……」
私に謝りたい人とは、いったい誰なのか。
おそるおそる、尋ねた瞬間。
『ヒュードロドロ……』
いま、人形の方から声がした――。
飛び上がって、アレスターの後ろに隠れると。
『おっ、今回は怖がってくれたかぁ』
「え……?」
薄緑色に光る人形の瞳から、半透明の糸があふれだした。その糸が紡いでいくのは――リボンのコートを羽織った少女の霊。
「レヴィン……?」
無意識に名前がこぼれた直後、「違う」と思い直した。
顔を包帯で覆った、この幽霊少女は――。
「貴女、もしかして……!」
トロイカの地下牢にいた幽霊ではないか――?
そう訊ねれば、少女はクスクス笑いながら、顔の包帯を解いていった。
その下から現れた顔は――エメルレッテと瓜二つ。
「匡花。彼女が、お主の身体にいたはずの魂……“エテ”じゃ」
「……っ!」
気づかなかった。
『あたしはただ、“最後まで見届けたいだけ”』――そう繰り返していた彼女が、まさかエメルレッテだったなんて。
「ほれ、エテよ。何か言うことがあるのじゃろうて」
『分かってるっての! いま……心の準備、してたんだから』
不思議だ。
私が転移した肉体の持ち主。同じ顔なのに、性格も雰囲気もまるで違う。
『……ひとつずつ、ちゃんと話すから』
アレスターが敷いてくれた絨毯の上に腰を落せば、霊体だけで浮遊する彼女は『アレスターは悪くないよ』と呟いた。
『その吸血鬼の、あたしへの気持ちは知ってた。だから利用したんだ』
「エテ……」
アレスターは、悲しみでも驚きでもない顔で、「しょうがないやつじゃ」と返した。
この二人の間には、友情以上の“信頼”を感じる。きっと、何百年をともに過ごして培ったものだろう。
『あたしが頼んだんだ。あたしの肉体に入った匡花を、導いて欲しいって』
「え……?」
導く――それは転移後の私が、この世界へ愛着を持てるよう自由にさせることだったという。
「まずは匡花に、このシビュラを愛してもらいたかった」
ゲームに似た世界ではなく、この世界として愛してもらわなければならなかった――それが計画の要だったと。
「それは……神王が扉を開けないよう、私に説得させたかったから……?」
アレスターとエテは互いに視線を合わせ、静かに頷いた。
「そのために最も重要なことは、お主の“推し”だった」
「……はい?」
「見たのじゃろう? 異世界を覗く力で、シトらがお主を観察しておったところを」
それは確かに、4Dシアターで目にしたが――。
『あたしらは見てたんだ。匡花がシビュラの中で、誰を一番推しているか』
推し。
そして、この世界を愛してもらうよう仕向ける計画――身体が震える。
分かりたくないのに、理解してしまった。
「では……私がこの世界へ愛着をもつように、“推しの妻”にした、と?」
半信半疑の目を、アレスターへ向けると。
沈黙の中、彼は力なく頷いた。
「そんなことって……」
最初から私は、彼女たちの筋書きに乗せられていたのだ。
やっと理解しても、怒りすら湧いてこない。
「意味が……わからないです」
推しの妻になることで、この世界へ愛着を持つように仕組まれていた私。
そんな私を、最初は神王の命令で見守っていたアレスター。
アレスターが双子のために何をしたとか、私が双子の計画のために転移したとかは、もはやどうでもいい。
それより、訊かなければならないことがある。
「夫は……ドラグは、このことを知っていたのですか?」
本当は訊きたくない。
でも――私はもう、知らないままではいられない。
頭と胸の脈が、呼応するように速くなる中。
「いや、ドラグは何も知らん」
彼もまた、双子の計画に乗せられた被害者。
アレスターの言葉に、ドクドクと脈打つ頭が少しだけ緩んだ。
「でも……私とドラグの婚姻は」
双子の計画の一部だった。
扉の代償を知れば、このシビュラを愛する匡花は、きっと扉の建設に反対する――そうして、紘也を説得させようとしたのだ。
せっかく、気を保っていたのに。
改めて整理すれば、頭がきつく締めつけられる。
「奥方殿……!」
大丈夫、と、支えてくれようとしたアレスターの前に手を出した。
「私は……」
都合の良いように動かされていたのではない。
『シビュラ万博』で再会したシオンの仲間たちが、そう教えてくれたばかりだ。
私をシビュラへ誘い、ドラグと婚姻を結ばせた彼女――エメルレッテを、真っ直ぐに見据えた。
「私は、貴女たちの計画の中にあった……でも」
私が築いたものは、彼女たちの思惑とは何の関係もない。
「私を信じてくれたみんなの気持ちを抱えて……“これからの道”も、自分の足で歩みます!」
月明かりの小部屋に、自分の声だけが強く響いた。
すべてを知っていた吸血鬼は、沈黙。
トロイカに隠れていた幽霊は、微笑。
やがて、エテの笑い声が大きくなっていった。
「これ! お主、謝るのではなかったのか?」
『だってアレスター、そんなの逆に、彼女に失礼だって』
どういうことなのか――「え?」と声をこぼす間にも、半透明の身体が目の前へ降り立った。
『ワチに負けない領地経営の腕、あと――気弱な夫を愛し切る、懐の深さには感動だよね』
“救世主2号”として転移させたはずが、予想外のことを成し遂げた――エテの豪快な笑いに、思わず目を見開いた。
「エテ……」
『アンタがもらって喜ぶのは、謝罪じゃないんでしょ? だったら、その身体はあげるよ』
「え……」
夫を残して帰る選択肢、ないでしょ――エテの指摘に、全身がこわばった。
『いいんだよ。あたしだって、もう休みたいんだ』
1000年もの間。シビュラの巫女『祈り女』として、ワチを導いてきた。
人間の限界を超えて――そう発したエテの声は、穏やかだった。
「でも、どうして……貴女たち双子の魂は、自由に肉体を移れるのでしょう?」
肉体の寿命がきたら、別の肉体に移り変わるところをシアターで見た。
『この能力は、無限じゃないんだよ』
何度も繰り返すうちに、できなくなっていく。
そして、今の匡花が入っている肉体が、限界地点だった――エテは初めて見る優しい笑みとともに瞼を伏せた。
「そんな……」
本来双子は、なんとしても私を異世界へ帰らせなければならなかったはずだ。私から肉体を取り戻すために。
でも――エテはこの先も、幽霊族としてシビュラをさまようというのか。
「アレスター……そんなの、貴方は良いのですか?」
「本人の決めたことじゃ。ワシは口出しできん」
エテの望みはなんでも叶えようとした。
本来、同じ時間を過ごせない人間と異種族――それでも長く、同じ時を過ごしてきた。
「それだけで十分」と、アレスターは口角を上げる。
「……っ」
もはや、私の反応など関係ない。
2人は最初からそう決めていたかのように、視線を交わした。
「でも、“シト”は?」
エテを前にしても沈黙を貫くシトは、いったい何を考えているのか。
『それは……』
エテが私の胸へ、半透明の指先を向けた――その時。
キィと軋む音を立てて、扉の隙間から光が差し込んだ。
「話、ぜんぶ聞いたよ」
靴底を鳴らし、部屋に入ってきたのは――スーツに身を包んだ少年。
「……ワチくん」
「だーから、紘也って呼んでって」
冗談めいた口調ながらも、彼の目は鋭く私を捉えていた。
「やっぱり彼女の中に、シトの魂がいる。そうなんだよね、エテ?」
アレスターの後ろに隠れたエテが、無言を貫いている。
「匡花さん。“キミたち”には、扉を開く鍵になってもらう」
紘也が、ためらいなく宣言した。
「ですが、彼女の身体は……!」
ここにあるのは魂だけ。
それでどうやって、「扉を異世界へ繋げる力」を使わせようというのか――。
「だいじょーぶ。身体なら、もう見つかってるから」
「え……?」
覚悟を決めたような、でも、どこか諦めたような彼の瞳は、薄暗いベールで覆われていた。
次回:「言ったでしょ? 何があっても扉は開くよ」
いよいよ始まる、異世界への扉“落成式”。
異世界人の紘也は、エメルの説得にも耳を貸さない。
それでも――
「ごめんなさい、紘也さん……私は」
何があっても、愛するシビュラの味方だから。
エメルの選択を合図に、
シビュラの異種族たちが一斉に牙を剥く!




