聖女様と面会をご希望の方は、こちらにお名前をお願いします~神殿受付嬢はカスハラのストレスをもふもふで解消したい~
あ――、接客業なんてやってられない。
これは完全に就職ミスったなぁ……
憂鬱な気分で、ハルアは盛大に溜め息を吐く。
上司や先輩がいれば咎められるところだが、今日は一人勤務なのでそういった心配はない。ついでに言えば来客者もおらず、エントランスは閑散としているので、そういった意味でも心配はなかった。
まぁ気が緩んでいると言えばその通りなのだが、誰にだって溜め息の一つや二つ、吐きたくなることがあるものだ。
「というか、最近一人のこと多くない……?」
ハルアは昨年、国が管理する神殿に就職した。
といっても、神官職ではない。事務方としての採用で、採用後の面談の後、受付業務を仰せつかった。
神殿は、この国では民の心の拠り所であり、同時に政治的にも重要な機関。神への信仰はもちろん、民に代わり祈りを捧げる聖女もまた崇拝の対象であり、彼女への面談を求める人々が押し寄せる受付業務は、割に多忙な職務だった。
ハルアもこの一年で最低限の仕事はこなせるようになったとは言え、神殿に訪れる人間は実に種々様々で臨機応変な対応が求められる。まだ経験が浅い身では対応に苦慮することも多く、一人での受付業務は精神的にも負荷が大きかった。
「人がいないなら補充してほしい……」
受付けは、神殿を訪れた人が真っ先に対面する場所。第一印象を決める場所といっても過言ではない。
笑顔で、速やかに、ホスピタリティ溢れる接遇を。
それが最初に教えられた基本だった。
けれど、それと同じくらい大切なことがもう一つある。
「決して、不適な人間を神殿の奥へ入れないこと、聖女様をお守りすること」
不審者を取り除くのは警備の仕事。それはそうなのだが、警備の人間が捕らえられるのは挙動が怪しいとか、武器を所持しているとか、明らかに不審な要素がある場合だけだ。
だが、人間、一見普通そうに見えても、中身に大きな問題がある場合が多々ある。
「高圧的だったり、差別意識があったり、筋違いな望みを持ってたり、基本的なルールが守れなかったり」
そう、実に色々な汚客さ――お客様がいらっしゃるのだ。
そういった人間を上手く捌くこともまた、受付に求められる仕事だった。
「私の認識が甘かったと言えばそうだけど、ここまで精神的に疲弊する業務だと思わなかったんだよ~」
ハルアは一年と少しで、もうすっかり疲れ切っていた。
「人間、横暴すぎない……?」
そう、予想を遥かに上回る来訪者の横暴な態度に、人間に失望する毎日。
神殿を訪れる人間は何か困り事や思惑を抱えている場合が多く、その分人間の本性が出やすい状況にもあるのだろう。けれど来る日も来る日もその対応をしている身からすれば、堪ったものじゃない。
「もちろん、普通の人が大半だけど、それはそうなんだけど」
転職も考えるべきかなぁ、どこなら安定して働けるだろ。
そんなことを考えていると、出入り口の扉の開く音が響いた。
「!」
瞬時に背を伸ばし、にこりと淡い微笑みを装備する。
建物の中に入って来たのは、壮年の男性だった。豊かな口ひげを蓄え、遠目からでも良い素材を使った衣服であることが分かる。太っていると言うと言いすぎになるが、それなりに厚みがある、貫禄のある体型をしている。
あぁ、何かやだなぁ、ロクなことにならない気がする。
この一年で鍛えられた、ハルアの中のお客様判定センサーが、警告を発していた。けれど、それでも仕事は仕事、こなさなければならない。
「ようこそいらっしゃいました。本日はどのようなご用件でのご来訪でしょうか」
受付台の前まで来た男が、どん! とさっそく肘をつく。
――態度が悪い。これは初っ端からあからさまに態度が悪い。
「聖女に会いに来た」
「……事前の面会のお約束はおありでしょうか」
一日の予定は叩き込んでいる。
今日は聖女にも高位神官にも外部からの面談予定がないことは把握済みだ。そもそも聖女は会いたいと言って、すぐに会える相手でもないのである。
月に数度、謝恩日という一般人でも聖女へ祈りを託すという名目で面談が許される日もあるが、それも来てすぐに、という訳にはいかない。
「この私に、そんなものが必要だとでも?」
この私ってどの私なのー、そんなの知りませんけどー。
心の中だけで勘弁してと白旗を揚げる。
男がどれほどの身分持ちなのか、ハルアには分からない。
財を成した商家の人間なのか、高位貴族なのか、さすがに王族ということはないだろうけれど、本当にやんごとない身分をお持ちなら受付を無理に正面突破はせず、神殿内部の有力者に根回しをしているだろう。
仮に火急の案件で飛び込んで来たのだとしても、いきなり聖女に会わせろと言うよりは、神官の〇〇を呼んでくれ等の方がまだ話が通りやすい。
そもそも、誰か分からない人間を奥に通すことはできない。
けれどこの手の人間に、どちら様ですか? と訊ねることの危険度は、ハルアも十分承知していた。
「聖女様との面会をご希望とのこと、それではこちらにお名前をお願い致します」
受付台に常備しているリストとペンを差し出す。
至極当然の求めに対しても、男は機嫌を更に傾けた。
「規則として、全ての来訪者の方にお願いしておりますので、ご理解・ご協力願います」
相手をなるべく刺激しないように、規則だから仕方がなくお願いしてるんですよという体で申し添えれば、乱雑な書き文字ではあったが名前を頂戴することには成功した。
しかしまぁ、その名前を見てもどこの誰かは判然としない。
「有難うございます。スケジュールの確認を致しますので、その間、あちらの椅子にお掛けになってお待ちください」
手元の魔法石で作られた石板に、得られた情報を流し込む。
備考欄には非常に高圧的、ルール順守の意識に欠ける面有りと申し添えておいた。
三分もしないうちに、担当の神官から聖女のスケジュールに空きがないため、本日の面談はNGの返信が来るだろう。
その際優先的に次の予約を入れたければ、神官を経由するように申し添えることになる。この“優先的に入れたければ”というのは実のところ建前で、要注意人物は神官がそれなりに圧を掛けて“ご理解”頂くコースに進むことになる。そこで尻尾を巻いて神殿を後にする者がほとんどだが、稀に考えを改める者もいる。
そういう人間は往々にして、何か切羽詰まった状態を前に、正常な判断ができなかった、元は善良なタイプだ。
「待てだと!? 遠路はるばる、こんな外れの神殿にまで来て、更に待て?」
だが、今日は本当にツイていないらしい。
手続きに時間がかかるのなんて、当たり前だ。どこの店に行っても、例えば商品を買ってから代金を払い、包装するまでにはそれなりに時間をかかる。そんな当たり前のことも理解できないとは。
「お時間、それほどかかりませんので」
「こっちは急いでるんだよ!」
「えぇ、ですので、急ぎ状況を確認して少しでも早くお返事差し上げたく」
「何をそんなに手順を踏む必要があるんだ!」
危険人物を中に入れないためだわ。
ツッコミたい気持ちを懸命に抑える。
「聖女様はご多忙なお方、日々ほとんどの時間を神事に費やしております。また、周知のことではありますが、神に仕える高潔なお方です。その身は王族に次ぐほど高貴であらせられる。そのためどうしても手順を踏む必要があるのです」
「っ、偉そうに言いやがって!」
受付台をひっくり返してしまいたい。重なる暴言に、さすがにハルアの笑顔も強張る。
「型に嵌った対応しかできないのか! もっと気を利かせろよ、聖女の傍で仕事してるからって、自分も高貴だ何だと勘違いでもしてるんじゃないか? お高く留まりやがって!」
侮辱的な発言を繰り返して、事が思うように進む訳がないのに、理解力や常識、良識をどこに落として来たのか。
生まれる前からやり直してほしい。
こっちは正しい手順で仕事をしてるだけなのに、あ――、本当にこの仕事もうやだよー! とハルアは心の中で酒んだ。
だが、暴言はこれだけでは終わらない。
「大体その薄ら笑いはなんだ、愛想が足りないんだよ、愛想が。ブスのクセにそんなんでどうする」
「――――」
この瞬間、ハルアの中でジャッジが下された。
これはもう、お客様ではない。完全に、ただの迷惑人間。施設利用における規約違反にも当たる。
駄目。アウト。残念ながら、聖女様に会う資格がてんでない。
「神殿が定めた規則に対する違反行為、度重なる職員への暴言。残念ながら、聖女様への面会は許可できません。どうぞ、速やかにお引き取りください」
薄ら笑いと称された対お客様用の笑みを引っ込め、ハルアは冷たい声で告げた。出口を指し示すと、男は真っ赤になって怒鳴り散らす。
「お前にそんな権限がある訳ないだろ!」
「あるんですよねぇ」
腕を振り上げ、くるりと手首を回す。
「えっ、はぁっ!?」
男が戸惑いの声を上げる。
何故なら、見えない何かで身体をぎゅっと拘束されたから。
その証拠に、男の衣服には大きなシワが寄っていた。
「神殿法第七十八条、第三項、受付業務専従者に与える権限について」
「うわわっ!?」
次に男の足が僅かに床から浮いた。必死に足先だけをバタつかせるが、何の抵抗にもなっていない。
「受付業務専従者は、神殿が定めるその規則を遵守しない者、著しく不適と判断したものを、神殿の安全を保持するために、強制退去する権限を有する」
「おい! 離せ! こんなことしてタダで……!」
済んじゃうんだよなぁと思いながら、ハルアは条文の続きを諳んじた。
「なお、この強制退去に対して、外部からのいかなる申し立ても受け付けない。ただし受付業務専従者のその資質に疑義が生じた場合は、議会からの要請を受け、高位神官三名により、その適正を見極め、必要に応じて諮問に掛け、その結果によっては職位の剥奪を執行する――――という訳です、文句があるなら議会にかけてください。そんな伝手があるのかは分かりませんが。では、ごきげんよう!」
「は? はぁ? はぁああぁあぁ?」
男はそのまま見えない力に持ち上げられ、ハルアの追い払うような手の動きに従う用に身体を持って行かれる。
エントランスの外、いや、神殿の入り口の門の外まで、一息に自動でさよならコースだ。
「ふざけるなぁあぁあぁ」
と叫ぶ男の声も、どんどんと頼りなく遠ざかっていく。
ふざけないでほしかったのはこっちの方だ、と思いながら、ハルアは仕上げの仕事と言わんばかりに男の名前と筆跡、設置していた魔方陣で念写した見た目情報をブラックリストにぶちこんだ。
それと同時に、鐘の音が響き渡る。
本日の終業時刻のお知らせだ。
「はぁあぁあ、やっと終わった~」
これで帰れる、と思うと一気に肩の力が抜けた。
どさっと椅子に腰かけ、重い身体を預ける。
「やっぱり転職一択かも」
長く続けたい仕事ではないなぁ、とハルアは深く息を吐いたのだった。
◆◆◆
「転職~?」
独り言のつもりだったのに、応える声があった。
背凭れに思いっきり身体を預けていたハルアを覗き込んでくる影が一つ。
「まさか辞めるつもりなのか?」
「ウルク」
この職場で最も親しい仕事仲間、ウルクだ。
他では滅多に見ない黄金の瞳、それと対を成すように髪色は月光のような銀色で、襟足で綺麗に切り揃えられている。
そして何より目を引くのは、頭の上に二つぴょこんと生えた、髪色と同じ美しい色の耳。
そう、彼は人間の姿形を取っているが、ふさふさの耳や尻尾を持っている生き物。単なる獣人ではない。
神獣と呼ぶべき、高貴な存在だ。本来は神世に神と共に在る、聖女とも神官とも一線を画す存在。特別な事情や任務を帯びた者が二三のみ、この人世に顕現している。
「辞めたらかなり給金下がるんじゃないか? 受付業務専従者の勤務はかなり色んな手当てついてるだろう」
「それはそうだけどさぁ」
けれど、そんな高潔な存在であるウルクと、ハルアはこうして気安く言葉を交わせる間柄だ。
「だってもうあんな人間の対応ばっかりやだよ~」
「あぁさっきの」
神獣が人世にいると聞いた時、人とは違う存在なのだからそんなに簡単に分かりあえないのでは、高貴な存在なのであれば一般市民等とは口も利かないのでは、とハルアは思った。実際、ウルクを初めて見た時、その神々しい美しさに圧倒されたし、近寄りがたいと思った。
けれど実際に交流してみれば、彼は思っていたよりずっとずっと気安い性格をしていた。
「さっきのって……見てたクセに今更出てきたりして」
助けてくれても良かったんじゃないかと非難の視線を向けてみたが、ウルクはひょいとそれを躱してしまう。
「オレがいなくてもどうとでもなっただろうが」
「まぁ確かに、便利な防衛魔法ではあるよね。安全策として常備してくれて助かってるのはそう」
先ほどならず者を追い返した、見えない力のことだ。来訪者にお引き取り頂かなくてはならなくなった時、あぁして防衛魔法が自動で発動するようになっている。さすがにこの仕組みがなければ、モンスターカスタマー相手に受付職一人では立ち向かえない。
「…………便利な防衛魔法……安全策として常備……」
「ウルク?」
「いや、ハルアがそう思ってるんならそれでいいわ」
「私、何か変なこと言った?」
「いや、それより、辞めて大丈夫なのか?」
ウルクが微妙な反応を示したので、何か見当違いなことでも言っただろうかと小首を傾げたハルアだったが、話題の矛先を変えられ、更にその首の角度を大きくした。
「?」
「今は神殿管轄の住まいだから警備も厳重だろうけど、転職となれば別の住まいを自分で見つけなくちゃいけない。同じレベルのところを確保できるか? ハルアは職務を忠実に実行しているだけだが、強制退去させられてハルアを逆恨みしている人間だっているんだぞ。そういうヤツらに鉢合わせたり、住居がバレたりしたら自衛で切り抜けられるのか?」
「うっ」
言われて頭が痛くなる。
確かにその通り。そういった心配がある。
自分の職業選択の迂闊さを呪いたくなるが、日頃恨みを買っている可能性は非常に高く、今何の心配もなく暮らせているのは神殿の庇護があるからだ。
それが仕事とは言え、自分の行いが自分の選択肢を狭めている。辞めたいけど、そう簡単にはいかない。
「でもしんどいんだもん、ストレス溜まりまくりなの! こんなの健康によくない!」
だって今月特に酷いんだから! とハルアは切々と訴えた。
「予約制だって言ってるのに、貴族が横入りしようとしてきて、しかも別の貴族がウチが先だって言い出してめちゃくちゃ揉め出すし!」
「あぁ、月初めにあったな」
「ウチの子は身体が弱いんです、だから一番最初に入れてください、まさか後回しなんてそんな冷酷なことをしませんよね? って割り込みかましてくる親とか」
「あぁ、情に訴えようとしてて、あれは散々だったな。周り病弱な子どもを盾にされると強く出れないのをいいことにして」
「あの後、皆平等に待ってるだろ! ってご高齢の男性が怒り心頭で詰め寄ったと思ったら、興奮のし過ぎで倒れてすごく大変だったし」
「救護室もドタバタしてたな」
「こっちは仕事中だって言ってるのに、ナンパもひどい! しかも同じオジに粘着されてて、訳の分からないメッセージカードとか何枚も渡されてるし!」
「おい、それは聞いてないぞ」
本当にうんざりしているのだ。ハルアは無理矢理押し付けられたカードの中身を思い出して、ぞっと鳥肌を立てる。
“ハルアちゃん、僕の気持ち受け取ってくれたカナ? ハルアちゃんは恥ずかしがり屋さんだから、僕がリードしてあげなきゃネ”
“ハルアちゃんの気持ち、いつも届いてるヨ。今度、海辺のリストランテの予約が取れたカラ、そこでじっくり語りあいたいな”
こんな調子のカードが、神殿に来る度に手渡されるのだ。
何しに神殿に来てるのだ。聖女への面会申請ではないのかと言ってやりたくて堪らないが、下手に刺激するのも怖い。
「うわーん、思い出しただけで気分悪くなる~」
「ハルア、そいつが来たら今度はオレを呼べ。対応してやらないこともない。そういうヤツは自分より強いオスが出てくるとひゃんひゃん情けない鳴き声を上げながら逃げ出すものだ」
「それはぜひお願いしたいところだけども」
とにかく、ハルアはもう嫌気が差しているのだ。疲れているのだ。今月は特に問題のある訪問者が多かったのだ。
「ウルク」
ハルアは美しい顔の神獣を見上げる。
「何だ」
「疲れた」
そうして、素直な心情を申し上げた。
「そうか」
それに対する返答は素っ気ない。ムッとして、ちょっと強めの声を出す。
「そうかじゃない、お仕事して!」
「…………」
しかしウルクは嫌そうに視線を逸らし、ハルアの求めに応えてくれなかった。
「――今日契約特約条項その二」
仕方がないのでそう呟くと、銀色の耳がピクリと反応する。
「受付業務専従者には特別手当として、心理的負荷解消を目的に特務パートナーを付けることとする」
「…………」
ウルクはまだ視線を合わせない。ゔ~と喉が嫌そうに低い唸り声を鳴らす。
「ウルク」
駄目押しでハルアが名前を呼びかけると、今度は大きな溜め息が響いた。
「分かった、分かった、分かったよ! 相手すればいいんだろ!」
ぼふん! と大きな音を立てて、ウルクがその姿を解く――――
◆◆◆
「ひゃー! ふわさら~! もっふもふ~!」
遠慮がない。恥じらいもない。全く以て、意識というものをされていない。
ウルクは無遠慮に首や腹やお尻の辺りを撫で回されながら、虚無の状態で辱めに耐える。
まったく破廉恥な! と思うが、当の本人はいつまでたっても自分の行いを顧みないのだ。
「最高、これがあるから何とか耐えられる、私と仕事を繋ぐ、唯一の命綱……」
うっとりした声音ながらも、内容は割にギリギリな感じだ。
ハルアが日々ストレスを溜めていることはよく知っているつもりなので、ウルクもこの辱めに耐えているのである。
――――そう、神獣たる自分が獣型に姿を解き、好きに撫で回されるというこの状況を。
「全く、オレほど気安く情け深く心の広い神獣はいないんだからな」
他人には、特に仲間には絶対に見せられない姿だ。
横たわり、時に腹を向けて、身体の至る所をもみくちゃにされる。首や腹に顔を埋められて、すーはーされる。
「心得ております」
ハルアはそう言うが、本質的にはやはり分かっていないだろうなとウルクは思う。
繰り返すが、ウルクは神獣だ。誰にもそう簡単には靡かない。聖女相手だって、そう気安くは接しない。
それを、このハルアだけに許しているのだ。
どれだけ特別なことか、自覚が足りなくて本当に困る。
「ワフっ!? ハルア、こら、匂いを嗅ぐな、耳も弄るんじゃない」
「えぇ、でもウルク、耳のとこ、好きだよね」
「誰が好きだと……」
「今日どこか日当たりの良いところでお昼寝でもした? お日様のいい匂いがする」
「職務中に昼寝するヤツがあるか。会議室の日当たりが良かっただけだ」
「そうか~」
一般職員が神獣を撫で繰り回しているという、見る人が見れば卒倒するであろうこの状況。
これもハルアが受付業務専従者となる際、特別に交わされた異例の契約条件だった。
本人も先ほど言っていたが、専従者が負うその精神負荷の緩和を目的にアニマルセラピー的な意味で特別パートナーが設けられる。普通、これは本当に動物だとか、珍しくはあるがこの世に少数存在する獣人が宛がわれるものなのだが、本当に特例の特例で、ウルクがその役を担うことになったのだ。
「あぁ、いい匂い~」
「だから嗅ぐなと」
「ウルク、今度お風呂入ろ」
「はっ!?」
「洗ってあげる、いいシャンプー仕入れたの。それでね綺麗に乾かして、ふっかふかの毛並みにしてあげるね」
「…………」
ウルクの心を、ハルアは知らない。
それどころか、自分のことすらろくに知らない。
自分が就いている受付業務専従者という仕事が、誰にでもなれるものではないということを分かっていない。
ウルクをモフる権利を始め、様々な手当てが(実務に対してもっと付いてもいいとウルクは思うが)、何に対して支払われているのかもそこまで分かっていない。
なんせ、迷惑な訪問者を強制退去させているあの術を、エントランスに仕込まれた自動の防衛魔法だと思っているくらいだ。この調子だと、一生気付かない。
アレは、ハルア自身が発動している、ハルアにだからこそ扱える特殊な防衛魔法なのだと。
当の本人が無自覚な特殊能力を買われて、ハルアは新人ながら受付業務専従者のポストを与えられた。ハルアが問答無用でヤバイ相手を追い返してくれることで、神殿は余計なマンパワーを割くことなく、実に効率的に神殿内の治安を維持している。聖女の日々の安寧が守られているのだ。
今では、神殿の安寧を守る存在として、密かに“裏聖女”などとまで囁かれている始末。
「あ、ウルク、お風呂嫌いだった?」
「ハルア、お前なぁ……」
溜め息を吐くしかない。
本当に自覚が足りていない。
今は獣姿だが、ウルクは人型の姿も取る。感覚は獣であっても人であっても記憶として残るのだ。
毛皮があればハルアは気にならないのかもしれないが、こんなにもあちこち撫で回す行為をしている最中、一瞬でも人の姿の自分を思い出しはしないのだろうかと、いっそ不思議なくらいだった。
思い浮かべて、赤面して、恥じらえばいいのに。
お前はオレの特別だと、そう自覚すればいいのに。
そう、特別。
ウルクはハルアを特別扱いしている。
とんでもない新人がいるらしいと聞き、気まぐれに覗きに行ったその先で、ひと目でこの娘を気に入った。聖女なんかよりもずっと強烈に。
だからハルアだけにアレもコレも許しているのだ。
気さくに言葉を交わすのも、求め一つで獣姿になることも、撫で繰り回されても文句を言わないことも、無防備にふかふかの腹を見せることでさえ。
「うっとりする毛並み、一生触ってたい……」
ハルアが首元にぐるっと腕を回し抱き着いてくる。華奢な指先がふっかりとした毛並みの中に沈み、さわさわと絶妙な加減でくすぐってきた。
ぐるぐると喉が鳴るのを、ウルクは自分の意思ではもう止められない。
気持ち良いのは、癒されているのはハルアだけでないのだ。
恰好がつかない、人には絶対見せられないとは思いながらも、ウルクもハルアに触れられるとうっとりしてしまう。
「……ハルア」
どれほどそうされていただろうか。
もう今日は終いだと、ウルクは身体を軽く揺らした。
「ハルア?」
「――――」
けれど呼びかけても返事がない。
代わりに、耳を澄ませばすーすーと規則正しい深い呼吸が聞こえた。
「おい、ハルア、まさか寝たのか? 寝落ちなのか?」
そのまさからしい。
はぁあぁと深い溜め息を吐いて、ウルクは慎重に身体を動かしハルアの位置を調整する。そうして、獣から人へとその姿を変じさせた。
「全く、仕方がない。世界広しとは言え、神獣を枕代わりにするのなんてハルアくらいだろうし、それに怒らずわざわざ運んでやる神獣もオレくらいだぞ」
横抱きにして立ち上がり、ハルアの代わりに勤務時間の記録を付けてやる。
「……転職したい、なぁ」
先刻の本人のぼやきを思い出すが、まぁ無理だろうなというのがウルクの見立てだった。
そう簡単には辞められない。神殿側は無敵の防壁たるハルアを、手放さないだろう。あの手この手で囲い込もうとするに違いない。
逆恨みされている可能性が高いから、辞めたら危険だというのも本当の話ではある。だが、実はハルアには認識阻害の術をウルクが掛けているので、“本当の顔”は訪問者たちは知りようがないのだ。なので、実際にはそこまで危険な状態にはなかったりするのだが。
「まぁ何はともあれ、他の誰よりこのオレがハルアをここから逃す気がないんだよなぁ」
神殿受付嬢の受難の日々は、どうやらまだしばらく続きそうである。
《了》