第二十八話 「極楽の湯」
タフタと話を終わらせた後。
町長さんへの報告もすでに済ませているため、完全に自由な時間となった。
そのため俺は、待ちに待った温泉に駆け出し、今まさに服を脱ぎ払って極楽の湯を前にしていた。
「ようやくだぞ、ピケ。ようやくゆっくりと温泉に入れるんだ……」
しかも露天風呂。
周りは木造りの柵で囲われており、天井だけ吹き抜けになっていて空が広がっている。
色々とあって時間が経ってしまったので、今はすっかり夜の星空になっていた。
その星々を湯気が覆い、星明かりが朧気に映っている。
こんな景色で入る温泉も悪くない。遅い時間のため人もいないし貸切状態だから。
ちなみに湯は僅かに緑がかっており、爽やかなハーブにも似た香りが漂っている。
どうやら低濃度の魔力水を沸かしたものらしく、美肌効果、疲労回復、むくみ解消……などなど色々な効能が含まれているようだ。
その湯を前にしながらピケと一緒にかけ湯をした後、足先で慎重に湯の温度を確かめる。
少し熱めだったのでゆっくりと足先から入り、腰、胸、肩と段階を踏みながら体を沈めていった。
肩までどっぷりと浸かった直後、体の芯からじんわりと温まっていくのを感じる。
「ふあぁぁぁ……!」
他の客がいないことをいいことに、俺は思わず気の抜けた声を上げてしまった。
ぽかぽかの温泉湯が骨身に染みる。
今日はスライムとの激闘もあったし、帰り道は長距離を歩いてきたし、最後には苦手なタフタたちと緊張感のあるやり取りまでしたわけだから。
疲れが溜まっているのも当然である。
その疲れが魔力水の温泉によって浄化されていく。
しまいには全身を脱力させて、大の字で湯に浮かぶと、後ろから聞き慣れた声が聞こえてきた。
「他に誰もいないからって、自由になりすぎでしょ」
「だって気持ちいいんだもん……。ブロードも早く入ってみろよ」
ブロードはやれやれと言わんばかりに、呆れた笑みを浮かべていた。
他の客がいないことをいいことに、とは言ったけど、正確には知り合いがいないことをいいことに、である。
温泉には俺とピケ、さらにブロードを加えた三人でやって来ていた。
タフタとの話を終えた後、ブロードたちもしばらくこの町で観光を楽しむということだったので、せっかくなら一緒に温泉に行こうということになったのである。
ちなみにラッセルも誘ったが、裸の付き合いが少し恥ずかしいらしく町の観光の方に行ってしまった。
女性組は買い物で、ビエラとガーゼは性格的にミスマッチだと思われがちだが、互いにスイーツ好きで共通点がある。
今頃はバブルドットで著名なスイーツ店に、片っ端から当たっているんじゃないかな。
満天の星の下で、ぽかぽかの湯に浸かりながらそんなことを考えていると、やがてブロードも湯の中に入ってきた。
僅かに離れたところで腰を落ち着けて、控えめに至高の息を漏らしている。
温泉について来ると言った時からそんなに心配はしていなかったけど、ブロードも温泉が好きそうでよかった。
と、人知れず安堵していると、視界の端でパチャパチャと子犬モードのピケが犬掻きをしているのが見えた。
「おぉ、うまいうまい! ちゃんと犬掻きできてるぞ」
前世の実家で飼っていた白柴のピッケは、犬掻きがへたっぴで頻繁に浴槽の中に沈んでいた。
けどピケはちゃんとできる方の犬なんだな。たぶん犬じゃないけど。
やがてパチャパチャと頑張って俺のところにやって来て、疲れたから抱っこと言わんばかりに首元にしがみついてくる。
小さなその体を両腕で抱えてあげると、その様子を物珍しい目で見ていたブロードが首を傾げた。
「本当に自在に体の大きさを変えて生活できるんだね。それにこうして見ると、確かにあの時助けた子犬とそっくりな姿だ」
「だから言っただろ。ピケはあの時助けた子犬だって。まあ俺も久々に会った時は大きくなりすぎてて全然わからなかったけど」
いきなり大きな白狼が目の前に現れて、さすがに警戒してしまったものだ。
「確か魔物も討伐できるくらいの力があるんだよね?」
「あぁ。俺が倒した巨大スライムほどの強敵は難しいだろうけど、そこらにいる魔物ならピケの相手じゃないと思うよ」
「体の大きさを変えられて、魔物を討伐できるほどの力も持っている……。しかし犬でも狼でも、魔物らしくもない、そんな生き物か……」
ブロードは何やら難しい顔をして考え始めてしまう。
温泉に入っている時くらいは考え事なんかしなきゃいいのに。
と思いつつも、俺も腕に抱えたピケを見てふと疑問に思った。
本当にこの子はどういう存在なんだろうな。
最初は異世界特有の犬種の犬かと思ったけど、魔物まで討伐できるほどの犬種はやっぱり聞いたことがないし。
そうで言うと魔物が一番近い存在になるんだろうけど、人に対して害意がなくむしろ人懐っこい様子まで見せている。
そんな疑問の視線を向けていると、目が合ったピケは犬のようにきょとんと首を傾げた。
まあ可愛いしなんでもいいかと思って、ピケの頬に自分の頬をすりすりと当てていると……
「幸運の、神獣……」
「んっ? 何か言ったか?」
「……いいや、なんでもないよ。まさかそんなことがあるはずないからね」
考え事をしていたブロードが、不意に何かを呟いた気がした。
ともあれブロードも、そこで考え事をやめたらしく素直に温泉の気持ちよさを味わうことにしたようだ。
それから僅かな時間、髪から滴る雫がただ湯面を揺らす中、俺は沈黙を破ってブロードに言った。
「ありがとな、ブロード」
「えっ? 急にどうしたんだい? 何に対してのお礼かな?」
「タフタたちを見返す機会を作ってくれてさ」
ブロードはぱちくりと目を見開く。
次いでブロードは、なんだそのことかと言わんばかりに小さな笑みを浮かべた。
「俺一人だったら、たぶん何も言い返せずに悔しさを押し殺すしかなかったと思う。代わりにあいつらに色々言ってくれて、すげえすっきりしたよ。だからありがとうだ」
「別に、僕は思っていたことを奴らに言ったまでだから、気にしなくていいよ」
ブロードならそう言うだろうと思ったよ。
こいつはやっぱりどこまでいっても勇者だから。
自分が許せないと思ったことはとことん許さないし、誰でも彼でも助ける超絶お人好しなんだ。
天職の話ではなく、自分の正義を貫き続ける本物の勇者こそ、このブロード・レイヤードという男なのである。
「それよりも、こっちの方こそすまなかった。君がタフタたちに侮辱されていることは知っていたのに、今まで何もしてやることができなくて」
やっぱり知っていたのか。
タフタと話していた時の口ぶりから大方察してはいたけど。
いつもあいつらはブロードたちに気付かれないように俺に言葉の暴力を浴びせてきていた。
でもそれには気付いていたらしく、かといってシラを切られるかもしれないからどうしようもなかったということか。
「そもそも魔王討伐の旅をしている時も、同じように世間に君の実力を伝えられたらよかった。君は目立つのを嫌がっているから、今の方がいいと言うだろうけど……」
ブロードは吹き抜けから星空を見上げて、感慨深そうな面持ちで言った。
「できればフェルトにも、あの歓声を浴びてもらいたかったから」
おそらく魔王討伐の後の祝賀会を思い出しているのではないだろうか。
俺はそのことをよく知ってはいないけど、たぶんブロードたちは多くの民たちから称賛と歓声を浴びたはず。
その時の喜びを、俺にも同じように感じてほしいと思っているんじゃないだろうか。
けどこれは、俺自身が選んだ道だから。
「前にも言ったけど、富や名声なんかなくても、俺は五人で旅をしたっていう思い出があればそれで充分なんだよ。それだけ勇者パーティーでの冒険が楽しかったからな」
俺にはとってそれこそが、魔王討伐の旅で得たかけがえのない報酬である。
「だから今回みたいに、俺のために怒ってくれる必要はもうないぞ。世間に力を認められていないからって、俺は別に気にしたりしないから」
「君ならそう言うだろうと思ったよ。だから今回だけ、タフタたちだけに言うことにしたんだ。せめてあいつらだけは見返してやりたいと思っていたからさ」
まあ、その気持ちはわからないではない。
つまりはブロードも相当、奴らに怒っていたってことか。
実際清々しい気持ちになったのは事実なので、これはこれでよかったよな。
ブロードは少し体が熱くなってきたのか、湯の浅いところに腰掛けなおしてから問いかけてくる。
「ところで、自由気ままな旅は順調かい?」
「あぁ。今回の一件はまあ例外として、今のところは筒がなく素材集めができてるよ。こうして各地の観光も楽しめてるし」
俺としては満足のいく旅ができている。
「てか俺のことよりも、そっちの方はどうなんだよ? もう王様に孤児院の支援を始めてもらったのか?」
「まだ約束を取り付けただけだよ。本格的な援助はこれからになる予定だ」
ふーん、そうなのか。
まあまだ魔王討伐からそこまで日は経ってないからな。
準備も色々と必要なのだろう。
「それが始まったら、僕も孤児院のために色々と動き出そうと思っている。こうしてのんびりしていられるのも今のうちだろうね」
ブロードはぐっと背中を伸ばして、力の抜けた声を漏らす。
俺としては孤児院のことをブロードに任せっきりにしてしまったようなものなので、密かに罪悪感みたいなものがあった。
しかしブロードは未来の忙しさに対して嫌な顔一つせず、むしろワクワクした様子で予想外のことを言い出す。
「それで、もし諸々のことが一段落ついたら、僕も世界各地を巡ってみたいなって思っているんだ」
「へ、へぇ、意外だな。てっきり冒険者として、変わらず人助けをし続けるものかと思ったけど」
「魔王討伐の旅でたくさんの町や村、景色や物を見てきて、旅の楽しさってやつを強烈なまでに知ったからね。僕も色んな所を見て回りたくなったんだよ」
確かにあの楽しい旅を経たら、世界各地を見て回りたくなるのも納得できた。
「だからもしそうなった時は、よかったら僕も君の旅に連れて行ってくれないかな」
「……」
思いがけないことを言われて、俺は一瞬思考が停止する。
よもやブロードからそんな提案をされるとは思ってもいなかったから。
こんな目的も何もない旅について来たいだなんて、ブロードも物好きだな。
「世界を平和に導いた勇者様にご同行いただけるなら、何よりも心強くて助かるよ。けどなんか人助けばっかの旅になりそうだな」
呆れ笑いを浮かべながらそう言うと、ブロードはなぜかきょとんと目を丸くする。
次いで唐突に「ふっ」と吹き出し、盛大に笑い始めた。
僅かに腹も抱えているほどで、何がそんなにおかしかったのかわからず戸惑ってしまう。
俺、何か変なこと言ったかな?
その訳を、ブロードは目の端に浮かんだ涙を拭いながら面白そうに教えてくれた。
「僕がいなくたって、君はいつだって誰かのことを助けているじゃないか。今回のことも、一緒に旅をしている時だって。言っておくけど『お人好し』って言葉は、僕よりも君の方が断然似合っていると思うよ」
「え、えぇ、ホントにそうかぁ? 俺って結構利己的だと思うけど……」
疑わしい気持ちで首を傾げていると、ブロードはまたぞろわからないことを言ってきた。
「なんたってフェルトは、あの時僕が憧れた英雄なんだから」
その時、ブロードは俺の腕の中にいるピケを見ていた。
そうとわかった時、ふとピケを助けた当時の記憶が鮮明に蘇る。
『む、無茶だよフェルト……! あんな怖い魔物に勝てるわけ……』
『勝てなくても追い払えればいい! 俺が行くから、ブロードはここで待っていてくれ!』
ブロードはまだ勇者の力を上手く扱えず、魔物の姿を見て立ち尽くし、一方で俺はすぐに子犬を助けるために動き出した。
思えばあの時、魔物に返り討ちに遭って死ぬことすらあり得たかもしれないのに、俺は気付けばピケを助けるために懐から道具を取り出していた。
もしかしてその時のことを言っているのか?
もしその時の姿を見て憧れてくれたというのなら、なんとも光栄な話である。
ブロードが積極的に人助けをするきっかけになれたのだとしたら、あの時頑張った甲斐があったな。
そんな勇者様の活躍をまた近くで見たいとも思うので、再び一緒に旅ができる日が来ればいいなと、俺は胸の内で静かに思ったのだった。
「ちなみに、次はどの国や町に行こうか決めているのかい?」
「うーんと、そうだなぁ……」
俺は肩をすくめて、気の抜けた声でこう答えた。
「特に決めてはないよ。風の吹くまま気の向くままってね」
だってこれは目的も何もない、ゲームクリア後の世界を自由気ままに放浪する、そんな異世界旅だから。
次はどこへ行こうか、俺は温泉の温かさと心地よい眠気に包まれながら、ぼんやりとした頭で考え始めたのだった。
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