最期の命乞い
恐怖に晒されることなく、加藤大樹は勢い良くドアを開け放ち、ただいまを告げた。
明かりをつけるべきかどうかを迷わせるほどの、ぼんやりとした暗がりが家の中に広がっている。共働きの両親がまだ帰ってきていないことは、大樹もわかっていることだった。
セカンドバッグを玄関に置いたまま、明るみの増す台所へと歩を進めていく。クロスの反射が眩しいテーブルの上には一枚の紙切れがあった。大樹はそれを手に取り、その文面をなぞり見た。いつもなら、夕飯を買うための小遣いが添えられていたが、今日は冷蔵庫に用意されているそうだった。
冷蔵庫の扉にへばり付くマグネットのクリップに紙を挟み、大樹は冷蔵庫の中を確認した。ちょうど真ん中の段に夕飯があることを確認するや否や、その視線は一気に上段のプリンに釘付けとなった。
容器の中でひっそりと固まっている、クリームイエローの物体が、冷蔵庫の明かりを後光に輝いて見える。
大樹は冷蔵庫の扉を閉めると、洗面所へと急いだ――そろそろ、おやつの時間かもしれない!
すっかり綺麗になった両手を眺め終えると、食器棚から装飾の施された小皿を取り出し、お気に入りのスプーンも用意する。それでもまだプリンは取り出さない。
紳士的な飲み物といえば、やはり紅茶に限る――カップの中を染色していく紅の香りを大いに楽しんだところで、ようやく主役の登場。
再び後光に包まれるそれを手に取ると、裏面を見上げてみせる。プッチンの針は折れていない。
ぷるるん、とした質感はプッチンしなくとも十分に味わえた。しかし、振りすぎては、せっかくの美形が台無しだ。
席に着き、再び紅の香りを堪能してから容器の蓋へと手をかける。が、不意に耳の奥を響き渡らせたのは妹の声だった。
家族内の誰よりも高く、透き通った張りのある声。
妹を知らないやつらは心地良さそうに聞き入るのだろうが、大樹にとって、それは天使の残虐な雄叫びでしかなかった。
もし、このプリンが妹のものだったら早く冷蔵庫へと戻さなければいけないというのに、大樹の食道がそれを許そうとはしなかった。想像を巡らせても、天使のような妹が悪魔的な暴言を吐き、魔獣を秘めた拳を自分に当てつけている図しか大樹には思い浮かばない。
しかし、我に返ってみると、足音の一つも聞こえないことに彼は気づいた。
玄関に赴き、靴を確認してみても妹のものはない。誰かが入ってきた痕跡もない。鍵もかかっている。
空耳だったのか――大樹の体を歓喜が駆け巡った。
台所に戻り、席に着くなり咳払いをしてみせる。気を取り直し、再び蓋に手をかけるが、今度は力が上手く入らない。
不意に記載されている賞味期限が見に入るが、今日付けになっていた。
これは、早く食べなくては。
そう思ってはいても、指先に力が入らない。
脳裏を幾度となく殴打する妹が、大樹を脅かし続けていた。
怖気づくな、と自分に言い聞かせても、後に現れる妹の凄まじさを安易に想像できてしまう。
大丈夫だ。そもそも、まだ、このプリンが妹のものと決まったわけではない――目を瞑り、懸命に頭を振ってみせる。
まずは指先。蓋の突出した部分をつまむ。力をこめる。次いで手首。妹の殴打。力が入らない。一呼吸。再び手首。引き上げる。蓋がめくり上げられる。糸が切れていくように。ゆっくりと持ち上げる。息が荒くなる。開封。皿を近づける。容器をつかむ。妹の殴打。持ち上がらない。一呼吸。再びつかむ。持ち上げる。裏返す。皿に載せる。再び指先。突起をつまむ。一呼吸。力をこめる。いざ、プッチン。
「それ、あたしの!」
背筋を伸ばすが、大樹は後ろに渦巻く気配を拭えなかった。一瞬にして吹き出る汗を止めることもできず、叫びとなるはずの声も出せず、ただ、プッチンされたプリンが、皿へと着地する瞬間を待つしかなかった。
「てメェ、なに紅茶まで淹れて、ちょっと豪華なおやつにしようとしてんだよ!」
妹に椅子を回され、大樹はプリンから彼女へと視点をずらされた。
鋭い眼光が大樹に向けられるが、整えられた顔立ちから、その怒った表情までも美少女と捉えられる。彼女に見せられた男性は一体何人いるのだろうか。制服のスカートから伸びる初々しい足は、世の男性なら無性にむしゃぶりつきたくなるだろう。まだ発育過程であるその上半身でさえ、偏った性癖をもった男性でなくとも魅力を感じずにはいられないに違いない。外見だけでなく、文武両道をこなしてみせる妹は、確かに大樹にとって自慢の妹ではある。それでも、目の前で立ち振る舞う妹は、恐怖の他の何者でもなかった。
「ぶ、部活はなかったのかい?」
「休みだよ、ンなもん。それより、あたしのプリン! たった今、断りもなしに食べようとしたよね?」
賞味期限切れを言い訳にしようにも、拳を鳴らす妹を目の前に、大樹は声を出せなかった。
「人の物を盗るのって、犯罪よ」
「あ、あなた様のためにご用意させていただきました!」
大樹は立ち上がると、椅子の方へと手を差し向けた。
にこりと笑うと、妹は取り外された蓋を手にした。賞味期限を確認すると、付着したプリンを桃色の舌でなめ取る。
「いいわ。今回は特別に許してあげる」
「あ、ありが――」
「ただし! 食べるのは一ヵ月後。あたしの監視の許でね。早くラップに包まないと、腐っちゃうわよ?」
彼女の指差す方向を見ることもなく、大樹の顔は青ざめていった。
「ま、待ってください、お嬢様! わたくしめは、大変悪いことをしてしまいました。プリンもいりません! どうか、ご勘弁を!」
大樹は妹の前に滑り込み、土下座をして見せた。
そんな彼に、妹はゆっくりとしゃがみ込んだ。涙を浮かべる兄の目に満面の笑みを焼き付ける。
彼の目に希望の兆しが見えるや否や、妹は彼の頭をつかむなりデコを床にめり込めてやった。
「ううん、だーめ」
あの、可愛らしい舌めェェ―― 去り行く妹に、大樹は必死に叫んだ。家中に響き渡らせたいほどの雄たけびを、誰にも聞かれることのない心の中で。
「あ、紅茶も一ヵ月後まで取っといてね」
最後に取り残された彼女の言葉が、大樹の耳を何度も突き刺していた。
【完】