悪役令嬢ユーフェミアの献身
(アーサー殿下、どうか……)
公爵令嬢ユーフェミア・オーツは王宮を全速力で走っていた。そして一際豪奢な扉を開け放つと、寝台ではオリーブ色の髪の少年が悶え苦しんでいるのが見えた。
彼はユーフェミアの婚約者であり、このラグナル国の第一王子でもあるアーサー・ラグナルである。
昨日から全身の痛みを宮医に訴えているという彼の纏う禍々しいオーラに、ユーフェミアは愕然とした。
(これは、呪障!?)
この世界には炎魔法、水魔法、土魔法、風魔法、そして光魔法、闇魔法の六種類が存在する。
呪障とはその内、この国で最も忌み嫌われている闇魔法の一つだった。
かけられた者は全身を激しい痛みで苛まれ、一週間も保たずに死ぬ。公爵家の図書室で読んだ本には、そう書いてあった。
何故それが呪障だとすぐに分かったのかというと、ユーフェミアもまた闇魔法の適性を持つからである。そのことを他に知っているのは、母親の公爵夫人だけだ。
公爵令嬢として生を受けた瞬間から未来の王妃になることが決まっていたユーフェミアが、悪名高き闇魔法の使い手だと知られては世間体が悪い。
そのため母親は、彼女に闇魔法を学ばせた上で秘することを固く約束させていたのだった。
呪障を祓うには上級光魔法使いが複数人必要だと言われている。
しかしユーフェミアは忍び込む道中、彼らが仕事で国外に出払っているという話を聞いてしまっていた。
なんと間が悪いと思ったが、その隙を狙った犯行だったのかもしれない。
アーサーにはもう時間がない。闇魔法への適性も無い彼の命は、今この時も脅かされ続けている。
(……彼の痛みを取り除けるのは今、私しかいない)
駆け寄ったユーフェミアは彼の手を握り、両手で包み込む。そして自ら体内にある闇属性の魔力を起こし、昔本で読んだ通りに組み立てた。
光魔法を使えないユーフェミアは呪障を祓うことは出来ないが、呪障に干渉して巣食う器から移すことは出来る。
そして同じ闇魔法に適性のあるユーフェミアなら、いくら痛い思いをしようとも死ぬことは無い。
指先を通じて呪障を自らの身体に引き入れたユーフェミアは、あまりの激痛に絶叫する。
(痛い、痛い、痛い……!)
初めて経験する壮絶な痛みに、ユーフェミアの意識が薄れていった。
そして暫くして、また激痛で目が覚める。そこは実家の公爵邸だった。
侍女は「丸三日寝ていらしたのですよ」と泣いていた。
痛みをひた隠しながら、ユーフェミアは馬車を王宮に走らせる。そして通された応接間に、すっかり顔色の良くなったアーサーがやってきた。
全身が痛い、苦しい。それでも。
(殿下を救えたなら……!)
しかし彼は予想もしていない名前を出した。
「男爵家のアウロラ・ブラナーは知っているか?」
「え?」
彼女はアーサーの避暑旅行の先で友人になった令嬢だと、以前聞いていた。
「存じております」
そして彼は満面の笑みを浮かべたまま、ユーフェミアを絶望に突き落とす。
「アウロラが光魔法に目覚め、私を救ってくれたんだ!」
その日、ユーフェミアの献身は、塵と化したのだった。
*
王立ヨルド学園は、十四から十八歳までの貴族たちが集う四年制の学舎である。「身分の別なく学ぶこと」とは第一の規律であるが、あくまで表向きだと誰もが理解していた。
最終学年である第四学年の一学期末。
白い大理石が敷かれたホールでは、各科目ごと成績上位二十名の一覧が張り出されていた。
公爵令嬢のユーフェミアは、静かにその表へと歩いていった。一歩足を進めるたび、空間が割れるように他の生徒たちの人波がさっと引いていく。
頭の頂点から指先まで糸が通っているかのような歩き方は、まさに淑女の手本。他の貴族たちとは明らかに一線を画していた。
ユーフェミアの艶やかな黒髪は波打ち、中央で分けられた長い前髪の間からは眩いばかりの白い額が覗いている。
長い睫毛に縁取られた釣り上がったアメジストの瞳は冷たく輝き、右目のすぐ下にある黒子と相まって見る者に強気な印象を与えた。
全ての必修科目の一番上には、いつも通り『ユーフェミア・オーツ』の名前が記されている。
当の彼女は、喜怒哀楽の感情などひと匙も表さない。当然のことを確認しただけというように踵を返すのだった。
ユーフェミアは第一学年である十四の頃から一度たりとも、学年首位の座を譲ったことがない。
この学園では必修科目に加えて各自が魔法演習を一つずつ選択しなければならない。
なぜ魔法演習が一つかというと、一般的に適性のある魔法が一人一種類だからである。ユーフェミアは闇魔法と炎魔法どちらにも適性があったが、表向きには炎魔法の使い手ということにしていた。
六種の魔法の中で、光魔法や闇魔法の適性を持つ者は大陸全土を見ても極端に少ない。
光魔法は後方支援や回復・治療に長けている。過去に国内で病が流行した際は、その使い手が聖女と崇められたという。
一方の闇魔法は人を害したり”呪障”と呼ばれる呪いを扱うものである。過去に病を流行させた者が使い手であり、ラグナル国では酷く忌み嫌われている。
第四学年で、光魔法の適性を持つものはたった一人。
(光魔法、ね)
毎回一人しか名前が載らない光魔法の成績表の前、ちらりと視線を向けた先では、二人の男女が談笑していた。
女の方は男爵家のアウロラ・ブラナー、稀少な光魔法の使い手である。元は庶子であり、幼少期に男爵家に引き取られたというのは有名な話だ。
二つ結びのストロベリーの髪は揺れ、側頭部は三つ編みがカチューシャのように編み込まれている。常に潤んでいる同色の瞳は、小柄な姿と相まって男の庇護欲を唆る、らしい。
その横でオリーブの髪を撫で付け、同色の目をだらしなく垂らしている彼は、立太子式を終え王太子となった婚約者、アーサー・ラグナルだ。
ちらりと一瞥だけしてホールを抜けたユーフェミアは、規則正しい靴音を響かせながら古い廊下を進む。
彼女は前方には誰も居ないことを確認し、角を曲がった先で壁に身体をもたれ掛けさせた。長い指が、白い額に当てられる。
ユーフェミアの身体に巣食う、全身を突き刺す激しい痛み。四年前のあの日以来、それが止むことは一瞬たりとも無かった。
(今日は……特に酷いわね)
痛みを堪えるために強張ってしまう眼のせいで、アーサーには「目つきが悪い」と吐き捨てられたこともある。更にアウロラを持て囃す男たちからは「悪役令嬢」などと揶揄されているのも知っていた。
「あの、すみません」
少し遠くから聞こえた声に振り向くと、銀色の瞳をした見知らぬ男子生徒が歩いてきていた。
ふわりと自然に整えられた金髪は、光の当たり方によっては薄いピンクにも見える。
「第二図書室の場所をお聞きしてもよろしいですか?」
「……着いてきて」
迷子か。
彼は聞いてもいないのに「留学生で、まだ教室もよく分からないんです」などとペラペラ喋りかけてくる。
確かに色素の薄い髪色や銀の瞳は、この国では見ない色だ。ユーフェミアは黙っていたが、彼の訛りのないラグナル語には内心驚いていた。
第二図書室は反対方向だ。
道案内の間も痛みは増すばかりである。本当は一刻も早く自室で休みたいところだったが、第四学年の上位者は生徒の監督も任せられている。放っておくわけにはいかない。
「閉まっているみたいね」
第二図書室に辿り着くと、鍵が掛かっていた。期末直後で誰も来ないため、図書委員が早めに戸締りをしたのかもしれない。
「道案内、ありがとうございました。貴女はユーフェミア・オーツ嬢ですよね?」
「そうだけど……貴方は?」
仮にも王太子の婚約者である。名前が知られていてもおかしくは無いが、彼の胡散臭い笑顔が引っかかった。
「申し遅れました、僕はグレイ帝国の伯爵家次男、クロード・ミル」
グレイ帝国といえば、ラグナル王国とは比べ物にならない大国である。少し前まで、若き皇太子主導の侵略が繰り返されていたはずだ。
しかし、それよりも。
(クロード・ミル?)
その名前をどこかで聞いたことが……いや、見たことがある気がする。記憶を引っ張り出そうとするが、悪化し続ける頭痛がそれを邪魔した。
「ユーフェミア嬢」
一度区切り、彼は首を傾げる。
「その呪障……本当は痛くて堪らないのに、どうしてずっと我慢してるんですか?」
心臓がバクバクと嫌な音を立て始める。
「……何のことかしら」
「隠さなくていい、呪障を受けているのでしょう? 見たところ、かなり長く。よくまぁ顔にも出さず、首位を取り続けているものですね」
その声色は、疑惑ではなく確信だった。
(何故、それを)
クロード・ミル。
雷が脳天を貫くような痛みで、ようやく彼の名前を見た場所を思い出す。
先ほどの成績上位者表、全ての必修科目でユーフェミアの一つ下に載っていた名前だ。同学年だったのか。
突然ユーフェミアの指先が掴まれる。反射的に振り払おうとしたが、彼は力を込めて離さなかった。
「ちょっと!」
「ほら」
非難の声を上げたユーフェミアは、身体の明らかな変化に気づく。
常に感じていた気が狂いそうな痛みが、和らいだのだ。二人の身体が柔らかな白い光に包まれる。
「光魔法……?」
しかし、光魔法の成績表にはアウロラの名前しかなかったはずだ。ということは、彼は試験を他の魔法で受けたということになる。
なるほど、この留学生は随分と優秀らしい。
重宝される光魔法の使い手だと伏せているのは、彼を派遣した帝国の方針だろうか。
「楽になったでしょう?」
息がしやすいだなんて、いつぶりだろう。
「こんなもの、決して四年も生き永らえられる代物じゃありません」
その言葉だけで、クロードに全てを看破されてしまったのだと察した。
「治療をかけて分かりました。貴女の身体はボロボロだけれど、命が削られている訳ではなかった。つまり」
これほど聡明な彼が、闇魔法の特質を知らないはずがない。
「貴女は闇魔法に適性がある。だから死だけは免れた、そうですね?」
ふぅ、と息をつく。
死んだ方がましだと思ったことは何度もあった。それでも自死を選ばなかったのは、公爵家に生まれた誇りと、将来国母となる責任ゆえのことだった。
ユーフェミアはキュッと眉を寄せると、今度こそ彼の手を振り払う。
「勝手に触らないで。私は婚約者のいる身、こんなところを誰かに見られでもしたら」
間違いなく醜聞となる。
婚約者である王太子は男爵令嬢にお熱だそうだが、同じことをすれば批判の的になるのはユーフェミアだけだ。
それに、ただでさえ闇魔法を使えることを伏せて婚約しているのだ。これ以上、疵を増やすわけにはいかない。
しかしクロードは真剣な眼差しを向けてくる。
「それでも、苦しむ人々を救うのは光魔法使いの責任です」
(傲慢ね)
彼は心の底からそう思っているのだろう。
「聞いたことがある。ラグナルの王太子がかつて呪障に侵され、光魔法使いの令嬢がそれを祓ったと。しかし本当は、貴女が闇魔法で呪障の対象を移しただけだったのですね? どうして伝えないのです」
「言っている意味が分からないわ」
そう、彼の言う通り王太子の命を救ったのは確かに自分だ。
真実を明かせば、アーサーもこちらを見てくれるかもしれない。そう思ったこともまた一度や二度ではない。
しかし、苦痛に耐えかねて口を開こうとするたびに、公爵令嬢としての自分が囁くのだ。
(この国で最も高貴な令嬢は、恩を盾にしなければ愛を貰えないの?)
そんな惨めな思いをするのは、炎で焼かれるよりも嫌だった。だからユーフェミアは決意が揺らぐたび、歯を食いしばる。
もし呪障に苛まれていることを話せば、光魔法の治療を受け、この苦しみからも解放されるだろう。しかし、それはユーフェミアが闇魔法の適性者だと露見することと同義だ。
いくら王太子を救ったとはいえ、忌み嫌われる闇魔法の使い手が王配になることなど世論が許さない。間違いなく婚約は解消され、結果公爵家の名を汚すこととなる。
だからユーフェミアは、呪障に侵されているとも、闇魔法の使い手だとも口を割るわけにはいかない。
「誤魔化さないで。貴女が助けを求めるなら、僕はその準備がある」
「助け?」
彼の銀の瞳が映すのは、同情だ。
(最も耐え難いのは、同情よ)
「──そんなの、私の矜持が許さないわ」
呟けば、クロードが目を見張ったのが分かった。
「貴女は……!」
「私は公爵家のユーフェミア・オーツ。王太子の婚約者で、炎魔法の使い手よ」
彼女は完璧なカーテシーを披露し、何か言いたげなクロードに背を向けたのだった。
しかしクロードは、その後もユーフェミアに話しかけてきた。
大抵は学問についてを口実にしてくるため、無下にもできない。
痛みが一際強いある日、ユーフェミアは校舎の端にある使われていない空き教室で休んでいた。静かで誰も寄りつかないそこは、憩いの場所だった。
「ユーフェミア嬢?」
だというのに、何処からやって来たのかクロードが教室に入ってくる。
「着けてきたの?」
「まさか。校舎内を迷子になっていたら偶然、貴女を見かけたので」
「少し眠かっただけ。もう出るわ」
しかし彼はお見通しだというように笑う。
「眠かったなんて嘘、僕についても意味がないのに。体調が優れないんでしょう?」
「いたって良好よ」
「そうですか」
クロードは全く信じていない顔だったが、とりあえず追求は止んだ。
「はっきり言うわ、私は次期王太子妃。貴方と二人でいるところを見られたくないの」
「それなら、これで如何でしょう」
彼が指を鳴らすと、教室が薄ぼんやりとした白い長方形の光に包まれる。
「結界です。これで誰にも見られませんね」
結界は上級光魔法の一つ、まず間違いなくアウロラは使えない代物だ。それをクロードは無詠唱で、いとも容易く空間を隔絶させた。
(だけど、わざわざ結界なんて)
ユーフェミアは後退り、指を組む。いつでも炎魔法を行使できるように。
「もし私に何かしようと企んでいるなら、燃やし尽くすわ」
ユーフェミアは選択科目の炎魔法でも首位を取っている。いくら結界の中とはいえ、遅れをとる気はさらさら無かった。
しかしクロードは、慌てたように両手を振って否定する。
「誤解です。僕はただ貴女に頼みがあるだけだ」
警戒の構えをほんの少しだけ緩める。勤勉な彼は、確かに祖国に迷惑をかけるような真似はしないだろう。
彼はホッとしたような顔で続ける。
「ラグナル王国の卒業パーティーではダンスを踊ると聞きました。面白い文化ですね」
「それがどうしたの」
端的に言って欲しい。ユーフェミアは苛立ち、ただでさえ痛みのせいで「目付きが悪い」と謗られる目がさらに吊り上がる。
「ですから、僕にこの国のダンスを教えていただけませんか」
「はぁ?」
クロードは恭しく片手を差し出した。
「僕はこれでも、帝国を背負う留学生です。卒業パーティーで恥を晒すことは出来ません」
「教えてくれる女性なんて、他にいくらでもいるでしょう」
まだ留学してきて三ヶ月ほどらしいが、特に女子生徒からの彼の人気ぶりは有名だった。
「それでも、貴女以上に完璧な女性を僕は知りません。お願いです」
仰々しく懇願される。
確かにユーフェミアは踊りが得意だ。それは幼少期からの努力の賜物だった。相手役の王太子を、周囲に気づかれないようリードしながら踊ることだって朝飯前なほどに。
婚約者のアーサーは踊りが不得意だ。
本人も自覚はあるようで、密かにリードしてくれるユーフェミア以外の女性とは頑なに踊ろうとしない。
そんな恥ずべき理由だというのに、婚約者以外と踊らない王太子を周囲は律儀だと持て囃すのだった。
(教えることはできる、だけど……)
クロードは手を差し出すだけでは飽き足らず、跪いてきた。
いくら公爵家の娘とはいえ帝国の貴族を跪かせるなど外聞が悪すぎる。結界があるとはいえ、落ち着かない。
しつこさに根負けしたユーフェミアは溜息をつき、クロードの手を取った。
「一曲だけなら」
机も椅子も端に少ししか置かれていない教室。幸か不幸か、踊るにはうってつけだった。
クロードはまた指を鳴らすと、どこからかワルツミュージックが流れてくる。光魔法以外で彼の魔法を見るのは初めてだった。
(風魔法? こんな使い方があるのね)
旋律に乗った二人は同時に動き始める。
「貴方、踊れないなんて嘘ばっかり」
「バレてしまいました?」
彼は悪戯っぽく笑う。
「ねぇ、僕のことはクロードと呼んで」
「……クロード」
「ユーフェミア」
身体が羽のように軽く感じるのは、何も彼が上手いからだけではない。彼の光魔法が、またユーフェミアの呪障を和らげているからだ。
光魔法を二つ、風魔法を一つ。無詠唱で合計三つの魔法を同時に操るクロードの技量は、教員含め間違いなくこの学園で一番だろう。
しかし彼は光魔法でユーフェミアを癒していることについて何も言及しない。
あくまで、共に踊っているだけだと。
クロードが自分の矜持を尊重してくれたのだと、分からないユーフェミアでも無かった。
その優しさに、ふっと身体の力が抜けていく。
(忘れていた。踊るのって、こんなに楽しかったのね)
社交界で踊る相手はいつもアーサーだけだった。足を踏まれないように、転ばせないようにと、それだけを考えてステップを踏んでいた。
それが、今だけは自由なのだ。
クロードの挑むかのような即興に対応するのも、自分から難しいアレンジを入れるのも、この上なく楽しかった。
観衆もいない、二人きりだけの空き教室。
一曲だけと言いつつ次々と違う曲が流れていったが、ユーフェミアはそれを咎めなかった。
クロードの腕に今までとは異なる力が入る。その瞬間、彼がどう踊りたいのか手に取るように伝わってきた。
旋律と彼の腕に身体を預けると、ふわりとユーフェミアが浮き上がる。クロードによって持ち上げられたのだ。
(空を舞うって、こういうことなのね)
他の生徒より長い制服のスカートがひらりと靡く。
とん、とユーフェミアの爪先が床についたところで、音楽が止んだ。互いに姿勢を保ったまま、動きを止める。
肩を上下させているユーフェミアとは対照的に、クロードは涼しい顔をしている。魔法まで使っていたというのに、彼は汗一つかいていなかった。
「ユーフェミア……」
視線が重なる。
クロードの銀の瞳は熱を帯びていた。そして彼の瞳に映る己のアメジストもまた、同じ光を宿していた。
ゆっくりと、クロードの顔が近づいてくる。
しかしユーフェミアは――片手で彼の唇を阻んだ。
それだけは許されない。ユーフェミアは王太子の婚約者であり、未来の王妃なのだから。
全てを捨ててしまいたい衝動に耐えるのは、痛みを堪えるよりも難しい。初めて知ったことだった。
「楽しかったわ」
まるで何事も無かったかのように、クロードから身体を離す。
「ユーフェミア!」
まだ自分を名前で呼ぶ彼に、視線だけ送る。
いくら平等を謳う学園とはいえ王太子の婚約者という立場上、その呼び名を辞めさせるべきとは分かっていたが、ユーフェミアはただ見つめ返すだけだった。
切なげに銀の目を細めたクロードは少し間を置いて、ただ一言問うた。
「……また、踊っていただけますか」
そしてユーフェミアはこう言うのだ。
「一曲だけなら」
*
平穏に過ぎた最終学年は、華やかな卒業パーティーの場で終わりを告げた。
「ユーフェミア・オーツ。君との婚約は解消させてもらう」
ズキズキと、割れるように頭が痛い。
(婚約、解消)
そう言い放ったのは己の婚約者アーサーであり、その隣で肩を抱かれているのは、不安げな顔をした男爵家のアウロラ・ブラナーだった。
彼は安心させるようにアウロラを引き寄せながら、再び口を開いた。
「そして四年前、私を命の危機から救ってくれたアウロラ・ブラナー嬢との婚約を、ここに宣言する!」
(……痛い)
あますところなく全身を針で突かれているかのような痛みが襲う。しかしそれもまた、ユーフェミアにとっては常だった。
アーサーは四年前に呪障に侵され、光魔法の使い手であるアウロラが祓い救ってくれたのだと、朗々と大衆への演説を続けている。
元婚約者となった彼のオリーブの瞳を見つめる。いつだって自分が正しく、何事も思い通りになると思っている目。
「婚約解消、謹んでお受けいたしますわ」
彼は知らない。
その命をかつて救ったのは他でもないユーフェミアであり、呪障は今もなお、この身体を蝕んでいるのだと。
(痛い……だけど)
それでもユーフェミアが粛々と承諾の意を伝えたのは、ひとえに彼女の矜持によるもの。四年間にも渡り、苦痛を隠し通してきたのだ。
(今更顔になど、出してやるものか)
一通り語り終えた王太子アーサーは、こほんと一つ咳払いをした。
「しかし、私は長年の公爵家の忠心に報いたいとも思っている。そこでユーフェミア、君を側妃として召しあげようと思う」
その言葉に、パーティホールが更なるどよめきに包まれる。身分を無視したその歪みは、公爵家以下の貴族とて到底受け入れられるものではなかった。
ユーフェミアは白い額に手を当てた。普段とは別の意味で頭が痛くなってきたのだ。
その時、柔らかいながらもよく通る声がホールに響く。
「ラグナルの王太子が、ここまで愚かだとは」
「な、何だと!?」
挑発的なその声の主に、皆の視線が一斉に集まる。
悠然と立っていたのは、コーラルピンクに近しい金髪に銀色の瞳を持った美男子、クロード・ミルだ。
いくら留学生といえど、明らかに不敬な言葉にアーサーは怒りで顔を真っ赤にし、アウロラはぽかんと口を開けている。
国際問題に発展しかねないと緊張が走る中、クロードはにっこりと笑った。
「婚約が解消されたのなら……僕がユーフェミアを貰っても構いませんね?」
「な、何を言っている!?」
口をぱくぱくとさせる王太子を無視し、胸に手を当てた彼はユーフェミアの前に跪いた。
「グレイ帝国の皇太子、クロディアス・グレイと申します。ユーフェミア・オーツ嬢――僕と結婚してくださいますか?」
(クロードが、クロディアス皇太子?)
目の前の光景が信じられなかった。伯爵家次男という身分が偽りだったのみならず、彼の国の皇太子だとは。
クロードはダンスに誘ってきた時と同じように、手を差し出してくる。
「高潔な貴女は誰よりも美しい。健やかな生を、そして恒久の愛を捧げると誓いましょう」
自分を見つめるその銀の瞳には、ワルツを踊ったあの日のような熱が篭っていた。
(あぁ、それでも……彼には変わりないのね)
「お受けいたします」
淑やかにその手を取ると、嬉しそうに立ち上がったクロードに腰を抱き寄せられる。
「僕が留学生として来たのは、ラグナル王国を征服するための偵察だったのですが……」
ホールがどよめく。慌てて武器を持った衛兵たちが駆けて来るが、突如その足がぴたりと止まった。
クロードの風魔法によって空間が操られ、衛兵たちの動きが制限されたのだ。
「如何ですか、ユーフェミア。僕なら今すぐ君を蔑ろにした王太子の首を刈り、国を手に入れることも出来る」
すぐ近くでそんなことを囁く彼を、ひと睨みする。
「私は今までラグナルの民を守るために生きてきたのよ。そんなことを言い出すなら、結婚はしないわ」
「はははっ! それは困る、征服はよしておきましょう」
クロードは愉快そうに王太子に視線を向ける。支配する者と支配される者の姿だった。
「彼女に感謝するといい――我が国の友好国として、これからも仲良くしましょうね」
微笑んだクロードが腕を差し出してくる。ユーフェミアは溜息をついて、その腕を取る。途端に柔らかな感覚が肌を伝い、彼女の痛みを和らげた。
呆然とする聴衆を置いて、二人はホールから立ち去ったのだった。
公爵家に向かう馬車の中、クロードはユーフェミアを抱えるようにして座る。
「驚いたわ、グレイ帝国の皇太子だったなんて」
「婚約に頷いてくれなければ、問答無用で征服するつもりでした」
過激な言葉が聞こえてきた。
崇高な理念や親切な側面は彼の一部に過ぎず、実際はもっと苛烈な人間なのかもしれないと思った。それでも、もっとクロードを知りたいと思う。
「帝国に戻ったら盛大に婚約パーティーを開きましょう。その時は……」
彼の銀の瞳は恍惚とした熱を孕んでいた。
「一曲、僕と踊ってくれますか?」
「一曲だけで良いの?」
見上げて尋ね返せば、クロードは驚いたように目を開き、ぎゅっと強く抱きしめてきた。
「十曲は踊りましょうか!」
「やっぱり駄目、一曲だけ!」
腕の中でじたばたするユーフェミアと、幸せそうなクロード。二人の声が馬車の中に響いたのだった。
お読みいただきありがとうございました!1万字縛りで書いたものですが、楽しかったです。
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